学位論文を考える2011年07月31日 12時23分13秒

前期最後の公務は、29日に行われた、博士論文のプレ発表でした。すばらしいものが複数あり、新ドクターの誕生を期待しています。私はご存知の通り何人もの候補者を指導しておりまして、今年はぜひとも2人、恵まれれば3人のドクターを出すことを目標に掲げてきました。しかし手を挙げた人たちのうち複数が辞退し、目標を達成できないことがはっきりしました。やはり博論ともなると、簡単にはいかないですね。

音楽学、音楽教育学の学生は論文1本で審査されますが、実技の学生は実技+論文で審査されます。したがって、論文に求められる要求にも違いがあります。どこまで要求されるのか、という質問もよくいただきますが、最低ここまで、というラインを引くことはむずかしく、具体例が出てきたときに考えていくほかはない、と思っていました。しかし今回、分野が違っても博士論文の条件になることはこれかな、とかなり思いが定まりましたので、そのことを書きたいと思います(私の個人的な意見です)。

それは、研究は解説とは違う、ましてや概説や紹介とは違う、ということです。もちろん、研究と解説には重なり合う部分も多くあり、その区別は、容易ではありません。ある意味では、そのことを理解すること自体が、研究の発展であるとも言えるでしょう。振り返れば私も、勉強の過程で少しずつ、そのあたりを会得していったように思います。いずれにしろ解説では、どんなに字数を費やしても、学位の取れる論文にはならないのです。

どう違うか。解説というのは、対象を当然の前提として、それについて「わかったこと」を幅広く、わかりやすく伝えることを目指す。悪い意味ではなく、上から下への方向です。

研究は逆で、対象そのものが謎となり、その何を解明したいかが、テーマとなる。そして資料だの先行研究だのを使いながら、対象の「わからないこと」に、一歩ずつ迫ってゆくという、下から上への営みになります。得られる知見は新しいものですから、研究者が下した判断は厳密でなくてはならないし、検証可能なものでなくてはならない。こうしたプロセスが反映されて、論文が出来上がっていくのです。どんなテーマと向き合い、それを何によってどう調べ、どういう考えからどう判断したかを記述することが、論文には欠かせません。

こう言うとすごくたいへんなようですが、資料の引用であれ仮説の提示であれ、自分の書いたことが本当にそう言えるかどうか1つ1つ考える習慣をつければ、前進できると思います。コツがわかれば、けっしてむずかしいことではないのです。魅力的な考え方が提示されているようであっても、都合のいい材料だけを集め、整合しないものを切り捨てるというのではだめで、これも、よくある誤りです。不都合な材料も明示し、併せて考えてゆくことで、論文の厚みが生まれるわけです。

というわけで、学位を大事に考え、しっかりしたものをしっかり評価したい、という発想で取り組んでいます。これから挑戦される方も、ぜひがんばってください。