最近の読書から ― 2008年09月19日 23時42分25秒
ここしばらくの間に読んだ本で抜群に面白かったのは、日高敏隆さんという動物学の先生の書いた『動物の言い分 人間の言い分』という新書(角川oneテーマ21)です。動物の姿や行動のひそめている理由をさまざまに解き明かし、なるほど~、と、目から鱗が落ちる思いを再三経験させてくれました。
ネタの面白さに劣らず感心するのが、文章。たとえばある章は、「キリンの姿は想像を絶するものである。」と始まっています。この簡潔で要を得た表現に感心してしまい、何度も反芻。続いて、こんなに背が高く、心臓と脳の離れた動物がどうしてちゃんと生きていられるのか、という問題提起へと進むのです。勉強になりますね。
たくさんの話題の中でいちばんへえと思ったのは、上下が逆に見えるメガネをかけて暮らしてみた人の話。1週間経つと脳が覚えて、逆転していた像が正常になったそうです(!)。したがって、メガネをはずしてから倒立している像が正常になるまで、また1週間かかったとか。感覚の部位と脳は自立しているんですね。
学問とは何か、を知るために ― 2008年07月07日 23時02分08秒
尊敬する友人、関根清三さん(東大教授)が、すごい本を書きました。『旧約聖書と哲学--現代の問いのなかの一神教』(岩波書店)というものです。
関根さんは、昨今優勢な歴史学的解釈に対して哲学的解釈の復権を唱え、旧約聖書から、今日なお有効なメッセージを救い出そうとしておられます。旧約のマソラ本文や七十人訳、アリストテレスや現代各国語の哲学に及ぶ膨大なテクストの読み込みに圧倒されるのが、まず第一歩。声高な一神教批判とも真摯に向き合いつつ熟慮を重ねる誠実そのものの姿勢に、深いところから心を温められてゆくのが、第二段階。読むにつれ、これにくらべたら私など何も勉強していないなあ、という思いがわき上がってきて、下を向きます(←掛け値ない実感)。でもそう思えることが、不思議なうれしさを伴っているのです。
学問とは何か、哲学とは何か。わからなくなったら、この本を読むのがお勧めです。古今の先学に学びながら、重要な問題を批判的に、良心的に徹底して考えてゆく著者の姿勢が、その答になることでしょう。本物と偽物の違いも、わかるようになるはずです。
新読書法実践中 ― 2008年04月29日 22時15分01秒
成毛眞さんの『本は10冊同時に読め!』(4月21日参照)に触発されて、3冊の本を平行して読み進めることにしました。これ、案外いい方法ですよ。
3冊は同時購入するのがよく、その場合、すべて別ジャンルから選びます。私はミステリーを読み始めるとミステリーばかりになり、無名の友人、齋藤正穂君などに比べて知識が狭いきらいがありましたから、必ず別ジャンル、というノルマ設定は有効。読み始めたら、どんなに面白くても、1章ごとに別の本に移るようにします。そうすると緊張感が持続し、結果的に、速く読めるのです。
先週末の3冊は、羽生善治『決断力』(角川)、夏樹静子『光る崖』(光文社)、中川右介『カラヤン帝国興亡史』(幻冬舎新書)でした。松本清張を読み尽くした今、以前からファンだった夏樹静子に回帰していますが、『光る崖』、続いて手に取っている『白愁のとき』、どちらもたいへんいい。丁寧に、綿密に仕上げられていて、女性の心理描写など、心に迫るものがあります。夏木さんのミステリーは、最後にどんでん返しが(場合によっては二重に)あるものが多く、こちらもそれを想定して読み進めるのですが、『光る崖』では話が完全に終息に入っているのになお多くのページが残されており、これでどうなるのかと、興味津々。要するに、大きな年譜がついているのでした(笑)。
カラヤンのも面白かったですね。膨大な情報をもとに簡潔かつスピーディーに記述されていて、事柄そのものに語らせる手腕が巧み。私にとってはもはやまったく過去の存在であるカラヤンですが、自分のクラシック体験史(基本的にアンチ)を振り返りながら読みました。
本を読まなくちゃ ― 2008年04月21日 22時28分53秒
最近本を読まなくなったなあ、と反省しているのですが、本を読まない人間となど付き合う必要はない、とキッパリ書いてある本に出会いました。マイクロソフトの社長をされていた成毛眞さんの『本は10冊同時に読め!』(知的生き方文庫)です。読書の効用、人生の楽しみ方、無駄を徹底して省く方法などが、切り捨て御免の痛快な文章で綴られている。こんな凄い人だとは知りませんでした。
これだけ煽られると、こちらも腰を上げます。ある授業で、いろんな読書法をみんなで持ち寄り、ディスカッションをすることにしました。勝間和代さんの『効率が10倍アップする新・知的生産術~自分をグーグル化する方法』(ダイヤモンド社)というのも良かったなあ。あ、これ、帯状疱疹で休養している間に、時間を無駄にすまいと読んだ本の1つです(笑)。みんな、こういう時代でも、本当に本を読むんですね。
もう1冊。野村克也監督の『巨人軍論』。野球は個人技では勝てない、組織作り、人間作り、データ収集による高度の理論化が必要、ということが、(本人の文章ではないようですが)説得力をもって整然と述べられています。初版が出たのが、2006年の2月。2008年の4月に読むと、しみじみと価値がわかります(笑)。
バッハの信仰(1) ― 2008年03月28日 23時27分54秒
私の尊敬する神学者で、図書館長の先任者でもあった小田垣雅也先生の新著を読み、大いに感じるところがあったので談話に書きたい、と思っていました。
ところが、肝心の本がここしばらく見つからない。仕方がないので、署名だけでも正確に、と思い、検索してみると、先生の主宰しておられる「みずき教会」のホームページがあるのですね。そこに毎週の説教が、文章化されてアップされていることがわかりました。判明した正式の著作名は、『友あり--二重性の神学をめぐって』というものです。
同時に気づいて驚いたのは、私がメールでお送りした感想についてのコメントが、説教の中で言及されていたことです。すっかり先を越されていたわけですが、大事なことなので、こちらでも書かせていただきます。ちなみに私の談話とかかわる説教は、「信と不信」「Kさんから贈られたイースター・エッグ」の2つです。検索は、「みずき教会」でなさってください。
小田垣先生は、人生においてキリスト教信仰を深めてきた方です。そうした方が、自分の信仰には、信じられないこともたくさん含まれている、不信の要素を切り捨てることのできないのが自分の信仰だ、とおっしゃるのです。信と不信の共存、両者のダイナミズムの中に、生きた信仰の形がある、とも。
私はこの率直な述懐を読んで、電気が走るような思いをしました。なぜならこれは、私が最近「バッハのやわらかな信仰」という言葉で述べ、十分説明できていなかったことと同じことを述べている、と思ったからです。(続く)
切れ味のいい文章 ― 2008年03月11日 22時55分37秒
本や雑誌を読んでいて、「ムム、できるな!」と思うことがあります。いつぞや、週刊文春の女性政治家に関する記事を読んでいたら、切れ味のいい文章力で前後にきわだった寄稿がありました。著者は、横田由美子さんという方。本屋で『ヒラリーをさがせ!』(文春新書)という本を見つけたので、さっそく購入しました。
これが、圧倒的に読ませる。日本の女性政治家に取材し、それぞれの人となりや活動の仕方、彼女たちを取り巻く状況について書いているわけですが、細かなところまで観察した上で、目に映る長所も短所も、遠慮なく言葉にする。そこまで書かれたくない、と思う人も多いことでしょう。しかし、けっして貶めてはいないのです。突っ込んで描くことを通じて、対象のたぐいまれな個性やその不思議な魅力が、しっかり伝わってくる。そして、長所の裏にある短所、短所の裏にある長所を、かならず見ている。私が感心するゆえんです。音楽の世界でもここまで書いたら面白いでしょうが、勇気と手腕と愛情が、相当なレベルで必要ですね。
あとがきに、日本の女性政治家には良い意味でも悪い意味でも権力に対する強い固執が感じられない、と書いてありました。アメリカのご本尊は、この点すごいですね。報道によると、対抗馬になりふりかまわぬネガティブ攻撃を仕掛け、相手の側に類似のことが見つかると、「恥を知れ」とキレたとか。こういう人が超大国の「最高司令官」になるのは、ずいぶん怖いことではないでしょうか。
松本清張 ― 2008年02月24日 22時35分50秒
推理小説が好きで、しばしば現実とミステリーを混同します。けっして幅広く読んできたとは言えませんが、絶対これ、と思うのは松本清張。長編はすでにほとんど読んでしまい、短編に読み残しがある程度です。歴史物は、何となく波長が合わず、ほとんど読んでおりません。
作家多しといえども、清張が群を抜いているのは、人間の悪意への洞察です。そしてそれを容赦なく文章にする徹底性、勇気。悪意を描くというのは、いい子になろうとする人には、絶対にできないことだからです。
清張は社会派とされ、社会の悪を描くところに本質があったかのように言われていますが、私は、個人の悪を描くことにこそ、彼の本領があったと思う。もちろん、それは社会の悪とつながり、混じり合って描かれるわけですが。悪いのは個人ではなくて社会だ、というような人権主義(?)は、清張にはないように思います。
その意味では、最初に犯人が登場し、だんだん犯罪が露呈して追い詰められていく、というタイプ(倒叙もの)の方が、未知の犯人を推理していくタイプより、ずっと面白い(と思う)。犯罪者の心理描写が中心に置かれるからです。悪意の変遷が追跡されれば、最後に犯罪を犯す、という形でもいい。主人公が大学教授ともなると、もう最高です(笑)。
というわけで私が推薦するのは、長編なら『落差』『黒い福音』『わるいやつら』。短編なら『カルネアデスの舟板』あたりかな。でも、学者、評論家、学会は、悲しいぐらい、ほとんど悪役です。ほんとは、そんなに悪い人ばかりじゃないんだけど(笑)。
双葉山 ― 2008年02月12日 23時57分14秒
前話で、「未だ木鶏たり得ず」という言葉を使いました。これは、不世出の大横綱、双葉山が、69連勝を阻まれたときに打った電報の言葉です。闘鶏がまるで木彫りのように落ち着いたときに最高の境地に達したという中国の故事を受けて、勝負師は力みのない淡々とした心境に達して、初めて究極の力を発揮できる、ということを言うようです。そういえば将棋の大山名人の著書にも、勝ちたいという意欲が先立つのは力みを生ずるので禁物だ、と書いてありました。
どうしてそういう話題が出てくるかといいいますと・・。療養の間に読もうと、数冊の本を買いました。その中に、『横綱の品格』という、ベースボールマガジン社の新書があった。双葉山の旧著を、大鵬の序文を付けて復刻したものです。双葉山が自分の生い立ちや相撲人生、相撲に対する考え方を綴った本で、おそらくライターが取材をまとめたものでしょう。
相撲の本でも読んでみるか、と軽く買った本ですが、これがすばらしい。努力を重ね、その世界で長く頂点に立った人の尊厳のようなものが、素朴な語り口に満ちあふれているのです。自分に厳しく人にやさしい、まっすぐでおおらかな、日本男性。爽やかで、心が洗われます。
こういう人って、昔の日本にはいたが、今の日本はいなくなりました。彼が活躍したのは、昭和の戦前です。ということは、暗い時代として批判ばかりされる当時の昭和も、今にないよさをもっていた、学ぶべきことのある時代だということになるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
双葉山は56歳で亡くなったそうです。若すぎますね。
むずかしい二人称 ― 2008年01月28日 23時34分31秒
高島さんの本に、「日本語に二人称なし」という項がありました。日本語には二人称がなく、あらわすには、ほかの言葉を使う。知らない人や目上の人をあらわす二人称がないことでは、不自由する場合もある、と書いてありました。
なるほど。メールでも、目上の人に「貴兄」じゃおかしいし、さほど親しくない女性に「貴女」じゃなれなれしいし・・。それ以上に考え込んだのは、カンタータや受難曲、あるいはドイツ歌曲の歌詞を訳すとき、この問題でいつも困っていた、と思い当たったからです。
話をバッハのドイツ語歌詞に限りましょう。歌詞のように、少ない言葉で一語一語の意味をもたせている場合、意訳には限度があります。日本語の流れに持ち込んでしまえばわかりやすいことは確かですが、もとの単語が音楽によって生かされている場合などには、ピントがぼけてしまう。かといって単語対応を丹念に生かすと、文意が取りにくくなりますし、読む人が読むと、「こんなものが日本語か」と感じることになりかねません。
最重要単語の1つ、Gott。呼びかけの場合、敬語の発達した日本語で、「神」ということはまずないでしょう。「神様」です。Jesus。「イエスは彼に言った」とはいわず、「イエス様は彼におっしゃった」ですよね(「彼」も変ですが、ここはがまんしてください)。でもドイツ語は Jesus sprach zu ihm で、どちらも同じです。
"mein Gott"、"mein Jesu(s)"というのも、よく出てくる。この場合はどうでしょう。単語対応させれば「私の神」「私のイエス」ですが、日本語ではまず、そう言わない。「私の」を付けない方が自然です。「私の」であることが前後から明瞭な場合には、付けるべきでないと、会話や説明的な文章の場合には、言うことができる。妻を紹介するとき、向こうなら「マイ・ワイフ」(マイネ・フラウ)ですが、日本で「私の」と付けたら、変ですよね。
ところが、この"mein"に気持ちがこもっていることが、歌詞ではよくあるのです。”Mein Jesu, gute Nacht!"は、「イエスよ、おやすみなさい」と自然に訳すか(一般化されるので「気持ち」は出なくなる)、「私のイエスよ、おやすみなさい」として気持ちを出すか、むずかしいところです(「イエス様、おやすみなさいませ」というのもありでしょうか)。パーセンテージのかなりを占める所有形容詞を、訳すか訳さないか。いつも迷い、そのときの判断でどちらもありにしている、というのが正直なところです。
名勝負 ― 2008年01月27日 23時38分35秒
今日の白鵬VS朝青龍戦、すばらしかったですね。両者の風格といい、にらみ合いといい、四つ相撲の力戦といい、往年の大横綱の一番に劣らない、みごとな勝負でした。今日国技館で観戦した人は、一生記憶に残ることでしょう。
こんな日には、無類の相撲好きだった父親のことを思い出します。もう30年前に亡くなりましたが、相撲を見るときは、テレビの前で力が入り、前のめりになったり、うなり声を出したりしていました。初代若乃花の大ファンで、負けたときは本当に、がっかりしてしまう。あまりそれが純粋なので、私は一生懸命、栃錦を応援していました(笑)。父が生きていたら、今日はどっちを応援しましたかね。ちなみに私は、白鵬を応援しました。
最近読んで面白かったのが、高島俊男さんの『お言葉ですが・・』という本(文春文庫)。週刊文春の連載が終わってしまい、残念だったので、文庫シリーズの1冊目から読み始めました。マスコミで気づいた言葉の誤用・濫用をきっかけに、正しい日本語、美しい日本語について、歴史をさかのぼりながら考えるという本です。その中に「年寄名は歌ことば」という項があり、相撲の年寄名には、よりぬきの美しい日本語が揃っている、という。なるほどそうですね。「高砂親方」その他、放送に名前が出てきたとき、純粋に言葉を考えてみてください。
相撲、上昇機運ですね。悪いツキを使い果たした効用です。評判の悪かった私の「ツキの理論」が立証されました。
(付言)先日の「たのくら」コンサート、写真を公開します。「コンサート」のカテゴリからお入りください。
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