始まる授業、終わる授業2011年09月13日 23時26分16秒

先日「自分を追い込む」などと見栄を切りましたが、いや、たいへん。連日、青息吐息です。

仕事には、疲れていてもだましだましできるものと、できないものがありますね。翻訳の修正などは後者で、集中力が乏しいと、跳ね返されてしまう。コンディションが整わないと、時間を浪費するばかりです。というわけで日曜日を浪費してしまったのですが、なんとか取り返そうと、がんばっています。

月曜日午前、ヘーゲルの授業開始。受講生の中には『精神現象学』の読書会をやっていた、などという頼もしいのもいて、ディスカッションがはずみます。午後は私のところで卒論を書いているお2人(中山早苗〔通奏低音論〕、竹林佳菜子〔ワーグナー〕)の中間発表。しっかりリハーサルをした成果で、2人とも立派にこなしました。

この日締めきりだったのが、博論です。私のクラスからは阿部雅子さんが《ポッペアの戴冠》論を提出しました。博論は関心が関心を呼んで発展する推進力が重要なのですが、阿部さんの進境は最後に来て著しく、学問の何たるかを理解し、学問を楽しむ本格的なレベルに到達していたと思います。審査は私抜きで行われますので、吉報を待ちたいと思います。

火曜日。修士2年生のオペラ専攻者の論文(研究報告)の提出が間近で、その最後の指導授業になりました。とにかく明るいクラスです。残り1週間で大事なところを書き残している人が多く、気合を入れて終わったところで花束を渡されたのには、びっくりしました。だってまだ、ひとりも書き終えていないじゃないの!ともあれ、打ち上げを絶対やりましょう、ということで、気持ちよく解散。歌曲専攻から始めて、歌曲専攻を数年、オペラ専攻を数年をやりましたが、最近の「声楽寄り」は、このあたりから始まったのかもしれません。

夜は、《ロ短調ミサ曲》の練習。校庭にドーンと出現した新校舎のスタジオを使っての、最初の練習です。大きく、立派な建物で、勉強の環境が良くなったのはなによりですが、建物は、音楽ではありません。この練習棟あっての音楽を作り出せてから、落成を喜びたいと思います。

バッハ超え2011年09月10日 12時43分34秒

バッハの命日に知人の方から「バッハ超え」を祝福されたということを書きました。私の人生がバッハより長くなったことに対する祝意です。しかし厳密にいいますと、バッハの誕生日は3月21日、私の誕生日は4月30日ですから、1ヶ月と9日、長さが足りませんでした。したがって、バッハの命日である7月28日から1ヶ月と9日後に、私はバッハを超えたことになるわけです。

というわけで9月6日に、私はめでたく、バッハの経験しなかった人生に突入しました。入院とか手術とか何度もしている私から見ますと、医学も発達していない時代に65年生き、最後まで密度高く仕事したバッハはすごいなあ、と思います。

ちょうど後期の授業に入り、ご案内した「バッハとその時代」の共同講義が始まりました。私がトップバッターで、導入のための概論を行いましたが、時間に対して多すぎる内容を熱演でカバーするという、あまり得策とは言えない(しかし私にはよくある)スタートになりました。水を打ったように聞いてくれていた学生さんも、疲れただろうと思います。

全14回(←バッハの数)の講義で、私が5回受け持ちます。2回目(15日)は歴史家佐藤真一先生の「ザクセン選帝侯国」、3回目(22日)はルター研究家宮谷尚美先生の「ルターとコラール」、その次(29日)が再度私で「バッハと神」。木曜日の16:10から5号館の113教室でやっています。どうぞ覗いてみてください。

校正に突入2011年09月06日 11時28分13秒

今日、《ロ短調ミサ曲》のゲラが出てきました。これから校正に入ります。しかしざっと見たところ、固い直訳調がまだまだ多く、簡単ではなさそうです。

すべてが順調にいったときには、10月20日ごろ出版できるとのことです。なんとかこのスケジュールで行きたいのですが、そのためには、2週間でゲラを戻さなくてはいけません。ちょうど学校も始まりますし、その時間があるとは思えないのですが、とにかくがんばります。

9月の初めに、書類をようやく整理していたときのこと。紀要論文の諸規程が出てきて、全身の力が抜けました。《ロ短調ミサ曲》に関して紀要に論文を書くことを約束し、それをすっかり忘れていたことに気づいたからです。え~、無理だよ~、と思いましたが、何とかがんばろうと思い直しました。過日イギリスの学会で発表したペーパーは日本では公開していませんので、それをベースに、今回の翻訳で学んだことをプラスして、私論に仕上げます。ご明察の通り、公表することで自分を追い込もうという作戦です。

忘れますかねえ2011年09月05日 22時33分41秒

バッハは即興演奏のとき、また紙の上の作曲でも、他人の曲や既存の曲をしばしば下敷きに使いました。このことは、なんとなくネガディヴな印象で受け取られていないでしょうか。自分で全部作り出せばもっといいのに、というように。

しかし、「何かベースがある」ということは、創作の上で大きな利得になります。とくに年を取ってからは、その利得が大きくなる。ゼロから生み出すという力業をしないでも、経験を生かせるからです。こんなことを言うのは、私も最近は、ベースになるものを改善発展させるやり方に傾いているから。ああ、バッハもそうだったんだなあ、などと思うことがあります。

「ミュージック・ウィークス・イン・トーキョー」というイベントの合唱コンサートのために、解説を依頼されました。曲は、ブルックナーの《テ・デウム》と、モーツァルトの《レクイエム》。ブルックナーは一度も書いたことがない曲なので「力業」を覚悟しましたが、《レクイエム》は昔書いたものをベースにできると思い、探してみました。

しかし意外や、パソコンを使うようになってから、一度も書いたことがないようなのです。今回は、レヴィン版を使用。そこで、「レクイエム レヴィン」と入れて、グーグル・デスクトップ検索をかけてみました。

すると1つのファイルがヒットしました。開いてみると、プラート、ヴォルフ、リリング、フロトホイスといったそうそうたる先生方が、レヴィン版をどう考えるかについて、白熱した議論を戦わせている。へえ、すごいなあと思って気がついてみると、なんとその議論を司会しているのが、私なのです。え~これなんだっけ、と思って気づきました。これは、1991年に国立音大で、海老澤先生の主宰で開催した「モーツァルト国際シンポジウム」のセッション記録だったのです。

調べてみたところ、出版された報告書「モーツァルト研究の現在」に、しっかり掲載されていました。ヴォルフ先生の「モーツァルトの《レクイエム》--事実とフィクション」というすばらしいペーパーも、私の訳で掲載されている。それをケロリと忘れていたわけですから、ひどいですね。加齢と飲酒によってあらかた失われた私の記憶力、専門領域ではまだまだと思っていたのですが、そんな甘いものではないようです(汗)。

あついぞ??熊谷2011年08月29日 23時57分42秒

お暑うございます。不肖私、今日、熊谷に行ってまいりました。

人生に残された時間を考えると、何事も経験しておきたい、と考える、最近の私。「日本一」の対象ともなると、なおさらです。そこで気になってならないのが、熊谷。暑さをテコに町おこしをしている、との情報もあり、できれば8月のうちに訪れてみたいと思っていました。

出発は、長野から。カッとした日差しで、今日はとくに暑い、という話でしたので、長野新幹線の帰り道、昼食がてら下車するのに絶好、と判断しました。イメージがふくらみます。駅を出たところに、大きな温度計が立っているのではないだろうか。その横に、「本日の順位」という看板があるかもしれない。、市民の方々はきっと、暑さなにするものぞと、気概にあふれた目で、町をぐいぐいと歩いておられることだろう。グッズを販売するおみやげ屋も、並んでいるのではないだろうか。なにしろ、北埼玉随一、20万の都市なのです。

午後2時という絶好の時刻に、熊谷に着きました。駅前に降りてみると、温度計は見当たりません。ワッと身体を包む暑さを警戒していましたが、とくに暑いとは思えない。町は静まり返っていて、強い目で歩いている人は見当たりません。

拍子抜けしましたが、考えてみれば、一番暑い時間帯に外を歩く必要はないわけです。にぎわいは、夜始まるに違いない。だって、夜明かりの灯る店が、けっこう並んでいるのです。歩いているうちに暑さを感じ始めましたが、それは、風がまったくないから。おみやげ屋は見当たりませんね。どうやら、町おこしはまだこれからのようです。私が訪れるぐらいなのだから、ずいぶん来る人もいるのでしょうけれど。

あとでわかったこと。今日は関東は涼しく、熊谷の最高気温は31℃だったそうです。なあんだ、せっかく行ったのに。また、熊谷の中心は上熊谷駅の近くであるらしく、熊谷駅の周辺をちょこっと歩いたぐらいでは、町の真価はわからないようです。これからの町おこし、期待しています。

8月最後の週末2011年08月27日 23時12分09秒

今、テレビのニュースでモーツァルトの《ケーゲルシュタット》(!)を、皇后陛下がシュミードル(元ウィーン・フィル)らと演奏している情景が流れました。皇后陛下、ピアノお上手ですねえ。

8月も最後の週末になりましたが、今年ほど息が抜けないというか、ずっと焦っている8月はそうなかったんじゃないか、などと思っています。今日は午前と午後、朝日カルチャーの新宿校と横浜校をハシゴし、夜はサントリーホールへ。今週ずっとサマー・フェスティバル(現代音楽祭)をやっていて、今日が、私の聴く3つ目のコンサートでした。今年のテーマは映像、テーマ作曲家は中国のジュリアン・ユーで、たいへん面白いです。よくこうした超硬派なコンサートを大々的にできるものだと、感心します。

帰り道タワー・レコードに寄り、放送用、講演用に、またあれこれと購入しました。ドイツ・ハルモニア・ムンディの「~エディション」というコレクションが安いので、ルネ・ヤーコプスのもの(10枚組で2490円)、カントゥス・ケルンのもの(10枚組で3190円)、フライブルク・バロック・オーケストラのもの(やはり10枚組で3190円)などを購入。どれも半分以上手持ちしていますが、それでもお買い得、と判断しました。演奏者にとっては、こうした集成はありがたいのではないかと思います。

明日は須坂です。長野で大きなイベントがあるらしく、新幹線の指定が全部アウト。前途多難です。

千疋屋の花束2011年08月19日 00時56分47秒

久々に都内へ。推奨の「アルファウェーブ」新橋店で、マッサージに身を委ねました。ここは本当にいいです。いつもお願いしている河本先生は私の身体を熟知しておられ、本当に行き届いた治療をしてくださいます。今日は、疲れていたこともあり、陶然とした快感の別世界感が強く、なかなか「生還」(←河本先生の言葉)の実感をもてませんでした。

酷暑の中をふらふらと外に出ると、東京が、輝いて見えます。レストランを探しながら、銀座まで散歩。東京大好きだなあという実感が、湧き上がって来ました。私は4歳まで東京にいて、それから長野県に移りましたので、「東京ふるさと」の気持ちは、子供の頃から強烈にもっていたのです。もちろん当時の東京は今とはとても違い、歌謡曲に出てくるような東京であり、銀座であったのですけれど。

銀座三越で買い物と食事をしてから、三越前の理髪店「イガラシ」へ。三越と「イガラシ」の中間にある千疋屋本店で、お祝い用のアレンジメントを購入しました(待ち時間に提供してくれたレモンジュースが絶佳)。なぜかというと、今日は「イガラシ」さんの開店記念日なのです。そのことは妻に指摘され、もちろん私は覚えていませんから、なんで覚えているんだ、といぶかしむと、毎年カレンダーに書き写している、という返事に驚嘆。じゃあ花束でも、ということになったわけです。

というわけで、花束持参で散髪に行きました。お店のご家族は、「先生、覚えていてくださったんですね!!!」とひじょうに喜んでくださり、帰り際も、「覚えていてくださって」っと、重ね重ね感謝してくださいます。私は満面の笑みで、覚えていた理由は言わずに、お店を後にしました。するとまもなく、妹さんが追いすがってくるではありませんか。何ですか、もういいですよ、と振り返ったところ、まだお代をいただいていない、というお言葉。慣れない善意がこれですべてパアとなる、この一日ではありました。いつも、詰めが甘いのです(汗)。

一番2011年08月18日 01時59分14秒

暑いですね。これで電力が足りているのですから、我慢しておられる方が、たくさんおられるのだと思います。なにぶん情報社会の日本、今日日本でどこが暑かったか、すぐわかります。ご承知のように、熊谷と館林が争っているわけです。これなどは、知らなくてはわからないことですよね。もっと南の地域は、たくさんあるわけですから。

私は大宮にも高崎にも住んでいたので、熊谷(埼玉県)にも、館林(群馬県)にも、違和感はありません。でもそこが酷暑の地域とは、近くに住んでいた頃は思いもよりませんでした。でも皆様、一番は熊谷で、二番が館林、と思っておられませんか?私の親しい方、しかもよくコメントをくださる方が館林に住まいをお持ちのものですから、熊谷が一位、と聞くたびに、はらはらしていました。

でも今日、テレビで学んだのですが、たまさかの酷暑の日に最高記録を取るときには熊谷が一位になるが、さほどでもない時の日本最高気温は、ほとんどが館林で記録されている、というのです。だったら館林を日本一にしてもいいのではないかと思いますが、いかがでしょう。

こう書いていて、「なぜ一番じゃなくてはいけないのですか、二番でもいいじゃありませんか」という、話題の発言を思い出しました。でもやっぱり、一番を目指したいというのは、人間の大切な気持ちですよね。高校野球の季節柄、そう感じます。トータルで一番ではなくとも、かけがえのない自分を主張したい、というのでもいいわけです。

館林に行ってみたいと思いますが(高崎に住んでいた小学生の頃に一度行きました)、どういう観光の楽しみになるのかがわからず、まだ訪れていません。でも、日本最寒というよりも、ユーモアがありますよね。住んでおられる方は、冗談じゃないぞ、とおっしゃるでしょうが・・・。

最後モード2011年08月12日 22時29分42秒

尊敬する友人(外国在住)からメール。そこに、今年のブログは寂しいパッセージが多く、読んでいて心が沈んでしまう。と書いてありました。え!?最後だ最後だとばかり書いていますから、そう思われたのでしょうか。日々を大事に過ごそうと思っているあらわれで、悲観的になっているわけではありません。嬉しい最後、ほっとする最後もありますし。

11日の金曜日には、遅ればせながら、《ポッペアの戴冠》東京公演の打ち上げを、ウィーン留学されるお二人の送別会を兼ねて行いました。「響」新宿野村ビル店(49F)のすばらしいロケーションでたいへん楽しい会になりましたが、門下の重鎮(?)がここで二人いなくなるのは、たしかに寂しい感じもありますね。帰ってくると、私はもういないわけですから。「送別会じゃなくて壮行会じゃないの?」というご指摘をいただきました。確かに(汗)。

もうひとつ、最後モードを高める強力な材料があることに気づきました。いつも書いている、《ロ短調ミサ曲》の翻訳です。ここには、死期近いバッハの集大成という観点が、ヴォルフ先生の鋭利な分析によりいやが上にも強調されているので、ついついそれに同調してしまっているのです。時間との競争で仕上げられた最後の作品を、死んだバッハと同じ年齢の人間が、現役最後の年に、時間と競争でやっている。出来すぎのシチュエーションですよね(笑)。

明日はないと思って生きるのが最上の生き方だ、とよく言われます。ちょっと、わかった感じがします。

晩節2011年08月05日 23時55分32秒

松田選手が亡くなりましたね。若くして亡くなるのは本当にお気の毒ですが、私はサッカーのことはよく知りませんので、それ自体に感慨があるわけではありません。ただ、オッと思ったのは、松本のサッカーチームが「「山雅」という名前であること。これって、私の名前の後半と同じですね。松本は、ご承知の通り私が思春期を過ごしたところですので、この一致には因縁というか、結構感じるところがありました。

なんとか翻訳原稿をお盆前に入れてしまおうと、今日は猛烈に作業しました。翻訳していてなるほどなあ、と思った一端をご紹介します。最新の「蛍光分析」を用いた自筆譜研究によると、《ロ短調ミサ曲》は厳密には完成されておらず、歌詞振りなど、細部に仕上げられていない部分があるのだそうです。ヴォルフ先生によると、バッハが危険を承知で実験段階の目の手術を受ける決心をしたのは、もう一度仕事のできる環境を取り戻そうとしたからであり、そのひとつの理由に、《ロ短調ミサ曲》にさらに手をかけたいという気持ちがあったからではないか、とのこと。視力を失ったバッハの気持ちはどうだったのか、あまり考えたことがないことに気づきました。

それとも重なりますが、人間大切なのは、引き際です。やめる人間が今のうちに国の将来を決めておこう、人事を発令しておこう、というのは、私は絶対におかしいと思う。それは、次の人にまかせるべきです。いろいろな人の引き際を見てきましたが、影響力を残そうという気持ちほど、晩節を汚すものはないと思います。