バッハの信仰(2) ― 2008年03月30日 22時41分46秒
小田垣先生は、信/不信の二重性、という表現を使われます。これを自分流にわかりやすく言い換えると、信仰には懐疑がつきものであり、懐疑が存在することによって、信仰はむしろ深いものになる、ということになると思います。
こういうことを礼拝の場でおっしゃる小田垣先生は、すごいなあと感嘆します。ずっと昔、教会や集会のようなものに足を運んだとき、いつも言われるのは、疑わず信しるのがいい、子供のように受け入れなさい、ということだったからです。そういうことを勧めた人は、懐疑を含まない「堅い信仰」の持ち主だったのだろうか。あるいは、内面では懐疑をもっていたが、立場上、建前を述べていたのだろうか。もし後者であるとすれば、その人は、懐疑を含まない信仰こそが理想的なものだ、と考えていたことになります。
バッハは、どうでしょうか。バッハの教会音楽と長いこと向かい合ってきた私が最近確信するに至ったのは、バッハはそのような懐疑の持ち主であった、ということです。
バッハのカンタータは、その多くが、現世の悩みや死への恐れにさいなまれた魂が、聖書に書かれたイエスの言葉を発見し、慰めにもたらされる、というドラマトゥルギーをもっています。私は、こうした筋立てを、不信の小羊を教え導くために使われた戦略だとは思いません。悩み、恐れる主体にはバッハの共感が深く入り込んでおり、それをバッハ自身の現実だ、と見なしてもいいように思う。バッハはカンタータを書くたびにイエスの言葉と新たに向かい合い、その都度イエスを再発見して、信仰を新たにしていたのではないでしょうか。自分の信仰はもう確立している、ほかの人を導くのだ、というスタンスでは、ああいう音楽にならないのではないかと思うのです。
と考えるようになったものですから、私はバッハに対してこのところ、「やわらかな信仰」という言葉を使っています。《ロ短調ミサ曲》におけるカトリックとプロテスタントの融和への視点も、そこから導き出すことができる。そして、その「やわらかさ」がまさに、バッハの宗教性が宗派を超え、国境を越えて訴えかける理由なのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
コメント
_ かなえ ― 2009年05月13日 06時47分56秒
_ I教授 ― 2009年05月13日 22時48分48秒
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(ではないのですが…。学部生時代2007年から2008年にかけて、半年だけ、室内楽研究でお世話になりました。学士過程の学部生で、しかも管楽器でしたから、I教授先生の授業がとれるチャンスは少なかったので、当時本当に嬉しかったです。)
大変に興味深いお話です。礼拝の場でおっしゃったんですか!やはり、信仰の前には常に、「考える人」がいるんですね。その当時I教授先生の授業で教えていただいたバッハの「音楽の捧げ物」を、ちょうど今、トラヴェルソと共にドイツで一から勉強し直しています。シュヴァイツァーのバッハ像やオルガン小曲集などを併せて学べば学ぶほど、バッハという人がどれだけ、「信仰」について自分の考えを問い直し続けた人なのかわかってきました。北ドイツで生活していると今もなお、「プロテスタント」やら「カトリック」やら、日常的に耳にします。その狭間で仕事をしながら、常に教えとはいかなるものかということが、バッハの周りに、バッハ自身に、本当にウヨウヨしていたのでしょうね。「ほんっとうにこの人プロテスタントだなぁっ」なんて最近は素人ながらにバッハをそう思ったりもします、ドイツ人、自分の考えに強情な人も多いので(笑)先生のブログを発見して、ほんの短い先生の授業の受講生でしたがとても嬉しくなりました。定期的に拝見させていただきたく、私のブログにリンクを貼らせていただきたいので、一言お断りしてからと思いました。