奥ゆかしい歴史書2009年07月01日 23時11分51秒

大学の図書館長をやめて何年か経ちますが、図書館がその後とみに向上しつつあるように思えてなりません。なぜかと考えると、私と、現館長である佐藤真一先生の人品の差に由来するようです。佐藤先生の誠実で奥ゆかしいお人柄は「会ったことのない人にはわからない」性質のもので、お会いするたびに、私は自分が恥ずかしくなります。なにしろ私が本を差し上げると、いつでも丁寧に読み、自筆で感想を綴ってくださるのです。何事にも丁寧に対応されているご様子なので、ご自身の研究の時間がなくなってしまうのではないか、と余計な心配をするほどでした。

でもさすがは先生、研究にもけっして手抜きをしておられないのですね。今回知泉書館から、『ヨーロッパ史学史--探究の軌跡』という本を出版されました。

この本では、古代ギリシアから20世紀に至る「歴史学の歴史」が展望されています。ヘロドトスから始めて、マキアべッリ、ヴォルテールといった人々がいかなる観点からどんな歴史記述を行ったかが、著者の生涯や主要著作の内容を丁寧におさえながら、たどられてゆきます。先生らしい誠実で折り目正しい文章で綴られていますが、そこから、真理探究の喜びがにじみ出てくるのです。

私自身はルカの救済史や宗教改革/反改革をめぐる記述を興味深く読みました。この本は、重要な歴史書の内容を鳥瞰する目的に使うこともできそうです。たとえば古来の名著だが私の読んだことのないアウグスティヌスの『神の国』について、ああなるほど、こういうことがこういう風に書いてあるのか、と勉強することができました。

静岡から新横浜への車中で読了した私は、無性に歴史書が読みたくなり、新横浜の書店で、ローマ帝国の研究書を買い求めました。こうした「啓発」の力こそ、名著の証明であると思います。

7月のイベント2009年07月02日 23時07分16秒

重い6月のあと、7月は、穏やかな月になりそうです。

4日(土) 10:00~12:00 「新・魂のエヴァンゲリスト~《マタイ》へ向けての慈愛の熟成Ⅰ」 朝日カルチャー新宿校。第2・第3年巻のカンタータについての話題が中心です。

9日(木) 19:00~ 「日本のうた第4回~木下牧子を迎えて」 いずみホール 今月最大のイベントです。木下牧子さんを構成・コメントの形でお迎えし、木下選による歴史上の歌曲名曲選、木下さんの芸術歌曲、木下さんのポピュラー歌曲(合唱曲からの編曲など)、加藤昌則さんの歌曲、の4ステージ立てでお送りします。木下さんに、他作・自作について、存分に語っていただこうと思っています。出演者は、佐竹由美(ソプラノ)、宮本益光(バリトン)、加藤昌則(ピアノ)です。ぜひお出かけ下さい。

18日(土) 10:00~12:00 楽しいクラシックの会例会「新しい風ペルゴレージ」 立川市錦学習館 今月は好評のミニミニコンサートを例会内で開催します。山崎法子さん(ソプラノ)、三好優美子さん(ピアノ)の出演で、シューベルトとヴォルフの歌曲が演奏されます。ご期待ください。

25日(土) 13:00~15:00 「バッハのカンタータとマニフィカト」 朝日カルチャー横浜校

ありがたいアウトプットの場2009年07月04日 21時12分19秒

カルチャーセンターは、長いこと、私の仕事の一部になっています。忙しいときにはやめてしまおうかと思ったりもしますが、平素勉強していることのアウトプットの場だと考えればありがたく、当分続けることになりそうです。

とはいえ、土曜日の午前中の出勤は、毎度自分を鼓舞して、という感じになります。遅れてはいけないとバス停からタクシーに乗り、国立駅へ。10円がないのを誤りながら千円札を出そうとしたら、財布がありません。タクシーを自宅まで返して財布を取り、再び国立駅へ。だいぶ遅れてしまいそうです。カルチャーに遅れるのは具合が悪いなあ、と思っていたら、中央線がすぐ来て三鷹で特快に乗り換え、時間に着くことができました。今日も、ツキを使いすぎた始まりです。

「新・魂のエヴァンゲリスト」の講座は、小さな教室がほぼ満員、という感じで進めています。混んでいるな、と思って見回すと、空いているのが、私の目の前の席だけ。やっぱり、にらめっこは避けたいですものね。ところが、遅れてきた方が気の毒にもその席に着かれ、満員に。その後さらに来られた方があり、補助席が出されました。ここに来て受講生が増えているのはありがたく、当然、気合いが入ります。

今日は、《ヨハネ》《マタイ》両受難曲をつなぐ時期がテーマでした。バッハが教会カンタータを毎週のように書き綴っていた頃です。主要なカンタータを少しずつ聴きながら進めたのですが、やはり、この時期こそバッハの絶頂期だと実感。中でも1724年の9月から11月にかけての2ヶ月には、私がカンタータ10選を選ぶとしたら必ず入れるであろうBWV78、8、26が集まっているのです。いわゆるコラール・カンタータの、すばらしい高まりの時期です。

終わったあと、2人の方から、《マタイ受難曲》公演に感動した旨のお話しをいただきました。うち1人の方は両方を聞かれ、私の著作も精読してくださっているとか。こういう方々のためにももっと勉強し、アウトプットもしていかなければ、と思いました。考えてみれば、カルチャーなどでのレクチャーの積み重ねから、今回の《マタイ受難曲》の企画も、聴衆も生まれてきているわけです。ちょっと嬉しくなり、帰路ヨドバシカメラで、ゲームを2つ買ってしまいました(笑)。

等身大が好き2009年07月06日 21時42分52秒

昨夜は、深夜までウィンブルドンの決勝を見てしまいました。まったく互角の延長戦、すばらしい見物ではありました。私のテレビ視聴時間は、学生たち(←テレビを見ない、という人も結構いる)に比べて、長いようです。スポーツ観戦を除けば、種々のニュースや報道番組、そしてミステリーといったあたりです。

ニュースをハシゴするので、同じ発言を何度も耳にします。たとえばどこかの知事さんの、「総裁候補にしてください」「私が出馬すれば党は負けません」「後継は傀儡にします」という類の発言。まともに取れば理解できないというか、思い上がった発言だと思いますが、これがそれなりのインパクトで受け止められているのは、元お笑い芸人というキャラクターのなせるわざかもしれませんね。しかし人を煙に巻く発言、大言壮語やはったりは、政治の場では面白がるわけにはいかないと思うのです。やはり、言葉をそのまんま信頼できる人に、上に立って欲しいと思います。

私は自分を大きく見せようとする人は嫌いですが、ことさら小さく見せようとすることも好きではないし、そんな必要はないという考え方です。見栄、謙遜、言い訳などからなるべく離れ、等身大で堂々としていたいなあと思いつつ(もちろん完全には実践できませんが)、日々を過ごしています。

(付記)タイトル、誤解された方はおられないでしょうね??

研究と自分の関心2009年07月07日 23時52分22秒

研究はその人をあらわす、と言われることがあります。まったくその通りだと思います。自分の関心がある部分には手厚い考察が可能ですが、そうでない部分に関しては、掘り下げることもままなりません。誰もがそうである結果、さまざまに異なる研究が生まれてきます。同様な理由により、オールマイティな研究というものもないわけです。

たとえば、制度。制度が重要だと考える人は、日頃制度の改善や改革、規則の整備といったことに力を注ぎます。そうした志向の人は、研究においても制度に注目し、たとえば歴史上の制度について、こと細かな調査を行うわけです。もちろん、社会の種々のしくみを解明することが歴史研究の重要事であることは間違いありません。

私は、こうしたところがだめなのです。制度は制度、制度を変えたって人間のやることは変わらない、という気持ちがあるものですから、制度の改革には日頃熱が入らないし、歴史研究にさいしても、制度やシステムの問題を掘り下げようという気持ちに、どうしてもなりません。バッハの場合であれば、領邦の統治制度や財政システム、教会法や礼拝の規定、雇用の制度など、いろいろ考えられますよね。私に制度への情熱があれば、そうしたことを調べ、そこから学び、という風になるのだと思います。

仕方がありませんので、そういうことは関心のある方におまかせし、私は自分の関心に従って、音楽と向かい合っていくつもりです。若い方も、自分の関心を伸ばす方向で研究に取り組むことによって、結局は自分を生かす道を見つけられるのではないかと思いますが、いかがでしょう。

急告!富田さん講演決定2009年07月08日 22時54分06秒

富田庸さんが急に帰国され、国立音大の図書館で資料調べをしたい、というご希望を洩らされました。この機会を逃す手はありませんので、来週火曜日(14日)18:00からのバッハ研究所の講演を変更して、富田さんにご登場いただくことにしました。昨年の《平均律》自筆譜に関する名講義は記憶に新しいところです。多くの方のご来場をお待ちしています(6号館111室、入場無料、いきなり来てくださって大丈夫です)。

なにぶん急ですので、武蔵野音大のピアノ科を卒業された富田さんがその後イギリスに渡り、誰もが認める世界的なバッハ学者になられるまでを自由に語っていただくよう、私からご提案しました。その中で、演奏者が原典資料を調べることの重要性も、見えてくると思います。常時携行のパソコンにぎっしり資料の写真を詰め込んでおられる富田さんのことです。今勉強中の《パルティータ》についても、有益な情報を提供してくださるとのことでした。どうぞご期待ください。

学期末2009年07月11日 11時54分55秒

とても疲れてしまっています。トシですね(笑)。いくつかご報告すべき筋があるのですが、それは元気が出てからとし、今日は、つなぎです。

いま学期末ですので、学生の発表会が続いています。大学院の歌曲専攻の中間発表会と、秋の「大学院オペラ」の試演会(ドン・ジョヴァンニ)を聴きにいきましたが、学生の勉強ぶりが手に取るようにわかり、それぞれの存在が、ぐっと身近に感じられるようになりました。多少無理をしても聴きにいくことが、論文指導にもたいへん役立つことに、あらためて気づきました。昔はまず行きませんでしたし、今でも、行かない分野がたくさんあるのですが・・・。

金曜日の楽しみであった歌曲作品研究の授業も終わりました。前夜大阪でコンサートがあったので(またご報告します)、朝6時の新幹線でとんぼ返り。最後なので学生の演奏希望者を募り、演奏に私とTA諸君の感想をはさむ形で進めたのですが、手を挙げる人が多く、時間内に収まりませんでした。歌いたい人がたくさん出てくるのはいいことですね。気持ちのこもった演奏が多かったです。たくさんの曲を引き受けてことごとく見事な伴奏だったYさん、ありがとう。

今日はこれから学会の委員会です。

身体運動2009年07月13日 16時27分57秒

私は、身体を動かすことが苦手です(きっぱり)。これは、バッハ研究者としては具合が悪い。なぜならバッハにはたくさんの舞曲があり、舞曲とは銘打たれていない作品にも、身体運動としての踊りの感覚が充ち満ちているからです。

したがってバロック舞曲の研究が必要、という正当な認識のもとに、バッハ研究所の器楽・声楽合同で、「古典舞踊とバロック舞曲」という講演会を開きました(7月7日)。講師はガンバ奏者の平尾雅子さんで、ドイツ帰りの村上暁実さんが様式感にすぐれたチェンバロを演奏され、本職はチェンバリストだという小川絢子さんが、この世のものとも思われぬ軽やかな踊りを披露してくださいました。

舞曲ごとに、ルネサンス、バロック、バッハの譜例が準備され、それぞれの舞曲の特徴と変遷が、平尾さんの実演も交えて進められていきます。舞踊を踏まえることの大切さを再認識すると同時に、器楽的様式化の方位を尊重することも必要であることを教えていただきました。

バッハの組曲には、これがなんでサラバンド?といったようなケースが、後期に行くほどしばしば出てきます。隠れたサラバンドの特徴を探し当てることが肝要と考えて普段はそうしていますが、組曲の当該部分でバッハがあえてサラバンドから離れ、ファンタジーにあふれた緩徐楽章を展開していると見るべき部分もあるように思えてきました。

最後、平尾さんと小川さんの踊るメヌエットを見ながら私の脳裏に浮かんだのは、高校生のときのフォークダンスです。「あと4人で彼女」「さああと3人」というカウントダウン状況下で、気も転倒しているシチュエーション。しかも身体を動かすことが苦手ですから、うまくいくわけがありません。苦笑する彼女から「右!」「左!」と指図された屈辱の思い出が湧き上がり、踊れる人はいいなあ、とうらやましく思いました。

終了後、いつもながら優雅な平尾さんに「え~、これからどうされますか?」と恐る恐る訪ねました。すると、「私、すっごくお腹空いちゃったの!」とお答えになる、いいお人柄。いつもの「ガスト」に繰り出し、慰労の夕食を採りました。皆さんが威勢良くデザートをお頼みになるので、私も便乗しようと思い、「クリームあんみつ」と注文したところ、平尾さん以下の女性たちが爆笑。どうも踊りがからむと、笑われることが多いようです。

声楽曲に歌詞はない2009年07月14日 23時29分28秒

7月9日(木)、いずみホールで、1年ぶりに、「日本のうた」シリーズのコンサートを開きました。作曲家・木下牧子さんをゲストに迎え、木下さんの選による日本の名歌と、ご自身の代表作、そして人気作をたっぷり聴く。そして最後に、当日のピアニストであった加藤昌則さんの作品で締めくくるという趣向でした。木下さん、および出演者と入念に意見交換しつつ、こうしたプログラムを組み上げました。

大学3年生のときの初挑戦曲から最近作まで・・。洗練された木下ワールドの諸作品はいずれも魅力的で、日本的な美の精髄が注ぎ込まれています。ソプラノ、佐竹由美さんの芸術性の高さと安定した技術、バリトン、宮本益光さんの洞察力と性格表現もみごとで、オリジナリティのあるコンサートを作れたと思っています。

やっぱりなあ、と思ったのは、木下さんが詩の選択に大いにこだわり、高い基準で選び抜き、音楽をつけることにたっぷり時間をかけ、磨き抜いていく、ということでした。内外を問わず、多くの作曲家が、そのようにしてきたのではなかったでしょうか。

普通の歌や合唱の練習の場合はどうでしょう。まず階名や母音で歌う。歌えるようになったところで、「さあ、歌詞をつけて歌ってみましょう」ということになる。でもこれだと、歌詞は音符に振られている言葉に過ぎませんよね。実質はあくまで、音楽の方にある。これでは、詩を音楽を通してしか見ないことになります。音楽のついていないときの詩それ自身の美しさや生命力。それを愛するからこそ、作曲家はファンタジーをふくらませて、音楽をつけるのではないでしょうか。

私は、声楽曲に歌詞はないと思う。あるのは歌詞でなく、詩です。詩を詩として、できるかぎり尊重すべきです。外国語の発音を学び、辞書を引いて意味を書き込んでも、詩を生かすことはできません。急に語学に上達するわけにいかないとすれば、必要なのは暗記であり、朗唱です。それをみっちりやれば、語学の感覚はその詩その詩に即して、ある程度身につくものなのです。

イエスに私の注ぐのは・・・2009年07月15日 22時06分46秒

拙著『マタイ受難曲』がおかげさまで10刷を迎えることになり、対訳を少し、見直しました。いくつか気になっている部分があり、先日の公演シリーズのさいには、当該部分が来ると目をつぶっていましたので(笑)。

検討箇所は3つです。まず、最初のアルトのレチタティーヴォ(第5曲)。ここの歌詞(←この言葉、使っちゃいますね)は、信仰深い女がSalbを注ぐのに対し、私は涙の泉から一滴のWasserを注ぐ、というものです。私は、前者も後者も「香油」と訳していました。前者は文字通りそのままですが、後者は、「一滴の涙を、いわば私なりの香油として」という意訳になります。Wasserは広義の「水」ですので、ここはSalbeと区別すべきではないかと、以前から感じていました。

ところが、ルター訳では、女がイエスの頭に注いだ高価なるものが「Wasser」と訳されているのです。弟子たちも、「そのWasserを売って貧乏人に施したらよかろうに」、と言う。Salb(香油)という言葉は、ピカンダーのテキストに入って、初めてあらわれます。ちなみに、現代のドイツ語訳(統一訳)では「Oel」(油)です。ルターが「Wasser」と広く使っているのは、心の中に「水による洗礼」というイメージが浮かんでいるためでしょうか。

というわけでむずかしいところですが、第5曲の香油と水の対比を生かすことを優先し、Wasserを「液」と訳して、聖書の場面と整合させてみました。ひとつの試みです(続く)。