法隆寺追記2012年11月09日 15時49分11秒

先日の法隆寺談で、触れなかったことが1つあります。

私は信州大学の附属中学(松本校)の出身なのですが、そこでは月曜日の朝にいつも朝礼があり、副校長の先生(校長は大学教授)が講話されるならいになっていました。中山という教養の高い先生で、いつもいいお話しをされていました。

その中に、こういう話があったのです。子規に「柿くえば鐘がなるなり法隆寺」という句があるが、子規がじっさいに聞いたのは東大寺の鐘である。しかし鳴る鐘は、やはり法隆寺がふさわしい。東大寺は「事実」であるが、法隆寺は「真実」なのだ、というお話しです。その後美学を学んでいるときに、おりおりこの言葉が心に浮かびました。

もちろん売店で買った柿を食べたときも、このお話を意識していました。「鐘は鳴りませんでしたが」と書いたのは、そのつながりです。しかし、法隆寺の近辺にはたくさんの柿の実りがあり、売店もあるが、東大寺の環境は、そうとは思われません。法隆寺の方がずっとフィットするように思われます。まさか、子規の句が有名になってから柿を植えたわけでもないでしょう。

そこで調べてみると、「日本語と日本文化」というサイトに、その説明がありました。子規が東大寺近くの宿に泊まったとき、宿の女中さんが柿をむいてくれた。そのおいしさにうっとりしているときに、鐘が鳴ったというのですね。これまたなかなかのシチュエーションですが、俳句にそこまで説明的なことは書き切れません。そこでより自然な法隆寺にした、というのが真相のようです。

工夫を凝らした句かと思っていましたが、法隆寺を訪れた結果、飛鳥らしいおおらかさを自然に味わうべき句だと思うにいたりました。