12月のイベント2012年12月02日 09時10分50秒

恒例の、公開イベントのお知らせです。

2日(日)は楽しいクラシックの会の《タンホイザー》--って、もう遅いですね(汗)。これから出るところです。

5日(水)13:00は、朝日カルチャー新宿校の「マタイ徹底講座」。ようやく(?)最後の晩餐に入ります。

8日(土)は久々の朝日カルチャー掛け持ち。学術会議用に第1土曜日を空けたため起こった現象です。10:00からは新宿校の世俗カンタータ講座で、今月はザクセン選帝侯家のためのBWV213、214。《クリスマス・オラトリオ》の原曲ですから、季節にちょうど合います。13:00からの横浜校では、ライプツィヒ時代のオルガン曲を扱います。

9日(日)は、既報のすざかバッハの会。須坂駅前のシルキーホールで、14:00からまず私のミニ講演(《ロ短調ミサ曲》と日本人)、終了後、10周年記念コンサートに入ります。出演者たちの準備が進んでいるようです。

12日(水)19:00は、立川アミュー小ホールで、既報の塚越慎子さんマリンバ・コンサート。大器注目の公演なので、ぜひお出かけください。連絡先は内田(042-301-1527)または長谷川(042-574-3180)まで。

13日(木)は大阪音大で受難曲への修辞学的アプローチについて講演するのですが、これは専門の学生を集めての非公開イベントになるようです。公開するという計画もあり、一部の方にお話ししてしまいましたが、宣伝はされていないようです。15:15から。

16日(日)はモーツァルト・フェラインでの講演。テーマは得意ネタの「モーツァルトの管楽器用法」です。14:00からお茶の水「龍名館」で。これは飛び入り大丈夫だと思います。

19日(水)13:00は今月2回目の朝日新宿「マタイ徹底研究」。多分、オリーブ山に登るところ、すなわち「受難コラール」の出現するあたりを掘り下げることになるでしょう。

22日(土)13:00は、やはり2度目の朝日横浜「エヴァンゲリスト講座」。ちょうど《クリスマス・オラトリオ》です。

まとめていて、ダブルブッキングを発見しました(汗)。ともあれ以上、どうぞよろしく。では立川に出かけます。

映画2012年12月03日 23時35分21秒

今日は、昼に歌舞伎鑑賞、夜は映画鑑賞。--いかにも優雅に聞こえますが、実態は、芸術賞審査のための必死の予習です。他分野の候補に対しても、見解を述べなくてはならないからです。

歌舞伎はそうでもないですが、映画館に入るのはまことに久しぶり。20:25というのはずいぶん半端に始まるものだな、と思っていたら、最初の5分は予告編なんですね。そうそう、最初は予告編だったなあ、などと記憶を呼び起こすぐらいなので、数十年単位の久しぶりかもしれません。

お客様は、たったの4人。しかしこの映画がじつにすばらしかったのです。私は感動して、涙止まらず。映画もいいですね!テレビと違って、サシで集中して鑑賞し、音楽もしっかり聴きますから、すぐれた作品だと、見返りが大きいです。

発表は新年なので、その映画が何かを記せないのが残念。音楽の世界でもほんのわずかしか立ち会えないのに他分野までは日頃手が回らないのですが、お仕事でかかわった結果、こうした感動に巡り会うことができました。今日も「ありがたい」一日でした。

重い夢2012年12月05日 08時56分33秒

縁起でもないですが、この世が滅びる夢を見ました。原動力は地球の彼方で使われる核兵器なのですが、それに備えるプロセスや使用後の刻一刻という状況など、リアルな細部をもつ、長い夢でした。

滅びの前に夢は終わったのですが、目が覚めても「ここはどこだろう・・・自分は生きているのだろうか」という茫漠感が先立ち、なかなか現実に戻れません。

同じ夢を過去に見た記憶はないので、なぜ自分はこういう夢を見たのか、と考えました。心理学などでは、理論があるのでしょうか。

著名人が集まった昨夜の会議の重さ、その疲労。親戚筋に出た病人の心配。うち続く選挙報道の影響。最近の多忙により持続していた、緊張感。ことによると、健康状態悪化の予感。そのどれかなのか、それらの複合なのか。起きてみると、中村勘三郎さんが、まだ若いのに亡くなっておられました。合掌。元気が出てくるまで、ちょっと時間がかかりそうです。

パラグラフの衰退2012年12月07日 10時39分16秒

先日、会話が延々と連なる小説は冗長でちょっと、というお話をしました(もちろん谷崎潤一郎の《細雪》などは別格です)。その理由を考えていて思い当たったのは、会話が連なるとパラグラフの縛りがなくなる、ということです。パラグラフごとに定着する趣旨をとらえ、積み重ねて追ってゆくことでメリハリの利いた読解が可能になるわけですから、その区切りがあいまいになると、冗長になる可能性は高いと思われます。

先日亡くなった作家の方が、今の書き手はワープロを使うので文章が粗雑になる、という趣旨のことを述べておられました。私は逆の考えなので意外だったのですが、よく考えてみると、上のことと関係があるのかもしれません。アイデアを単文で打ち込み、文章へと仕上げていくアウトライン・プロセッサーのような文章作法。単文が自立する、ツィッターの世界。コマを並列する、マンガの感覚。単行本でも、文ごとに行を改める印刷をよく見かけます。電子化の時代が、パラグラフへの意識の希薄化、パラグラフの短縮化に、拍車をかけているようです。

古いかもしれませんが、私の感覚は違うのですね。パラグラフを一定の長さにすることで緊張感をもたせ、パラグラフ相互の関係を調整することで文章に流れと勢いをもたせることが、文章のコツであると、私は思ってきました。少なくとも論理的な文章はそうあるべきではないかと、今でも思います。そのために、パソコンで文章を書くことはとてもいい、と思うのです。広い範囲に目を通しながら、細部をいくらでも推敲できるからです。原稿用紙を使っているころは、その作業をある程度で打ち切らざるを得ませんでした。

というような感覚なので、パラグラフの衰退が、気がかりです。

即興演奏2012年12月08日 23時35分10秒

即興演奏というと、目先の変化を楽しむもの、というとらえ方がありませんか?少なくともバッハには、それは当てはまらないと思います。

バッハは、オルガンによる即興演奏の名手でした。しかしその即興とは、紙にこそ書かれないが、作曲そのものだったのです。テーマを考え、その発展可能性(対位法的処理の可能性)を予測する。どこでどう扱うかの概要を決める。バッハは瞬時に、それができたようです。全体像が決まっていざ鍵盤を弾き始めれば、細部においては目先の変化も、さまざまにあらわれます。

どんな作曲のときも、それは同じだったと思うのですね。全体を展望してから書き下ろすので、彼には下書きが必要なかった。ということは、全体が細部の先に立っている、ということです。だったら演奏も、つねに全体への見通しが先行すべきなのではないでしょうか。目先の音符を積み上げる形では、バッハのいい演奏はできない、ということです。

バッハ演奏に「大局観」が必要だと最近とみに思うようになっていましたが、上記の認識は、そのことにつながります。しっかり情報収集をして、論文にしようかと思い始めました。

小さな場でこそできること2012年12月11日 00時03分13秒

「ちらちらと粉雪の降りしきる、ある寒い冬の日のことでした」・・・幼稚園のとき、劇のコメンテーターに選ばれて、暗記した文章です。アンデルセンかな。そういう光景に、久しぶりに出会いました。9日のコンサートを終え、山田温泉に泊まり、満ち足りて迎えた宿の朝、そして長野駅での印象です。

ホールとは言っても、駅前の小さなホール。ワンフロアに椅子を並べる急造の空間で行われた「すざかバッハの会10周年記念コンサート」でした。仕切った私が良かった良かったというのもどうかとは思いますが、コンサートの良さはホールが立派かどうか、お金がかかっているかどうか、有名なアーチストを集めているかどうかということとは別だ、という気持ちが決定的になる、昨日の体験でした。

なにしろ私が話に伺って、10年も続いている会です。集まってくださる方々には、すでにしてまとまりと、音楽に集中するスタンスがある。出演者の側も、私の信頼する友人たちで、皆さん、小さな場でも全力投球してくださる音楽家です。こうした前提があるだけで、音楽会の雰囲気は、まったく違ってくる。昨日のコンサートはこうした要因がことごとく噛み合って、私としても、何事にも代えがたいひとときになりました。

今私に欠かせないアーチストが、ピアニストの久元祐子さん。この方の知的で深い芸術解釈を尊敬し評価することが第一ですが、加えてこの方はオペラや歌曲の伴奏がすばらしく、それを進んで引き受けてくださるのです。この日もベートーヴェンの変イ長調ソナタ(←じつに潤いに満ちた演奏)、シューベルトの変ホ長調即興曲のあとに、宗教音楽と歌曲、オペラのプログラムを、すべて伴奏していただきました。お客様もわかっておられ、曲ごとにがらりと変わる音楽的なピアノに、賛辞が集中しました。

長野在住のトラヴェルソの名手、塩嶋達美さんが調達してくださったチェンバロでモンテヴェルディとバッハを演奏したのは、BCJの常連である、テノールの谷口洋介さん。甘さのある美声と高度なベルカントの技巧を備えた方で、〈ベネディクトゥス〉(《ロ短調ミサ曲》)のような難曲も長いブレスで、いとも自然に歌われます。今回は《カルメン》の二重唱という「専門外」の曲を無茶振り(←得意)していたのですが、大武彩子さんとのアンサンブルの音楽性の高さには、びっくりしました。これからの大戦力です。大武さんのスーパー・コロラトゥーラが大喝采を浴びたのは、想定内でした。

これでも十分に成り立つコンサートでしたが、今回は何より、岩森美里さんの貢献に感謝しなくてはなりません。カルメン、デリラなどで示された岩森さんの歌には、底知れぬ世界の広さと、燃えさかる情熱があります。とにかく人柄のいい方なので、そのカリスマ性に、みんな魅入られてしまう。アンコールで私に捧げるとおっしゃって歌ってくださった十八番、《小さな空》(武満徹)には、涙あるのみでした。その涙は、お客様の多くにも伝染していたようです。

本当にささやかなコンサートなのですが、私としてはとても大きな出来事。こんなコンサートを、これからも積み重ねていきたいと思います。

負けました2012年12月12日 23時59分13秒

「先生、今日は影が薄かったですね」「・・・・」。完敗です(楽しいクラシックの会コンサート2012)。

紹介トークを終え、ステージを降りるとき、下手でスタンバイしておられる出演者、塚越慎子さんと目が合いました。一杯の笑顔なのですが、そこにもりもりとした覇気がみなぎって、食べられてしまいそう。この目、どこかで見たことがあるなあ・・・。あとからわかりました。柔道の松本薫さん!印象は真逆なのですが、燃えるような集中力において、似ているのです。

練習のときから立ち会ってきた、バッハの《シャコンヌ》。マリンバですぐ弾けるわけではないので、苦労を重ねたというところですが、本番では試行錯誤がすべて栄養となって、格段に充実した流れになっている。「本番に強い」といえば、その一語に尽きます。

《シャコンヌ》終了後、インタビュー。質問に、蕩々とみごとな弁舌が返ってきます。平素は天然ボケ(失礼)に見えるお嬢さんが、なんでこうなるの?いるのですね、ステージに立つと断然輝いてしまう人が。

この時点で認識したのは、私のトークなど、天才的な方の前ではまったく無力だ、ということです。そこで自分の務めは最低限で終わらせ、「老兵は死なず、消え去るのみ」などという言葉を想起しつつ、あとはすべて、彼女にまかせることにしました。躍動のマリンバ。すばらしかったです(冒頭に戻る)。

完全原稿の勧め2012年12月14日 20時57分27秒

皆様のおかげで充実のイベントが続き、多忙ながら幸福感さえ感じる今週です。見えない仕事も多々あり、中でもちょっと大変だったのは、学会で開催したシンポジウムの、学会誌用報告をまとめることでした。

このシンポジウムは90分の枠に4人のパネリストがいましたから、時間の不足が懸念されました。そこで既報のように、基調報告には各12分の完全原稿を用意していただき、事前に時間確認もしてもらった上で進行させたわけです。

それぞれの原稿は、きわめて凝縮されたものになっていました。400字1枚が1分として、48枚ですよね。その後相互ディスカッションが12分、フロアとのディスカッションが12分、締めのスピーチが4分ありましたから、全部合計すると、原稿用紙にして76枚程度の言葉が飛び交ったことになります。

学会誌用の報告は、それを400字10枚にまとめなくてはなりません。7対1。だらだらした会話を短くするならまだしも、凝縮されたものをさらに大幅に短縮し、エッセンスと議論の進展を伝えるのは、きわめて困難な作業です。

この一例が物語るように、学問的な作業では、一定字数、一定時間に対する情報量を極限まで高めることが求められます。大きな時間を費やした研究を短い時間に発表することがほとんどなので、1字1句、無駄にできない。そのためには、完全原稿を準備することに勝る方法はありません。

そして、時間にぴったり収まるように推敲を重ねる。ほとんどが、削る作業に費やされるでしょう。書き原稿を読むと話が堅苦しくなる、というのは、原稿の文章に問題があるからです。わかりやすい話し言葉で、つとめて聞きやすいように準備をしておく。しっかりした土台があれば、脱線もまた、効率よくできます。

ですから、しっかり原稿を作らず、時間も計らないで始めるのは、経験の少ない人であれば、危険と言うより論外です。ベテランの方であれば原稿なしで円滑にという可能性もありますが、そういう方が準備すればもっと内容は濃くなるだろうに、と思います。結局、「時間がもっとあれば良かったのだが」ということになってしまうからです(続く)。

準備は嘘をつかない2012年12月16日 08時17分10秒

岩森美里さんの思い出をひとつ。

国立音大の新入生企画、「基礎ゼミ」のチーフをずっとしていましたが、「お話」と題された演奏付きの小講演を、岩森さんにお願いしたことがあります。岩森さんが前の年のクラス授業で抱腹絶倒、しかも内容のあるお話をされ、これは新入生全員に聞かせたいな、と思ったからです。

果たして、さまざまな体験を笑いながら伺ううちに心が人情味に満たされてゆくという、みごとなお話。河原忠之さんのピアノで最後に歌われた《小さな空》が満場を感動で包んだのは、聴き手がお話に引き入れられていたためでもあります。

その思い出話を別の方としていたとき、あのとき岩森さんはたいへんな準備をされたのだと知らされ、びっくりしました。ごく自然に、湧き出るように話が進行していたからです。ご本人に確認したところ、「お話」を振られた重圧は大きく、原稿を書き写真を準備した上で、90分に合わせて何度も練習した、とのこと。なるほどそれでこそあの結果か、と、すっかり感心してしまいました。

そんな刺激もあり、私もできるかぎりの準備をしてイベントに向かうよう、心がけています。日頃よく「ツキ」のお話をしますが、ツキ以上に嘘をつかないのは、準備であるからです。13日の大阪音大の講義も、バッハの音楽と修辞学の関係を根本的に見直す、ありがたい機会になりました。今日のモーツァルト・フェラインの講義も、あと数時間準備して、万全を期したいと思います。

やりがいある講演2012年12月17日 23時55分23秒

モーツァルト愛好家が集う「モーツァルティアン・フェライン」では、2年に一度の割で、お話をさせていただいています。いろいろなテーマをいろいろなところでお話しする日常ですが、じつはあまりやりたくないのが、モーツァルトのことを、こうした団体の前でお話しすること。モーツァルトに関しては何でも知っている、という博識の方が何人もおられ、いい加減な勉強では、とても体面を保てないからです。

たとえば、モーツァルトがこういう小さな町に泊まったときにできた曲だ、とご紹介するとき、当然私は、その町に行ったことがありません。ところが客席から来る反応は、「その町で今年泊まりましたっ!」というもの。旅行三昧に過ごしたモーツァルトの足跡を逐一たどっておられる方が、何人もいらっしゃるのです。

したがって講演は引き受けにくく、他の先生方もきっとそうだろうなあ、と思っていました。もちろん好意的には聴いてくださるので、やったあとに後悔したことはありません。しかし今回は、それこそ準備をして余裕がありましたので、かなり違った気持ちを抱きました。

私は、モーツァルトの管楽器用法にははっきりした深化があり、それが彼の音楽の円熟とほとんど同義語である、という仮説を立て、それを諸分野の作品で検証する、という進め方をしました。それがもっともすばらしく展開される分野はピアノ協奏曲であるとする理解から、いくつかの楽章を、グリモー、ポリーニ、ピリスの演奏で鑑賞しました。

そうすると、趣旨を理解し音楽に感動しながら、本当によくついてきてくださるのですね。ほとんど帰る人のなかった打ち上げを楽しくご一緒していて感じたのは、年配の男性が多くを占めている会員それぞれの、手応えのある存在感です。モーツァルトを愛し、モーツァルトを学び、モーツァルトを聴いてきた方々の長年の経験が蓄積されて、オーラを放っている。こういう聴衆を相手にする講演こそ、引き受けていくべきだと思いました。もちろんそのためには、相当の勉強をしなくてはならないわけですが・・・。次回が楽しみです。