最後のウィーン音楽祭2012年10月02日 23時28分28秒

1993年以来、ほぼ3年ごとにいずみホールで「ウィーン音楽祭 in Osaka」を催してきました。いずみホールはムジークフェラインのホールを模した作りで、ウィーンとの接点がありましたので、楽友協会との正式のパイプを構築し、そのご指導をいただきながら開催してきました。しかし20年を経過して一定の役割を果たしたと判断し、今回を一区切りとします。

最終回は、主催者側から見ても、濃密でバランスのよいプログラミングになったと思います。全容はホールのホームページをご覧いただくとして、ここではとりあえず、10月の公演をご紹介しましょう。といっても主体は11月ですので、最初の2公演だけですが。

前回のハイライトは、楽友協会合唱団の招聘でした。カラヤンがベルリンの公演においても使い、巨匠たちと輝かしい共演の実績を残してきた、この合唱団。その実力が健在であることが前回のハイドン、ブラームスで立証されましたので、今回もう一度招聘し、モーツァルト、シューベルト、ベートーヴェンを歌ってもらうことにしました。合唱プロパーの曲よりも、大曲、名曲のステージで真価を発揮する合唱団です。

メイン・ステージは、27日(土)16:00からのベートーヴェン《ミサ・ソレニムス》です。指揮は「ウィーンが洋服を着ているような指揮者」クリスティアン・アルミンク、オケは日本センチュリー交響楽団で、ソリストには、小泉惠子(S)、加納悦子(A)、櫻田亮(T)、三原剛(B)と、望みうる最高の顔ぶれを揃えました。

これに先だって、シューベルトのミサ曲第2番とモーツァルトの《レクイエム》を、アロイス・グラスナーの指揮、ロベルト・コヴァチのオルガン伴奏で取り上げるコンサートがあります。追加希望によって実現した公演です。合唱団の意向により、彼らがよく使うという、オルガン伴奏版を用いることになりました。ソリストには、半田美和子(S)、井坂恵(A)、望月哲也(T)、若林勉(B)という新鮮な顔ぶれを揃えています。24日(木)19:00からのこの公演をもって、ウィーン音楽祭最終回が始まります。

11月の5公演と合わせて、チケットがばらつきなく売れているのも、今回の特徴です。早めに予定していただけると幸いです。

最近のコンサートいくつか2012年10月05日 10時27分15秒

いくつかよいものがありましたので、簡単にご紹介します。

《パルジファル》があまりに良かったので、読売日響の定期を聴きに行きました。9月25日(火)、オペラシティ。曲がベートーヴェンの第2番、第3番で、指揮がスクロヴァチェフスキー、ときたら、悪いはずないですよね。

スクロヴァチェフスキーの特徴として、よく、スコアの読みの深さが指摘されます。その通りなのですが、その読みが直線的なものではなく、何層にもわたる立体的かつ複合的なもので、それがオーケストラの響きにたえず還元されていることがよくわかりました。しかも、思いのほか柔軟。たえず新鮮で、爽やかな印象さえあるのです。こんなにいい《英雄》、ひさしぶり。

10月2日(火)は新国立劇場で、ブリテンの《ピーター・グライムズ》。精緻な20世紀オペラのすみずみまで行き届いた公演で、たいへん感心しました(オケは東フィル、指揮はリチャード・アームストロング)。ここでは顕著な印象を2点だけ述べておきます。1つは合唱のすばらしさ。むずかしいテクスチャーを英語で、これだけ堂に入って歌いきるのはたいしたものです。さすが、三澤洋史さん。もう1つは、この作品の人気の高さ。会場には知人があふれ、学会の方々にも大勢お会いしました。この渋い作品にこれだけ人が集まるということは、日本のオペラ文化の成熟を物語るものですね。

4日(木)は、「スーパー・コーラス・トーキョー特別公演」のご案内をいただき、オリンパスホール八王子に行ってみました。そうしたら、JR南口に接続して立派なホールができていて、向かいにビックカメラまであるのを見てびっくり。家から近く、便利でありがたいです。メインはマーラーの《嘆きの歌》、オケは都響、指揮はエリアフ・インバルでした。

この初期作品、演奏効果も高くファンにはたまらないのかもしれませんが、私には1つ、どうしても気になるところがあります。それは、森の花、眠る若者、不思議な笛といった童話の素材が、大編成の管弦楽と合唱、独唱によって、一貫して壮大に描かれていくことそれ自体です。後期ロマン派という時代に若い作曲家が高い意気込みで取り組むとこうなることはいくつかの類例が物語る通りですが、字幕で出るメルヒェンチックなテキストと音楽が、どうしても結びつきません。演奏する方も、所狭しとステージに並ぶと、相乗効果によって力演に傾きます。都響のマーラー・サウンドはさすがに華麗なものでしたが、上記の疑問はたえずつきまとったというのが、正直なところです。

失敗に学ぶ2012年10月07日 23時24分18秒

昔お教えした方とお話しする機会が、案外よくあります。授業がとても印象的だった、と何人もの方が言ってくださいますので、気をよくしてたとえばどんなことですか、と尋ねると、CDをかけようとして開いたら入っていなかったとか、間違えてもってきていた、という話をされる方がほとんど。「いいことも言っているはずなんだけどなあ」と返すのが精一杯です。

今日、久しぶりにそれをやりました。《さまよえるオランダ人》が第2幕後半にさしかかった、「たのくら」のワーグナー例会。ゼンタとオランダ人の二重唱について「私が高校生の頃、ワーグナーの音楽に本当に感動した最初の曲」とアツク紹介して、LDをかけたところ、全然別の画像が出てしまったのです。入れ違いは1枚目だけでしたので、第3幕は鑑賞することができました。

がっかりしましたが、この二重唱がいかに重要かは、逆によくわかりました。二人は非日常性の範疇にあり、モノローグだのバラードだの、一種奇矯な様式の音楽を振られていますよね。ところが実際に出会って歌うこの二重唱において、二人は深い感動をあらわし、心を通わせて救済の希望を高めてゆく。その過程で彼らは、唯一ここで美しい音楽を、心ゆくまで繰り広げるわけです。

そこが抜けてしまうと、《オランダ人》はお化けドラマになりかねない。そうならないように、やはりうまくできているわけですね。失敗してみてできる勉強もやっぱりあるなあ、と思った次第です。

講座はそのまま《タンホイザー》に入りました。《オランダ人》との間隔はたった2年ですが、格段にすばらしい作品ですね。しかし思うのですが、精神の愛と肉欲の愛の対立というテーマを、今の若い人たちはどう思うのでしょうか。古来の霊肉二元論に派生するテーマを、私はかぎりない共感と関心をもって受け止めるのですが、いまは、ヴェーヌスベルクが周囲に満ちみちている時代。「それでなぜ悪いの」で話が終わってしまうということがないのかどうか、心配になります。

終了後、東京芸術劇場へ。改装後初めて訪れましたが、エスカレーターの急角度も改善され、ステージも広々として、音楽を聴きやすい環境になっていますね。プログラムはオール・チャイコフスキーで、序曲《ロメオとジュリエット》《イタリア奇想曲》《交響曲第5番》。でも、チャイコフスキーの音楽に対して、若い頃のような気持ちをもてなくなっていることがよくわかりました。ポリフォニックな要素に乏しく、大管弦楽を動員している割に情報が少なくて、もどかしいのです(だからわかりやすい、とも言えます)。ロジェストヴェンスキーのおおらかかつ楽天的な指揮で、会場はものすごく盛り上がりましが、ムラヴィンスキーをなつかしむ気持ちにもなりました。読響のコンサート、最近続いています。

歳に気づく時2012年10月10日 09時29分13秒

どんな時に自分の年齢を痛感するかと問われたら、皆さん、どうお答えになりますか。大学の先生だったら、私の答えに賛同する方がある程度おられるのではないでしょうか。

聖心女子大の授業の後、ひとりの学生さんがやってきて、先生は松本の出身だそうですが(注:厳密には「出身」ではなく「育ち」)、母も松本なのです、と言われました。尋ねてみると、私の知っている地域。親しみを覚えた私は、きっと同世代だろうな、と思い、丘の上にある自分の高校や、丘の麓にある当時の女子校を思い浮かべました。

そこで「お母さんお幾つ?」と尋ねてみたところ、「46です」と言うではありませんか。私より20歳下!昔は出産が若かったので、「祖母と同じ」ということもありそうな年齢差です。

なぜこういうことが起こるかというと。教員として出発するときは学生との年齢差が小さいですから、ご両親は、はるかに年長です。当然、うやうやしく対応します。これが基礎を作りますので、親は年長、というイメージが、根付いてしまう。大学教員というのは、そうそう親御さんに出会う機会がありませんから、イメージを修正できないまま、日を過ごしてゆきます。

やがてほぼ同世代、という状況が生まれ、いつしか、親が自分より若くなる。しかし、「学生の親は自分より若いものだ」という認識は、なかなか定着しないのです。結果として、愕然として「歳に気づく」という体験が生まれるわけです。

地下鉄でイランの方(多分)に、席を譲られました。ありがとう。

展覧会の楽しみ2012年10月11日 11時08分37秒

平素あまり行かない展覧会を、2つ覗きました。

まず、ブリジストン美術館で進行中の「ドビュッシー、音楽と美術」。10のテーマに分類された展示で、スケールの大きな展覧会です。平日の4時頃でしたが、女性を中心に、入場者がひきもきらず。ドビュッシーがいかにメジャーな存在であるかを認識しました。もちろん、印象派/象徴派絵画の人気も一役買っていることでしょう。あと、「タイヤ」をめぐるテレビ・コマーシャルのパンチ力も影響しているように思いますがどうでしょうか。

もうひとつは、サントリーホールのブルーローズ(小ホール)で開催中の「音楽のある展覧会=ウィーンに残る、日本とヨーロッパ450年の足跡/ウィーン楽友協会創立200周年記念」というもの。楽友協会にこれほど日本関連の資料がたくさん保存されているとは知りませんでした。1890年に《ロ短調ミサ曲》の〈クルツィフィクスス〉が〈富士登山〉という日本語歌詞で初演されたさい、「音楽博士テルシャック氏」という人物が記録を残しているのですが、その人の写真が掲示されていたのにはびっくりしました。いまたくさんおられる洋楽受容の研究者には必見の展覧会だと思います。明日(12日)までですけど。

回転お手2012年10月12日 10時19分31秒

犬は、利き足というのがあるでしょうか。皆様の愛犬は、お手を右足でしますか、左足でしますか。ほとんどの方がまず右手をお出しになるでしょうから、犬も右足で応じる、というイメージが浮かんできます。

わが家の陸(オス、4歳)の場合、右足で握手(?)する前にちょっと左足を挙げることに気づきました。人間の手の出し方でどちらでも対応することがわかったので、少し練習し、「回転お手」という芸を完成させました。右、左、右、左と(逆順も可)高速でいつまでもお手を続けます。これって一芸のような気がしますが、やる犬、たくさんいますかね。妻には「かわいそう」と言われましたが(笑)。

受賞パーティ in 大阪2012年10月13日 11時03分00秒

いずみホールオペラ2011《オルフェオとエウリディーチェ》(グルック)が三菱UFJ信託音楽賞の奨励賞をいただき、12日(金)に大阪のホテルモントレで、受賞パーティが開かれました。

賞をいただくのはありがたいものですが、この受賞はまったく想定しておらず、それだけに励まされました。なぜならば、この公演は「いずみホールでなくてはできないオペラを」という見果てぬ夢に挑戦する、実験的な試みの1つだったからです。ピアノと指揮の河原忠之さん、演出の岩田達宗さん、キャストの福原寿美枝、尾崎比佐子、石橋栄実さん、その他出演・裏方の皆さんと喜びを分かち合いました。なんとか試行錯誤を続けて、オペラハウスとは違った公演の形を模索していきたいと思います。

河原さんらと、既報の北新地・MMMで二次会。「大阪一の味」の片鱗に接していただきました。来年度の企画、目下準備中です。

脱「疫病神」宣言2012年10月16日 23時56分40秒

毎週火曜日、聖心女子大の授業は、3時に終わります。たいていは授業前に昼食を摂るのですが、終わってからになることも、ときどき。それもまた、いいものです。なぜならば、解放感があってゆっくり食べられるし、混んでいるお店もさすざに空いたタイミングになっているからです。

今日は、渋谷の「ヒカリエ」に行ってみました。不景気だというのに、すごいエリアができるものですね。レストラン街も、今風の趣向を取り入れて充実しています。前回はお昼の時間だったのでどのお店も行列でしたが、今日はアジアン・テイストのお店で、ゆっくり食べることができました。しかし、こういうエリアが人を集めるということは、集まらなくなっているところがある、ということですよね。私が訪れないのにつぶれてしまうお店があるのでは、お気の毒です。

何の問題意識もなく読んでいる、あなた。私は、謙遜したのですよ。私が行くお店はつぶれる、とまことしやかに語られていますが、それは過去に「運が悪かっただけ」(←田中某の発言)です。山中教授がノーベル賞を受ける時代にそんな不合理なことがあるはずはありません。そこで、不肖私、脱「疫病神宣言」をすることにしました。私が通えば通うほど、少なくともその分だけお店は豊かになる、というのが、理に適った考え方です。

その例が、「ラ・ゴローザ」。渋谷に行きつけのお店があることはとても便利であることがわかり、繰り返し訪れています。2回ご一緒した人はひとりもなく、身近な方もほとんどまだご一緒していませんので、これからも回数は増えるはずです。落ち着いた空間で、ママさんの配慮が行き届いている。個性的なお料理がじつに洗練されている。おいしいワインが揃っている。何より、話がしやすい・・・等々の理由で同行した方は皆さん喜ばれ、先日は長老の皆川達夫先生に、お墨付きをいただきました。

お店の方も、大歓待してくださいます。こんな私が、疫病神であるはずがないではありませんか。ただ、気になることもありました。先日の同行者(←私のジンクスを知っている)が景気はどうですか、とわざとらしく尋ねたのに対し、ママさんが、「夏頃から苦戦しています」とおっしゃったのです。皆さん、応援してあげてください。いいお店ですよ。

「疫病神」後記2012年10月18日 00時17分20秒

「脱疫病神宣言」をしたところ、NAK-Gさんが、私こそ真の疫病神である、と名乗り出てくださいました(コメント参照)。たしかに文句のつけようのないご実績で、上には上があると、感服いたしました。この科学的な時代に疫病神など、と書きましたが、こうした実例に接しますと、やはり存在するのかも知れませんね。背中から、見えないオーラが出ているのでしょうか。

今日も、3時にカルチャーを終えてから昼食になりました。付言すれば、新宿校の「マタイ徹底研究」の講座、絶好調です。たいていの場合、テーマを決めて毎回効率よく進めていくのですが、時間を惜しまず説明し、鑑賞する機会をもってみると、その方が要約して話を進めるより、絶対面白いことがわかりました。受講生も次々に質問を出してくれます。

新宿校は西口の高層ビル街にあります。昼食は、ヨドバシカメラ周辺の飲食街へ。ここに広州なんとかというワンタンメンの専門店があり、おいしそうなのですが、いつも行列ができていて、あきらめていました。しかし3時過ぎになるとさすがに席がとれますので、前回の講座のあと訪れ、基本的なメニューを食べてみました。今日は変化球で行こうと思い立ち、降り出した雨の中を、急ぎました。

ところが、店が見あたらないのです。まさかと思ってぐるぐる探してみましたが、影も形もない。飲食店というのは、はやっているようでも、もろいものなのですね。このことと先々週私が訪れたことの間には、ひょっとして隠れた関係があるのでしょうか。

仕方がないので、同じ一角にある磯村水産の新メニュー、サンマしらす丼を食べて帰りました。おいしかったです。

仮説2012年10月19日 00時40分48秒

ノーベル賞・山中先生は、若い人に、どんどん失敗しなさい、と指導されているそうですね。これは、まず仮説を立て、それが一般化できるかどうか実験を重ねていく、という理系の研究現場において、ぴったりとはまるご指導だと思います。もちろん文系にも、応用できる考え方です。

音楽研究の場合、論文を書くためには、事例の研究を行います。方法は、分析、データ収集、フィールドワーク、文献読解など、さまざまです。その過程で論文がまとめられることもままありますが、本当は、次のプロセスまで進んでいなくてはなりません。情報が羅列されているだけでは「何を言いたいのかわからない」ものになってしまうからです。論文には、使うデータや情報の評価や意味づけを欠かすことができない。この段階で、仮説が必要になってきます。

このこととこのこととは、こういう関係があるのではないか。このことは一般にはこうとらえられているが、本当はこう理解するべきではないか--仮説がひらめくと、論文執筆はモチベーションを得て、はかどります。しかし文系といえども一定の論証は必要ですから、さらなる情報収集と検証作業が必要であることは、いうまでもありません。

ここで必要となるのが、良心というか、客観的な真理探究の精神です。いけるのではないか、と思える自分の仮説に対して、どこまで批判的になれるかが重要なのです。なんとかこの仮説を成功させたいという気持ちが先になると、その人は必ず、自分に都合のいい情報だけを集めようとします。そのようにして書かれた論文、著作は筋が通っていてインパクトもあるわけですが、その実態は、見る人が見れば一面的で脆弱です。でも、こうした傾向のものを、なんと多く経験することでしょう。

文化事象はきわめて複雑であるのが常ですから、どんな主張にも、不都合な事例や反対の主張が存在します。それをオミットせず、そうしたものが存在することを認め、それをどう考えるかを記述することによって、仮説の提唱は、格段に重みを増してきます。少なくとも、多様な見方が存在することを明示するために注を活用することを、若い方々にはお勧めします。いずれにしろ、一面的な主張よりも手厚い価値観に、信頼は寄せられるものです。