8月のイベント2013年08月03日 07時28分08秒

気がつくと8月。恒例のご案内です。今月は、朝日カルチャーの新宿校を休みにしましたので、わずかです。

今日、3日(土)は朝日カルチャー横浜校の超入門講座(13:00~15:00)で、チャイコフスキーの〈アンダンテ・カンタービレ〉を取り上げます。この曲の旋律は皆様ご存じのはずですが、楽譜に書くとどうなるでしょうか。チャイコフスキーの書いた通りを耳から再現することは、きっとむずかしいでしょう。理由は2つで、変拍子が「それらしくなく」入ることと、常識からすれば意外なアーティキュレーションが指示されていることです。これらが味わいに貢献していることは確かだと思うので、楽式の基礎論を手始めに、考えてゆきます。

11日(日)14:00~16:30は「すざかバッハの会」。今年は《ヨハネ受難曲》の連続講義ですが、話がふくらみ、来年まで時間がいただけることになりました。ですのであせらず、第1部の終わりに取り組みます。ペテロの否認とテノール・アリアのあるところ。慣行の稿と第2稿が大きく異なる部分です。

17日(土)10:00~12:00は、立川楽しいクラシックの会のワーグナー・プロジェクト。今回は《ワルキューレ》の第3幕です。若い頃圧倒的な感動を受けて聴き込んだ〈ヴォータンの告別〉が対象となります。

毎年夏にやってくる合唱コンクールの審査、今年は、山梨県と埼玉県です。それとは関係ありませんが合唱団Cantus Aminaeと進めている《ロ短調ミサ曲》メイキング、充実のうちにAgnus Dei到達しました。これは21日(水)の予定です。

ところで、私の著作で唯一廃本となっていた『モーツァルト 二つの顔』(旧選書メチエ)を、筑摩書房が文庫化してくださることになりました。8月は、その作業に多くの時間を費やすことになりそうです。

今月の「古楽の楽しみ」2013年08月04日 09時56分50秒

お盆の週になりますが、いかにもバロック、という、器楽曲の特集です。種々の編成を揃えて、「アンサンブルさまざま」と題しました。

12日(月)は2声部特集で、バッハのヴァイオリン・ソナタ(BWV1021、1014)、テレマンのオーボエ・ソナタ、マッテゾンのフルート・ソナタ、グラウプナーのヴァイオリン・ソナタ。マッテゾン(←かつての研究対象)の作品を出すのは初めてです。

13日(火)は3声部特集。フィーアダンクのイ長調組曲を手初めに、ローゼンミュラー、クリーガー、テレマン、ファッシュの種々の編成によるトリオ・ソナタを集めました。クリーガーの作品が珍しく、かつ面白いと思います。残った時間で、ゴルトベルクを少し。

14日(水)は4声部。ブクステフーデのソナタ、パッヘルベルのアリア、フックスのソナタ、シュテルツェルのクワドロ、テレマンのクワドロ。シュテルツェルのクワドロが結構面白かったので、4声部特集を思いつきました。

15日(木)は、ご推察通り、5声部またはそれ以上。こうなると、ウィーンのシュメルツァー、ザルツブルクのビーバーの出番となります。彼らの多声ソナタに、ヨハン・クリスティアン・バッハの五重奏曲、六重奏曲を組み合わせました。

17世紀のシュメルツァー、ビーバー対18世紀後半のJ.C.バッハとなると、まったく別の世界。音楽が、ものすごく人間に近づいてきています。この変化、発展を古楽好きの方々がどう思われるか、少なからず興味があります。

《マタイ受難曲》の「変容アリア」2013年08月05日 18時12分01秒

朝日カルチャー新宿校で牛歩のごとく進めて来た《マタイ受難曲》講座、先週ようやく、第60曲のアルト・アリアに到達しました。第59曲の〈ああ、ゴルゴタ〉を受ける、2本のオーボエ・ダ・カッチャのついたアリアです。

名曲揃いのアルト・アリアの中でもこれが一番好き、ということはかつても書いたかと思いますが、研究を重ねるにつれてその思いが募り、準備の段階で、これを「変容アリアVerklärungsarie」と呼びたい、というアイデアが浮かびました。

シュトラウスの交響詩に、《死と変容》というのがありますね。昔は、《死と浄化》と訳されていました。この変容・浄化がVerklärungで、動詞がverklären。シェーンベルクの《浄められた夜》はその過去分詞を使っています(verklärte Nacht)。他動詞ですが、再帰動詞としても使われます。

ルター訳の聖書では、この言葉が、マタイ17.2と、マルコ9.2に、印象深く登場します。新共同訳でマタイの方を引用しますと、「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」という部分です。

「イエスの姿が目の前で変わり」という部分を、ルターは"Und er ward verklärt vor ihnen"と訳しました。ギリシャ語を受けてmetamorphosieren、ラテン語を受けてtransformierenとする手もあったかもしれませんが、ルターはドイツ語化(Verteutschung)にこだわり、verkrärenとしました。「変容を受ける」「浄化される」イメージがどのようなものであるかは、続く描写から明らかです。ちなみに、『ヨハネ福音書』では「栄光を受ける」という系列の言葉にやはりverkrärenを当てているのですが、これは考察から省きます。

リュッケルト詩によるシューマンの《献呈》に、この言葉が出てきますね。明らかに、聖書を踏まえた用法です。「君のまなざしは、僕を僕から浄化してくれた Dein Blick hat mich vor mir verklärt)の部分で、異名同音によるすばらしい転調の準備されるところです。(続く)

輝き渡るイエス2013年08月08日 07時53分36秒

さて、十字架が立ったことを告げる聖書場面(第58曲)に続くアルトⅠのレチタティーヴォ〈ああ、ゴルゴタ〉(第59曲)は、作品の流れの中で、重要な分岐点に位置しています。ここで、ヴィオローネ+オルガンとチェロのピチカートにより、時満ちたことを告げる鐘の音が響いているからです。それは弔鐘であると同時に救いへの希望の鐘であることが、テキストから理解されます。

その響きがきわめて印象的なのは、この楽曲が変イ長調を基礎としながらもたえず♭、♭♭の臨時記号を内に孕み、♭圏に深く傾斜して、♯満載の群衆の合唱と、鋭い対照をなしているからです。♯圏への傾斜を強める聖書場面の中にト短調のアルトII・アリア、ニ短調のバス・アリアが置かれているため、悲劇と省察の間にはしばらく乖離が生じているのですが、ユニゾンの「私は神の子だIch bin Gottessohn」がホ短調(主調)に歴然と終止したあとに〈ああ、ゴルゴタ〉が響くと、音楽はもう♯調には戻らず、非♯調の楽曲を連ねて、フィナーレへと至ります。以後の30分ほどを「救いと鎮めのゾーン」と呼びたい。ここでどのぐらい「変われる」かが、演奏の感動を左右します。

この偉大なる転換点、戦略上の要衝で、変ホ長調のアリア〈見よ、イエスが私たちを抱こうとして両手を広げているのをSehet, Jesus hat die Hand, uns zu fassen, ausgespannt 〉(第60曲)が登場するわけです。

スタッカートを指定された通奏低音は、十字架が高く伸び上がるような音型を繰り返したあと、鐘の音を鳴らし続けます。アルトは、十字架につけられたイエスの姿に対する、視点の転換を要求する。それは、第2合唱に呼びかける形で行われます。Sehet・・・Kommt(来たれ)!Wohin(どこへ)?のやりとりは、Kommt・・・Sehet! Wen?(後にSeht! Wohin?)という冒頭合唱のそれを、ほうふつとさせます。冒頭合唱における対話が、ここで再現するわけです。

しかし、十字架が実現した今、状況は変わっている。アルトは「イエスの御腕に救済を求めよ」と述べ、ここで初めて、「救済Erlösung」の概念を明示します。それは、生きること、死ぬこと、憩うことが同義となる世界の開かれであることが、中間部で明らかになる。lebet(2回提示)、sterbet、ruhetの3つの動詞は絵画的な音型として対比的に造形されていますが、それらが「ここhier」ではもはや1つものである、さらに言えば「生きる」ことにおいて1つのものであることを、音楽の流れが、力強く物語っています。

この偉大なパッセージは2回繰り返されますが、そこにはオーボエ・ダ・カッチャのモチーフを敷衍した「あなた方、見捨てられた雛たちよ(Ihr, verlassnen Küchlein)の呼びかけが、慎ましく一度限り寄り添っています。感動的なポイントだと思います。

そう思って見ていくと、このアリアを通じて、十字架上のイエスという一種悲惨な対象が、崇高なものとして輝き渡ってくるような印象にとらわれます。「変容アリア」と呼びたい、と申し上げたゆえんです。見直せば見直すほど、その重要性に心を奪われてしまいます。

ドイツで勉強するならこの本を!2013年08月09日 22時32分43秒

6月の旅行の、ツアー最終日。ライプツィヒのホテルから空港行きのバスに乗り込んだ一行を、とても親切な日本人が、ガイドとしてサポートしてくれました。私のこともよくご存じということで、一行を見送ってからもしばらく、話が弾みました。

この方は市川克明さんとおっしゃり、ハレに滞在して、ホルンの演奏と音楽の研究をなさっているとか。そのさい話に伺っていたご著作『音楽のためのドイツ語事典』(オンキョウパブリッシュ)を送っていただき、拝見したところとてもいい本なので、ここでご紹介します。

音楽の勉強にドイツに行くとき、語学学校で会話を勉強することは、ほとんどの人がやると思います。しかし、日常会話には音楽用語が出てきませんから、それを覚えるまでがたいへんですよね。聞いてわからず、言うに言えず、という状態が、当分続くことになります。

そんな経験をご自分もされた市川さんが、楽典、楽器、音楽史に及ぶさまざまな項目に対して、ドイツ語と日本語の相互対照表を作ったのが、この本です。楽器や楽譜には図解があり、カタカナとアクセントの読み方も載っていて、じつにわかりやすく編集されています。アドバイスの文章、もったいないほど豊富な写真にも、市川さんのお人柄と熱意がよく感じられます。

たいへんな労力を費やした本だと思います。あまり知られていないのはもったいないので、ご推薦申し上げます。この内容で2,000円は、安いと思いますよ。

演劇に目覚める2013年08月13日 18時25分45秒

酷暑お見舞い、申し上げます。炎天下でお仕事されている方、お疲れさまです。私がいちばん暑いと思ったのは、11日(土)の名古屋でした。満員の新幹線から降り立っただけに、その迫力はひとしお。汗が滝のように出て、夜、寝てから水を飲みに起き出す始末でした。

11日は、「あいちトリエンナーレ2013」の初日。愛知県芸術劇場には大勢の人が出ているので、いっそう暑く感じます。

覗いたものの中で感動したのは、ままごと『日本の大人』という演劇。柴幸男さんという若い劇作家の作・演出で、子どもが時間の推移の中で大人になるとはどういうことか、何を得て、何を失って、何が変質するのかを、子どもと一緒に見られるような形で、わかりやすく、明るく、楽しく(しかししだいに悲しく)扱ったものでした。

正直なところ、演劇にあまり関心のなかった私ですが、4人の若い俳優が机をどんどん動かしながら作ってゆく(=過去と現在を往復してゆく)スピード感あふれるステージに魅了されました。誇張や押しつけがましさがなく、ひたすら軽妙でユーモラスなのが、何より。演技もとてもよかったです。つい涙が出てしまいました。

演劇に触れることで、オペラの見方が少し変わってゆくといいな、と思っています。

お墓考2013年08月16日 12時21分52秒

当家のお墓は、大宮市の外れにあります。猛暑のお盆、お墓の掃除に行きましたが、暑いのなんの。なにしろ、熊谷が近いのです。

最近墓石を補修し、玉砂利を入れました。墓石は、白御影石の立派なものです。父が死んだのはもう30年以上前ですが、その時父が石にこだわっていたのを覚えています。そんなところに見栄を張るのかなあ、と当時は思ったのですが、最近妻に聞いたところでは、父は私が入るときに恥ずかしくないように、という思いから、石を探していたとか。時間が経ってこそわかる、親の恩ですね。

お墓や葬式の相談も、家族で始めています。驚くのは、世間における簡略化の、急速な流れ。お墓を作らず灰を撒く、という流行(?)を実践する人が、周囲にも出てきました。葬儀を内輪で済ませる人は、増える一方。自分のことで迷惑をかけないように、と考えられる方が多いようです。

予定が詰まっているときに葬儀の知らせが入るのはたしかに困りますが、一方では、人がひとり亡くなるのを簡単に済ませていいものだろうか、という気持ちも、とてもします。難しい問題ですね。

今のところ私は、四分六で、お経を上げる葬儀をやってもらおうと思っています。人間の生死がこの世の人間関係だけにかかわるのであれば、迷惑をかけないように、という発想も納得できるのですが、現世を超える視点から考えたいとなれば、おのずと答が違うように思われる。簡略化の便宜を享受しつつも、日本人の文化伝統を振り返るにつけ、これでいいのかなあ、と思う昨今です。

ねじり合い2013年08月19日 10時39分01秒

「先生、よく一回で覚えられましたね」という声が、背後のダヴィデヒデさんからかかりました。場所は、韮崎市(山梨県)の文化ホール。楽屋から、合唱コンクールの審査員席に向かう途中のことでした。

私の弱点は、方向音痴であること。ホール内の移動はたいてい迷路のようなルートになり、いつもご迷惑をおかけするものですから、この日は、意識的に覚えようとしました。幸いなことに、いつになく容易なルートでした。報われた思いでとても嬉しくなった私は、「今日は覚えたんですよ!」と答えました。

しかし、答えている最中に早くも気がつきましたね。ほめられているとは限らない、ということに。「よく一回で覚えられましたね」の前に「方向音痴なのに」とか「お歳なのに」とかを補うと、意味合いは180度異なってきます。しかも言葉を発したのが、ダヴィデヒデさん。この方は、読心術にたけ、話術は当意即妙、切り返しは天才的、という、じつに「手ごわい」方なのです。コインロッカーのような事件を、いつも楽しみにしてくださっています。

コメントをお読みの方はご承知だと思いますが、ヒデさんは大の、いや特大の巨人ファン。審査員室ではさっそく野球の話になりました。よりによってこの時節に鼻付き合わせなくても、と慨嘆する私に、ダヴィデヒデさんは、どんどん野球の話題を振ってきます。若い人の知らない言葉を使えば、「嵩にかかる」という形です。

驚いたことに、表彰式の講評でも、「審査委員長の礒山先生はアンチ巨人」とおっしゃるではありませんか。私はよほど、「嵩にかかることは人間として慎みましょうね」と客席に呼びかけようかと思いましたが、やはり合唱の話をしなければと思い、ぐっとその言葉を呑み込みました。時節柄、がまんするほかはありません。

平素は携帯の「モバイル・ジャイアンツ」で、試合の経過を確認します。現場では確認するゆとりがありませんでしたが、後でわかったのは、まさにそんな話をしている間に、菅野が中日打線にめった打ちに遭い、巨人が完敗したことでした。しっかり確認し、講評のさいに試合経過を報告しておくべきだったと、つくづく後悔しました。案外、武運の分かれ道は山梨県にあったのかもしれません。

(山梨の合唱連盟の方々、お世話になりました。いいコンクールでした。)

まじめな注釈2013年08月20日 10時46分23秒

昨日は合唱コンクールの最中にかわされた話題を「野球」カテゴリーでご紹介しましたが、ダヴィデヒデさんからのレスポンスに「でも審査中は実に真剣でしたよね!?」とあるのを読み、誤解を生ずる可能性があることに気づきました。コンクールのこともときおり書きますので、私の感想を知りたいと訪れてくださった方もあるでしょうし、みんなが一生懸命やっているのに審査員はそんな話をしているのか、と感じた方もおありかもしれません。無粋ですが、注釈しておきます。

コンクールの審査では、皆さん、「実に真剣」です。次々と入れ替わる出場団体に対して、講評を書き込みながら採点し、伯仲する中で順位を付ける。高い集中力の要求される、責任の重い作業です。終わると採点が公表されるのですから、逃げが利きません。それだけに、審査員に対する主催者側のお気遣いはたいへんなもので、今回も恐縮至極でした。

休憩や食事の間に、何を話すか。演奏への感想を語り合う、ということは、まずしません。誰もが迷っていますから、ちょっとしたことで、動かされてしまうのです。お互いの観点を尊重し合うために、参考意見を求めることもせず、あくまで自分の中で解決してゆきます。

ですから、野球の話でもして緊張をほぐすのが、ちょうどいいのです。今回は気の置けない方々、会話量もほどほど、笑いもありで、採点に集中することができました。

総じて言えば、合唱には、山梨の方々のまじめさ、折り目正しさ、控え目さがあらわれていたと思います。全体に正統的で、ラテン語の宗教曲がたくさん歌われたのもうれしいことでした。高校の中にはラテン語がよく勉強され、動詞が全部動詞に聞こえた(!)ものがあり、当然内容が訴えかけてきますから、私の一位を差し上げました。

安心して聴けるもの、じっくり聴けるものが多かった反面、リズムの軽快さや躍動する生命力は、もっと思い切って追求されていいと思います。長所はそれぞれですが、一般論として、そう感じられました。

今月のCD2013年08月22日 09時57分12秒

ベッリーニの歌劇《ノルマ》(デッカ)を選びました。クリティカル・エディションを使い、ピリオド楽器オーケストラ(ラ・シンティッラ管弦楽団)を起用した、異色の《ノルマ》です。あのジョヴァンニ・アントニーニ(イル・ジャルディーノ・アルモニコの指揮者兼リコーダー奏者)が指揮をしています。

古楽の波がついにここまで、という感慨を抱きますが、たしかに演奏は、従来のそれと大きく違う。新しい眼で楽譜を見直し、作品像を再構築しているというプロセスが、生々しく伝わってくるように思えるのです。そのこと自体には長所も短所もあり、道半ばの吹っ切れなさが残っていることも確かなのですが、有意義な一歩と考えて、選びました。

ピリオド楽器は質朴ですが人声をよく生かしますし、バルトリのノルマ、スミ・ジョーのアダルジーザのコロラトゥーラ対決はみごとです。ヴィヴァルディ、ロッシーニ、ベッリーニをつなぐ歴史が見えてきたように思います。

ゲルハルト・ボッセさんのブルックナー《第8》に感動したばかりのところへ、手塩にかけた神戸市室内合奏団を指揮したメンデルスゾーン《スコットランド交響曲》とベートーヴェン《第4》の実録が出ました。気持ちが清らかになる、本当にいい音楽です。大切な方だったのですね。