「アフター・トーク」初体験2015年02月07日 22時47分23秒

コンスタンティン・リフシッツによるバッハ《平均律第1巻》全曲という重量級のコンサートに、「アフター・トーク」を頼まれました。初体験です。

しかし、どうしゃべったらいいのか、イメージがつかめません。コンサートが終わった後というのは、皆さんがそれぞれの感慨を胸に、帰宅を急がれる時間。そこに出ていって何をしゃべっても、「蛇足」になってしまいそう。しかも何をしゃべるべきか、事前に想定ができません。

そこで簡単なメモを作るのみで、所沢ミューズに到着。そうしたら、私がやるのは「アフター・パフォーマンス・トーク」と案内されているのですね。一瞬、何かパフォーマンスをやらなくてはいけないのか、と驚いてしまいました。あ、アフターっていうのは前置詞ね(ほっ)。

リフシッツの演奏は、すごかったです。各曲をアタッカで途切れることなく演奏していくのですが、各曲の思い切った対比の中に一貫した流れが把握されていて、体系性をもった音楽世界が目の前に構築されていくかのよう。1曲ずつ休み休み積み重ねていく普通の演奏は、もう聴けなくなってしまいそうです。リフシッツの、傑出した大局観です。

そんなあとに話でオチをつけることなどできるはずもなく、60点いただければせいぜいの、まとまりのない話になってしまいました。すみません。次は、もっときちんと準備して臨みたいと思います。

それにしても、大阪でモーツァルトのコンチェルトを2曲弾き振りし、次の土・日でインヴェンション+《音楽の捧げもの》と《平均律第2巻》の全曲とは、この方のキャパシティはどうなっているんでしょう。全部、完璧に頭に入っているのです。

続・うかつな方のために2015年01月29日 01時01分36秒

慎重に日々を過ごしている、私。「一分の隙もない」と評された方が、複数あります。ほめられているとは思いませんが、慎重さの結果うかつさに不足するとすれば、やむを得ないことです。

水曜日は、会議の後オペラに行くことになっていました。こういう時にありがちなのは、会議の資料は持参したが、オペラのチケットは忘れてしまった、というケース。もちろん私のことですから、しっかり確認して持参しました。

ところが、新国立劇場に入場しようとしたところ、どこをどう探しても、チケットが見つからないのです。階段でバッグやポケットを必死で探している私の姿に気づいた方も、いらっしゃるかもしれません。

結局あきらめて、チケットを忘れたと申告(シャレではないですよ)。親切に再発行していただき、所定の座席に座ることができました。でも心臓に悪かったですね。チケット、会議場に置いてきたのかもしれません。

観たのは、《さまよえるオランダ人》です。スロースタートでしたが、第2幕の二重唱あたりから急激に盛り上がりました。4人の外国人キャストにたいへん力があり、合唱も良かったです。最後は、ゼンタが幽霊船を操縦して自沈するという演出。それなりに納得する幕切れでした。・・・これって、マイナスをプラスに変えたことになるんでしょうか。

感謝をこめまして2014年12月28日 11時53分20秒

今年最後のイベント、《冬の旅》を無事終えて、ほっとしていること限りなしです。多くの方に支えていただき、田中純さんという、けっして広く知られているとは言えないバリトン歌手の芸術を、世に知らしむる一助になったかと思います。

私自身にとっては、《冬の旅》という作品としっかり向かい合う機会を得たのが、なによりのことでした。この尋常ならざる作品が、今では、ぐっと身近に感じられます。

楽器と演奏者が優れているならば、という条件付きですが、この曲にはフォルテピアノの使用に格別の価値がある、ということを確信しました。自筆譜に見られるシューベルトの「激しい」筆致を「激しく」表現して則を超えないのは、フォルテピアノであってこそです。軽いタッチによる繊細さと和声の透明感はもちろん、当日使用されたシュトライヒャーの楽器(いずみホールにもあります)の、4本のペダルによる音色の対比は、現代ピアノには求められないものです。〈菩提樹〉のそよぎが色合いを変えて浮かび出るさまは絶品でした。

田中さんはフォルテピアノの響きに耳を傾けつつ、その中に入りこんで歌っておられました。フォルテピアノの響きを初体験にしてこれほど喜ぶ歌い手は、そうそうおられないと思います。田中さん、渡邊順生さんの相互評価が熱烈であったことが、私の安堵の主因でもあります。

渡邊さんが田中さんに共感され、パンフレットの印刷から集客まで引き受けてがんばられている姿は、感動的でもありました。作品解釈については私との間にかなり隔たりがあったのですが、それを長文メールで率直にぶつけてくれるのが、渡邊さん。バトルの様相を呈する対立をお互いに勉強して乗り越えていくのが、私と彼の関係です。めったにないことと、感謝しております。

【訂正】ごめんなさい、「解釈に隔たりがあった」というのは、スタート時点のことです。その後落としどころも見えてきて、当日違和感はありませんでした。謹んで訂正します。

上昇の気配(?)2014年12月26日 07時16分24秒

クリスマス、皆様いかがお過ごしでしたでしょうか。過去形で書きますが、バッハの時代であれば、今日26日が三が日の中日です。今年は寒いので、レジャーどころではなかった、という方もいらしたことでしょう。

私にとって今年最後のイベントである《冬の旅》(サントリーホール・ブルーローズ)が、いよいよ迫ってきました。字幕作成も終わり、今日、ゲネプロです。緊張のせいか、早く目が覚めました。

ときおりプロデュース・コンサートをする私ですが、今回は京都のアーチストを紹介するという前提で出発したため、お客様に来ていただけるかどうか、少なからぬ不安をもっていました。夢に出てくるほどでしたので、私も販売に、いつもよりは努力を払いました。

チケットの売れ行きは把握していませんが、どうやら盛り上がってきているのではないか、という感触があります。15:00の演奏開始に先立ち、14:30から、プレトークを行います。梅津時比古さんとの対談です。

《冬の旅》が名曲であることは、どなたにも異存のないところでしょう。しかしこの作品が何を言おうとしているのか、となると、先日記したように、なかなかとらえがたいところがあります。そのあたりの意見交換を行い、今回の売りである「自筆譜稿」への見解もいただいて、演奏者に引き継ごうという計画です。田中純+渡邊順生の顔合わせにご期待いただきたいですが、主役はあくまで作品、というのが全員のスタンスです。

では明日、お目にかかります。

完遂2014年12月22日 22時29分44秒

10日に及んだ「正念場」、今日(月)の授業で、完遂しました。手抜きなしでできたと思います。しかしずっと集中していましたので、体力はすべて使い切りました。肩の荷がすっかり下りた気分です。

後半は、さすがに危うい状況でした。乗り越えられた要因のひとつは、土曜日の講演が、モーツァルティアン・フェラインの方々のおかげでとても気持ちよくでき、元気が出てきたこと。土曜の夜、深夜に及んだ字幕作りは本当にアップアップでしたが、日曜日に須坂で、心に適うコンサートができたことです。「すざかバッハの会」の恩恵を、かぎりなく蒙っている私です。

市長さんも駆けつけてくださった、クリスマス・コンサート。ルネサンス・ハープとチェンバロの二刀流を、西山まりえさんが披露されました。ハープには、今までさほど興味のなかった私です。しかし、人間の指がガット弦に触れる響きのやさしさが心に染み、大いに感動。いにしえの人々の生活や思いに対して広がるファンタジーが、すばらしいのです。

そして、テノールの櫻田亮さん。《アマリリ麗し》を初めとする古典イタリア歌曲が、当時の楽譜と歌唱様式で、言葉を目いっぱい生かしながら歌われるさまを、多くの方に聴いて欲しいと思いました。歌のレベルの高さと、爽やかなお人柄が調和しているのです。チェンバロ、テノール、フルート(塩嶋達美さん)によるバッハ・コーナーの最後に、カンタータ第147番のコラールが、会有志の合唱団により演奏されました。

日頃合唱されている方々がよく練習しておいてくださり、それを櫻田さんがテキスト表現にこだわって指導されましたので、想定外の、心温まるハーモニーが出現。会にとって、本当に嬉しい瞬間が訪れました。写真を1枚。私から右へと、西山さん、すざかバッハの会会長の大峡喜久代さん、櫻田さんです。


これだけの無理は、もうできないかもしれません。できること、できないこと、望ましいこと、望ましくないことを、整理する勇気も必要だと思っています。

なつかしの1日2014年11月02日 22時54分52秒

定年を迎えるということは、一つには職場のために使われていた時間が、別の目的のためになし崩しになっていく、ということです。結果として、お世話になった職場のことも、意識から薄らいでいく。まさにそうなりかかっていたところへ、国立音楽大学から出番をいただき、31日(リハーサル)、1日(本番)と、久々にお邪魔してきました。

1日は、ホームカミングデーというイベントの日。卒業生の方々を年に一度お招きし、学内見学とコンサートを楽しんでいただいたあとパーティで旧交を温めよう、という企画です。そのコンサートに、山梨県の合唱団「La Consòrte」といっしょに、私のプロデュースする「モーツァルトの二重唱~恋の味さまざま」を出品させていただきました。

これは、管楽器の伴奏するオペラという、国音オリジナルとして追究してきた企画シリーズです。各県の卒業生の方々と共催して、ずいぶん演奏旅行をさせていただきました。2012年には、いずみホールでも披露しています。

感覚が戻るかどうかちょっと危惧しましたが、その心配はありませんでした。レクチャーをしながらの本番で本当に驚かされたのは、正味45分ほどの内輪のコンサートに、出演者の全員が、文字通り全力投球してくださったことです。その真剣さが客席も巻き込み、熱い盛り上がりが作り出されたと申し上げて、身びいきではないと思います。アンサンブルを大切にする音楽への向かい合いと、そこに生まれる温かさ、失われていなかった信頼関係。国音っていいところだなあと、あらためて思いました。

熱気にあふれた楽屋での写真を公開します。残念ですが、歌い手だけ。編曲で貢献した足本憲治君も、その場にいれば良かったのですが。


左から、葛西健治君(テノール)、松原有奈さん(ソプラノ)、私をおいて澤畑恵美さん(ソプラノ、最多出場)、成田博之さん(バリトン)。この表情を見ると、楽しくて仕方がない、というお言葉もどうやら本当のようです。また、どこかで生かしたい企画です。

ジョンはヨハネ2014年10月27日 23時31分12秒

26日(日)は、一橋大学の兼松講堂(国立市、家から歩いて10分ちょっと)で、渡邊順生さんによるモンテヴェルディ《聖母マリアの夕べの祈り》の公演がありました。私はいわば閣外協力。解説と字幕を提供し、ナビゲーターを務めました。

この講堂、響きといい雰囲気といい、とてもいいですね。演奏も、クリアな音像が作り出されて緊張感が高く、本格的だったと思います。やはり、ジョン・エルウィスの存在が絶大。作品が完全に自分のものとなっていて、ラテン語のセンテンスが明瞭に聞こえてきました。全体としては、そこにやはり課題が残ったと思います。しかし演奏するから課題も生まれるわけで、出演させていただいた仲間たちも、さぞ勉強になったことでしょう。

ジョン(=ヨハネ)で思い出しました。最近よく受ける質問は、「ギリシャ語の勉強はまだされていますか」というものです。どうやら、礒山は三日坊主、という認識が世にあるようなのです。

やっていますよ。『ヨハネ福音書』第1章に続いて、第18章を暗記しました。受難曲のテキストでいうと、第2部、テノールのアリアの直前まで来ています。明日から、第19章をやります。

始めて良かった、の一言です。聖書を原語で読むことの意味が、本当によくわかるようになりました。ましてや暗記していますので、記述の関連とか、書き手の工夫とかが感じられ、興味が尽きません。慣れてみると、メッセージはけっしてソフィスティケートされたものではなく、いい意味で単純なものです。興味のある方はぜひ、挑戦してみてください。

長野県周遊(3)--別所温泉~松本2014年09月01日 16時42分50秒

26日(火)。戸倉から上田に出て、別所温泉を往復することにしました。父が昔ときどき宴会に行っていたのを覚えていますが、私は初めて。ローカル列車はそれなりに本数がありますし、キャラクター衣装の女性駅員さんもいる。どうやら、相当な大観光地のようです。

名所の印象は、温泉地に足を踏み入れて、確かなものになりました。長野県最古の温泉地にふさわしい風格があり、歴史的な建造物にも恵まれているのです。折からの雨は、この日も歩き始めたとたんに猛烈化。国宝の安楽寺八重塔もびしょ濡れでした。


北向観音に接して、大木があります。この大木、映画と歌謡曲で有名な「愛染かつら」なのですね。写真を失敗してしまったのが残念です。公衆浴場につかり、上田に戻って昼食を摂りましたが、泊まりがけで訪れたら、さぞいいことでしょう。

この日の夜は、松本。篠ノ井まで戻り、松本行きの鈍行に乗り換えました。篠ノ井線は南西に向かって斜面を登っていくのですが、駅から、いかにも景色の良さそうな高台が望めます。そこが遠足にも行った姨捨だということは、現地人であるにもかからわず、認識していませんでした。列車は、ホーム自体が善光寺平の展望台という、すばらしい景観の駅に泊まります。ホームから望める三大景観の1つだそうですが、じつに気持ちのいいところです。


松本では久しぶりに、サイトウキネンフェスティバルを鑑賞しました。ヴェルディの《ファルスタッフ》。なにぶんの超名曲。ファビオ・ルイージ指揮のもと、ずらりと揃った外来スターが習熟した舞台を繰り広げていて感動しました。同時に、この贅を尽くした堂々たる音楽祭を支える地元はさぞたいへんだろうなあ、という思いもいつも以上に湧く、今年の公演でした。

写真わずかですが2014年08月11日 23時22分13秒

モンテヴェルディのコンサートから、もう10日経ちましたね。早いものです。写真を探してみましたが、まさお君のスナップが若干あるだけでした。それでがまんしていただき、若干の回顧談を。


ご覧のように、チェンバロの鼻を舞台上に突っ込んだ形に配置しました。渡邊さんが全体を統括できるようにし、ハープ演奏の見た目なども楽しんでいただこうという配置です。《ウリッセ》第1幕、牧童から女神に変身したミネルヴァ(渡邊有希子)に、ウリッセ(櫻田亮)が臣従の姿勢を取っているところ。見せ場のひとつです。


次は終了後の楽屋。中央が私、左が加納悦子さん。熱く長い拍手に、みな感激していました。よくコンサート終了後、拍手が続いているのに演奏者がさっぱり出てこなくて、どうしたんだと思うことがありますよね。その理由、わかりました。袖で譲り合っているのです。


同じく終了後の楽屋。幸運の神/小姓の川辺茜さんと握手しているところ。後ろがヴァイオリンの渡邊慶子さん、奥が、終わると睦まじいオッターヴィア(加納さん)とポッペア(阿部雅子さん)。

コメントでこの企画の教育効果を指摘していただいたのは、たいへん嬉しいことでした。出演したのは国音時代にiBACHや論文指導の場で知り合った仲間たちですが、ほとんどは歌曲専攻、バッハやバロックの大好きな、知性派ぞろいです。渡邊順生さんも休憩中に「国音のレベルの高さはたいしたもの」とおっしゃっていましたので、必ずしも身びいきではないと思います。みな、作品本位に、一生懸命勉強する人たちです。

音楽の世界全体から見ればささやかもいいところの場ではありますが、少しでも残るものがあれば、と思っております。よろしくお願いします。

字幕と「集中」2014年08月07日 11時43分20秒

ルビーさん、「舞台と一体化した快適な字幕」というお言葉、字幕チーム一同、ありがたく受け止めております。

昨年は、ホール備え付けの高性能プロジェクターをお借りする予算のないまま、平素小教室で使っている「たのくら」から機械をお借りし、持ち込んで使いました。結果として前半はほとんど見えず、なんとか調整した後半も見える場所が限られるという事態となり、いかにも残念だったことを思い出します。

そこで今年は、一定の性能のあるプロジェクターをレンタルで持ち込み、投射方法にも工夫を重ねて、機能させることができました。私のもと、芸大の藤田瞳さん(オペレーター)、友人のまさお君(アドバイザー)という形でチームを組みましたが、お褒めの言葉をいただけたのは、藤田さんの献身的な取り組みのおかげです。

私のプロデュースするコンサートに、字幕は欠かせません。内容を理解して聴いていただきたいからです。オペラの字幕はいま本当に普及しましたが、言葉を理解して聴くことによって内容への感動が高まるという意味では、宗教音楽も歌曲も同じだ、というのが私の考えです。ただ、字幕を必ずしも歓迎しない演奏者も相当数いらっしゃることが、だんだんわかってきました。とくに歌曲では、そうした方が多いようです。

理由は、お客様の視線があちこちになることで、集中が削がれる、ということだそうです。手元の対訳を見たり、ページをめくったりすることも、同様でしょうか。演奏者の立場からすれば、そうかもしれませんね。

ただ私は、演奏者を凝視し続けることは演奏者に対する集中であって、作品に対する集中とは別なのではないか、と思うのです。詩の内容、言葉の意味に対する把握が行われていてこそ、作品から多くのものを受けとることができる、と考えるからです。字幕と対訳は一長一短でしょうが、字幕の方が、同時把握はやりやすいと思います。

というわけで、これからも極力字幕を使おうと思っています。もちろん、よりよい翻訳の準備、邪魔にならず見やすい設置と投射の工夫など、つねに考えていかないといけませんよね。お客様にも、字幕に慣れることで、上手に利用していただけるようお願いします。