行きがけの駄賃2015年08月29日 09時43分50秒

セイジ・オザワ松本フェスティバルに出かけるにあたり、どこか、知らない町に行ってみようと思いました。

そこで早めに出て、「スーパーあずさ」を上諏訪で下車。待っていたJR飯田線に乗り換え、天竜川沿いに、南へ。長野県暮らしが長かったのに、こちらはほとんど来たことがありません。

あまり進むとコンサートに遅れますから、伊那あたりがせいぜいと検討をつけ、伊那市駅で下車。初めて降りましたが、思ったより小作りな町並みで、行き交う人も希という感じです。ひとつの目当てが、いくつものお店がオリジナルを競っているという、ソースカツ丼。ボリューム豊かな一品をいただいてから、天竜川を渡り、小高い公園を往復しました。天竜川はまだまだ上流で、大河の面影はありません。


飯田線は1時間に1本。ほとんどの駅が無人で、車掌さんがその都度下車しては、切符を回収しています。無人駅の伊那北から乗り、岡谷で下車。天竜川の発端に行ってみました。天竜川は、諏訪湖から流れ出ているのです。

諏訪湖の北端には公園があり、小口太郎《琵琶湖周航の歌》の歌碑がありました。大正ロマンですね。「はかない恋に泣くとかや」云々。諏訪湖の眺めは大きく開け、裾野を引く八ヶ岳の頂は、雲に隠れていました。


こちらは、天竜川の流れ出す岡谷側です。


水に心を和ませてから中央本線に乗り、松本へ。その晩は、ベルリオーズの歌劇《ベアトリスとベネディクト》の豪華な公演でした。行くたびに感心するのは、超弩級のフェスティバルを支える、地元の献身的な貢献です。ボランティアの皆さんも大活躍でした。

命の洗濯2015年08月06日 07時20分37秒

2日(日)は、須坂で《トリスタンとイゾルデ》をテーマとして講演した後、バッハの会会長様の心づくしで、山田温泉平野屋さんに一泊。志賀高原に向かう谷間にある宿です。温泉は家族的な宿に限る、と思ってしまうほど気持ちのいいところで、谷を渡る風の、涼しいこと。

翌日も、好天です。同行したまさお君(長年の親友かつアシスタントで、物知りのため事典のように使える)の発案で、「鬼押出し園」に向かいました。彼が子供の頃住んでいたところに近いのであるとか。私も千曲の育ちなので、昔父が「鬼押し出しに行ってきた」という話をしていたのを、かすかに覚えています。

軽井沢で下車、群馬県側に入ったところにある鬼押し出しは、浅間山の裾野に広がる奇岩の密集地帯。江戸時代の大噴火によって生まれた景観だそうで、鎮めのため建立されたお寺と一つになっていまです。


自然の雄大さは、想像を超えたすばらしさでした。眼前に浅間山がドーンと聳え、広がり感が、かぎりないほど。酷暑の東京で仕事を続け、調子も芳しくなかったのですが、自然を呼吸することで、身体から毒素が抜けていくような感じがしました。自分は山が好きだなあ、と思うことしきり。


遊歩道が多角的に設置されていて、奥の方にいくと、静寂そのものになります。ウグイスの声を聴いたのは何年ぶりでしょうか。たっぷり歩き、元気の出てくる1日になりました。



ヨーロッパ真摯の旅2015(17)--写真の補い2015年06月29日 23時24分41秒

かくして、19日(金)にフランクフルト空港で皆さんとお別れし、20日(土)の朝、関西国際空港に到着しました。この日いずみホールのコンサートでステージに乗ることになっていましたので、こちらに降りました。湿度の高さにびっくり。

失敗もかつてなく大きかった旅行ですが、コンサートがいずれもすばらしく、同行者にも恵まれて、充実度のたいへん大きな旅行でした。それを支えてくれたのは何といっても朝日サンツアーズの行き届いた目配りと、エース級の添乗員、叶谷真起子さんの献身の賜物だと思います。もしまた次の企画ができるようでしたら、皆様のご参加をお待ちしています。

掲載できなかったポーランドの写真、いくつか補っておきますね。


観覧車の上から、グダンスクの市街地と運河を見下ろす。


ワルシャワ旧市庁舎の塔に登り、ポーランド第一の河川、ヴィスワ川の流域を見下ろしたところ。


ワルシャワ聖アンナ教会のオルガン。


クラクフの中央広場、食事に入ったレストランから。ウェイトレスさんがとてもチャーミングで、いい食事ができました。


クラクフの公園。緑が豊かです。


ヴィスワの河畔から、ヴァヴェル城を望む(クラクフ)。今回一番気に入ったスポットで、しばらく昔を偲びました。


ヨーロッパ真摯の旅2015(15)--掘り出し物2015年06月27日 22時41分14秒

「ニーチェの家」の観光も済ませ、バスはナウムブルクからヴァイセンフェルスへ。ここまで来て、寄らない手はありません。バッハが《狩のカンタータ》を初演したとされる「狩の館」(イェーガーハウス)がレストランになっていて、そこで昼食。最近は、苦いピルツよりふくよかな白ビールが好みです。おいしい。

ヴァイセンフェルスは妻アンナ・マクダレーナの出身地で、バッハも「宮廷楽長」の肩書きをいただいていたほど懇意なところです。その新アウグストゥス城は牛歩のごとく改装中でしたが、別団体に便乗して、運良く城館礼拝堂を見学することができました。天井近くにしつらえられたこのオルガンで、ヘンデルは才能を見出されたのだそうです。バッハも演奏した記録があるとのことでした。


ヴァイセンフェルスはシュッツが子供の頃住んでいたところで、家も残っています。今回は寄れませんでしたが、《白鳥の歌》の楽譜が城館の壁に描かれていて、目を引きました。


皆さんが聖トーマス教会聖歌隊のカンタータ・コンサートに行かれた夜。私はなにしろ夢の疲れがあり、ホテルで休養しました。最後の18日(木)になり、ようやく、市街へ買い物に。

CDだの文献だのを仕入れましたが、本当の目標は、古本屋に出ている神学書でした。バッハ時代の聖書解釈書でも出ていたらいいなあ、と思い、数件を回りました。どの古本屋さんにも、小さいですが、神学書のコーナーがあります。

最初の本屋さんに、表紙に書名もないまま埋もれている1冊がありました。開いてみてびっくり。それはバッハの宗教蔵書に含まれている、17世紀初めの神学者ヨハン・アルント著『真のキリスト教』の増補版だったのです。バッハの宗教蔵書を読みにヴォルフェンビュッテルの図書館に行くのが私の研究ですから、1冊手持ちできるのは願ってもないこと。多少の出費は厭うまい、と心に決めました。


すると、値段は24オイロで、3000円ぐらい。一桁違うように思えましたが、無事手に入れることができました。この旅行すなわち「真摯の旅」、最高の収穫です。


ヨーロッパ真摯の旅2015(12)--ハレでルターに会う2015年06月24日 22時48分57秒

失敗を繰り返し、同行者をさえ巻き込んだ私の旅。それでも楽しかったという原晶子様のコメントをいただいて感激し、昨夜はワインを飲み過ぎてしまいました。待てよ、そんな名前の人はいなかったぞ・・・と、「疑い深い」私はなりすましを疑ったのですが、それにしては、細部があまりにも正確です。同行者の中に、文才に優れた方がおられたのでしょう。ありがとうございます、ほっといたしました。

16日(火)は、列車で経由したばかりのハレへ、オプショナル・ツアー。名ガイド及川りかさんの心をこめたご案内によると、ハレは中央広場の5つの塔が目印であるとか。すごい高度で、写真がゆがんでしまいます。


左に聳える聖母教会は、この都市で生まれたヘンデルが洗礼を受け、バッハがオルガニストに選ばれ(辞退)、オルガンの鑑定を行ったところ。壁には、代表的な音楽家のネームプレートが刻まれていました。バッハが亡くなった時点で、長男がここの作曲家兼オルガニストをしていました。


この教会の一室にルターのデスマスクがあり、当日、特別に見せていただきました。しかしこのデスマスクは「眼」が入っていて、ぎょっとするようなリアリティ。この見学は、その後起こった出来事に重大な関係をもったのではないかというのが、同行の方々のご意見でした。

その後はヘンデル・ハウスで、ヘンデル関係の資料やピリオド楽器の数々を見学。最近ヘンデルをよく取り上げていますので、参考になりました。

夜は、「バッハとゼレンカのラテン語教会音楽」と題する、聖ニコライ教会のコンサートへ。拙訳のヴォルフ『ロ短調ミサ曲』に詳論されているように、バッハの晩年は、ドレスデンから流入するラテン語教会音楽が、ライプツィヒでシェアを伸ばしていました。バッハもそれを勉強し、編曲や作曲も手がけて、《ロ短調ミサ曲》後半部へとつなげていったわけです。プログラムはその様相をまさに伝えてくれるもので、バッハの〈サンクトゥス〉ニ長調BWV238と小ミサ曲ヘ長調BWV233に、ゼレンカ晩年の《すべての聖人のためのミサ曲》ZWV21が組み合わされていました。

私がこのコンサートを皆さんにお薦めしたのは、ヴァーツラフ・ルクス指揮、コレギウム・ヴォカーレ1704、コレギウム1704という、このところ台頭著しいチェコのアンサンブルを聴いておきたかったからです。

ゼレンカが、とても良かったですね。ルクスの個性が前面に出た、メリハリ豊かに聴かせる演奏。若干ケレン味もあるが若々しく、面白く、演奏水準も、じつにしっかりしています。ヴィヴァルディにロマン的味付けを加えた感じでしょうか。合唱の各パートは4人。そのトップがコンチェルティストを務めることは、もはや常識なのですね。どのソリストも、申し分なくうまかったです。

フェスティバルで賑わうライプツィヒの夜は、ちょっと遅くなると、お店探しがたいへん。その夜ようやくみつけたお店は、安いが怪しげで、お酒もちょっと。このことも、それから起こったことに関係したのではないか、というのが、皆様のお見立てです。

ヨーロッパ真摯の旅2015(11)--体が震える2015年06月23日 21時45分27秒

ルター都市ヴィッテンベルクからのベルリンとハレを経由した大帰還につき、「個人のトラブルを超えて、他のお客様を巻き込んでしまう大幅な発展」という、身に余るご評価をいただきました(taiseiさん)。まこと、励みになります。

カラカラの喉を水で潤し、取り急ぎ着替えて、聖トーマス教会へ。いつ見ても、秀麗な教会ですねえ。今日のコンサートは、ミヒャエル・ラドゥレスクによるオルガン・コンサート。心身共に消耗した状態で聴くオルガン音楽は、どんなものでしょう。



ラドゥレスクはいずみホールのシリーズに出てくれたことがあり、人格識見ともに、私の尊敬する巨匠です。プログラムは、ライプツィヒ時代の難曲をずらりと並べた、意気込み豊かなものでした。

プレリュードとフーガホ短調BWV548/《バビロンの流れのほとりで》BWV653/トリオ・ソナタ第3番ニ短調BWV526/クラヴィーア練習曲集第3部抜粋(プレリュード変ホ長調~コラール3曲~フーガ変ホ長調)

そのすばらしさといったら・・。コンサートホールで聴くオルガンの響きは鋭角的になりがちですが、トーマス教会オルガンの響きは、高く広い空間の支援を得て、余裕たっぷり。ペダルの弾く重低音のスケールは比類がなく、あたかも、教会がいっしょに演奏しているかのようです。

しかも次から次へと名曲が登場し、それらがラドゥレスクの卓越した構築力で、すべての声部が豊かに歌いながら演奏されていくのですから、私はもう、全身がわななくほど感動してしまいました。よくある言い方をすれば、このコンサートには「バッハが降りてきていた」と思う。バッハの音楽の真髄がオルガン音楽にあること、バッハががペダルの名手とたたえられていたことにどれほど大きな意味があるかが、よくわかりました。

この夜とあの昼間は、どういう関係に立つのでしょうね。悪いツキの消費と良いツキの温存という、私の理論で説明できることなのか。あるいはそういう昼間だったからこそ、音楽が偉大な慰めとして機能したのか。すっかり気分をよくした私は、同行者の方々と、おいしいワインで乾杯したのでした。

ヨーロッパ真摯の旅3ーグダンスク2015年06月13日 14時37分33秒

ちょっと補足します。ライプツィヒの空港から、列車で中央駅へ。そこでコインロッカーに荷物を預け、身軽になってポーランドに行ってこよう、という計画です。ところが、ライプツィヒ行きの列車が1時間以上遅れていることが判明。そこでタクシーに切り替え、無事、コインロッカーに荷物を納めました。後日、中身を取り出します(なぜか、当たり前のことを書いてしまう)。

ベルリン着が夜の10時を過ぎましたので、ここもタクシーで、空港に近いホテルへ。翌朝テーゲル空港までは、バスで一足でした。グダンスク行きの飛行機は久しぶりのプロペラ機で、お客も数えるほど。しかし、着陸直前の眺めは、見事だったですね。バルト海のくっきりした海岸線が、グダンスク市を経て、東北東へとすーっと延びているのです。その昔ドイツ騎士団は、ここを東進したわけか。いま先にはバルト三国があり、ロシアがあり、さらにフィンランドがある。バルト海の懐は深く、その文化的役割は絶大です。

運河沿いに巨大な観覧車がありましたので、そこから市街を一望。ただし新しい施設を工事中だったため、バルト海の海岸に直接行くことはできませんでした。一種不気味なレストランで(説明すると長くなりますので機会があったら後日)ニシンの入ったサラダを食べ、家族のおみやげに琥珀を買い、その日のうちにワルシャワへと移動しました。

グダンスクは、ドイツ名ダンツィヒ。重要な軍港であり、バッハのカンタータにも登場します。しかしこの日の印象では、町としてやや生気に欠けるように思われました。でも琥珀は、安いですよ!

写真が、ネクサス7のブラウザではうまく投稿できないようです。これは困った。



お寿司屋にて2015年03月21日 00時08分27秒

鳥取からの帰り、某駅で下車し、お寿司屋さんに入りました。一人で食べていると、左側に女性が来て、慣れた感じで食べ始めます。どうやら常連さんのようです。

しばらくすると、2階から、にぎやかな3人組が降りてきました。セットかと思ったらそうではなく、私と同年配の男性は、カウンターで親しくなった方らしい。その男性だけ、1階に残る形になりました。

その男性が、よくしゃべる。私が関係している一流の銀行に勤めているそうで(真偽は不明)、「大きな声ですみません」と言いながら、女性スタッフの名前を一人ずつ尋ねています。名残惜しそうで、1階に残りたいようなのです。

マスターをつかまえて、しゃべり始めました。よく話を聞いてあげるマスターなので、私のお寿司を握る人が、しばらく不在に。女性に興味があるらしく、私の左の女性の容姿を誉めます。すると女性が「オジサンもダンディですよ」と返しました。ほんとですか。

一席もらったオジサンは、千円札を出し、「これで何か出してください」と言います。ビールとお寿司が出てきました。でも、その後も、「お味噌汁をお願いします」とか言うのですね。お店は、サービスせざるを得ない。計算のうちとも思われました。

オジサンは大いにお店を誉め、銀行が近くなので、毎日寄る、と宣言しました。すると温和なマスターが「年に1回でいいです」と返し、左側の女性が爆笑。オジサンがトイレに行った気配なので、私はマスターと女性の対応を誉め、「きっと寂しいんですよねえ」などと言いながら、女性と対話モードに入りました。50歳ぐらいの方です。

お金を払おうとして気がつくと、オジサンが後ろで聞いているではありませんか(汗)。気が咎めた私は、その銀行の系列で仕事をしているんですよ、音楽関係ですが、とリップサービスしました。するとオジサンは嬉しそうに、ジャズ・ピアニストは全部知っている、と言って、かつての勤め先で先生をしている有名な方の、ご家族のアドレスを携帯で示します。私はつい、有名な方を知っていても全然偉いとは思いませんよ、と言ってしまいました。お勘定を済ませ、もう帰りにかかっていたからです。

するとオジサンは、私に、スマホに録音した音楽を聴かせようとされるのです。ほとんど、すがりつかんばかり。こんなとき、皆さんならどうされますか。辛抱強く対応して差し上げるのが人の道だ、というご意見もありそうですね。けっして悪い人ではないし、年齢もいっておられますから。

それほど人がよくない私は、冷たく対応して、お店を出ようしました。するとお店の女性が、申し訳ありませんと、気の毒そうに謝罪するではありませんか。それでわかったのは、お店がこういうお客様をどれほど迷惑に思っているか、ということです。本人だけが、気がついていない。

たしかに、もう一度そのお店に行くかと言われたら、行かないと思うのですね。飲食業もたいへんだなあ、と実感しました。写真は、翌朝訪れた白鷺城。いいところですが、ラウドスピーカーで音楽が流れているのには閉口しました。



とても良かった「鳥の劇場」2015年03月19日 14時53分15秒

土曜日は、豊橋での仕事を終えたあと姫路に入りました。ここを根拠地として、日曜日に鳥取県の「鳥の劇場」を往復しよう、というのです。

廃校を利用して運営されている「鳥の劇場」の活動は、斯界で有名。私の関心は、掲げられている高い理念が、過疎を語られている県の、それもかなり奥まったところでどのように実現されているのだろうか、というところにありました。

鳥取県を訪れるのは、生まれて初めて。早めに着いたので鳥取市内を城址のあたりまで散策し、昼食の後ローカル線に乗って、浜村駅へ。そこから送迎車に乗せていただき、劇場に到達しました。一帯は温泉地のようです。

廃校の利用ですから環境は質素そのものですが、びっくりしたのは、雰囲気の温かさ。訪れた観客が心地よく過ごせるように、バリアフリーの観点も含めて、細やかな配慮が徹底しているのです。

上演される戯曲は、つかこうへい作の『戦争で死ねなかったお父さんのために』というもの。私にはこれまで、縁のなかった領域の芝居です。200席ほどの劇場に入ると、お父さん役の高橋等さんが、満面に闘志をみなぎらせながら、ああでもないこうでもないと、台詞の稽古をしている。ベースは学校の演劇部で、つか戯曲は、劇中劇として設定されるようです。

最初は開演までの時間つなぎかと思いましたが、やがて、その狙いが判明。ドラマの要所で重要な役割を果たす台詞を、あらかじめインプットさせておく意図なんですね。その効果は絶大でした。これは一例ですが、力強い原作にクールな枠組みを与えることによって、戦争と人間の関係に、複雑かつ多重な方向から光が当てられるようになっている。イデオロギーで切り捨てることのできない人間の思いを、さまざまに体験しながら芝居を観ていけるのです。

芸術監督を務める演出家、中島諒人(なかしままこと)さんがおっしゃる「演劇に何ができるのか」という探求はこういうことだったのかと感心し、勉強になりました。高橋さんの熱演はすばらしかったですが、オテロかジークフリートかというテノール歌唱にも仰天。こうした俳優さんたちがチームワークよくここに腰を据えていることも、劇場の理念あればこそだと思います。アフタートークの後、中島さんとお話しし、写真も撮らせていただきました。応援したい活動です。



豊橋駅のコインロッカー(2)2015年03月17日 08時00分10秒

振り返ったオジサンの笑顔が尋常でないので、これは変な人かなと一瞬思ったのですが、口から出た言葉は、「荷物が出せないんだよねえ」。対話式の操作が、取り出す段階でわからなくなってしまったようなのです。

預かり証を探している私は、人助けをする状況にはなかったわけですが、放置することもできない。なぜなら、そのオジサンは私と同じ区画のロッカーに荷物を預けておられるので、それを出せないと、私の荷物も出せないからです。

焦る気持ちをおさえて、代わりに操作。ちょっと手間取りましたが、それは、バーコードをかざす時にちょっとコツがあるためでした。何とか解決し、さて自分のことを、と思ったら、背中にいる別のオジサンが、わからない、とおっしゃるではありませんか。こちらは、預ける段階。便利な新型も、コインと鍵だけで扱えた旧型に慣れている人をまごつかせるのですね。

毒を食らわば皿までの心境となり、手伝って差し上げました。もちろん、時間は迫っています。私の場合、預かり証を入れる可能性があるのは、胸のポケット、サイドのポケット、財布のいずれかです。鞄に入れたはずはないのですが、みつからないので、地べたに鞄の中味を出し、底まで調べてみました。やっぱり、ない。でももう一度始めからやり直して、ついに見つかりましたね。散歩で汗をかいたためでしょうか、スマホの裏にぴったりくっついていて、気がつかなかったのです。

劇場は駅から近いので、走り込み、ことなきを得ました。このオチではもの足りないっ、とおっしゃる方のために、意外にいいところだった豊橋公園・吉田城のスナップを載せておきます。気の休まるところです。