本当ですか?2011年02月23日 22時24分17秒

時代と共に趣味は変化する。若い人たちの好みは、私の世代とはまったく違う。それは了解しているつもりでいましたが、不覚にも認識していないことがありました。でも、本当でしょうか。

いまの若い人たちは、暗いものを好まず、明るいものを好む。楽しいものを喜び、悲しいものを忌避する。その結果として、短調の音楽が好まれず、メジャー王国がマイナー王国を滅ぼすというアニメ(?)まであるというのです。私は、日本人の短調好きは今でも変わらない、と思っていましたが。

短調と長調が歴然と異なるのは、17~8世紀(バロックから古典派)の音楽です。皆様は、たとえば知らないバロック音楽がかかっているとき、一般的に言って、どちらに魅力を感じられるでしょうか。私の個人的な経験では、平均レベルのレパートリーの場合、短調の曲は、2割ぐらいアドバンテージをもっていると思う。バロックの組曲とか、コンチェルトとかいう場合、短調の曲の方が魅力的に思えます。

先日、「バロックの森」のウィーン宮廷音楽特集で、ハプスブルク家の皇帝に捧げられたヴィヴァルディの《ラ・チェトラ》 op.9のコンチェルトを1曲含めました。どれにしようかと迷いましたが、 op.9の諸曲はヴィヴァルディの代表作とは思われず、そのアドバンテージを考慮して、第12番ロ短調を選びました。

「バロックの森」では知られていない作品をご紹介することが多いですから、短調の曲をやや優先しながら、長調の曲でバランスを取る、という形で選んでいます。ただし、大作曲家の傑作レベルになると長調の名曲が増え、いい勝負になるというのが、私の印象です。

小林秀雄の『モオツァルト』のように、モーツァルトの短調曲を偏愛するのが日本人だとばかり、私は思っていました。そういえば、最近あまり短調曲が目立たないなあ、とうすうす感じていましたが、まさか、短調嫌いの人が増えているとは気が付きませんでした。選曲を考えなければ・・・。

今年の学会2010年11月09日 08時47分46秒

日本音楽学会の今年の全国大会は、名古屋の愛知芸術文化センターで開かれました。大学の先生が受験生集めや報告書書きで飛び回っておられる状況であるからこそ学会の役割は大切で、成果を遺していかなくてはいけないと思って臨みましたが、研究発表とディスカッションはきわめて充実しており、とてもいい学会になったと思います。いろいろな大学にドクターコースが生まれ、若い人たちがどんどん手を上げるようになったことが、活性化の一因と思われます。

4つある分科会から1つを選びますので、聴ける発表は、ごく一部。それでも、こういう研究をここまでやっている人がいるのか、という思いに駆られることが、何度もありました。ごく一部しか聴いていないのに特定の発表を紹介するのは立場上問題があるかもしれませんが、他にもいい発表はたくさんあったに違いないという前提で、3つ紹介します。

まず、中部支部鳥山頼子さんの、「18世紀ロシアの農奴劇場におけるオペラ・コミック上演の実態」というもの。18世紀ロシアの音楽文化の主体が輸入されたイタリア・オペラであり、そこにグレトリらのフランス・オペラが加わったことは一応知っていましたが、その公演主体が農奴を育成した貴族所有の劇場であったことは全然知りませんでした。その実態が若い研究者によって克明に調査され、明快に説明されたことに驚嘆。心から拍手を送ります。

関西支部高野茂さんが関東支部の高坂葉月さんとの協力で発表された「マーラーの交響曲の新しい解釈の可能性--第6、第7交響曲を中心に」も、ワーグナーとの関連を重視した詳細な楽譜分析と美学的視点の結びついた、格調高く啓発的な研究発表でした。もうひとつ、関東支部江端伸昭さんの「ピカンダー年巻--J.S.バッハの4声コラール手稿資料からの検証」は、バッハの資料の精通者である江端さんがバッハの死後収集出版された4声コラールと失われたカンタータの関係を克明に追究された、世界的にもトップレベルのもので、多くを学ばせていただきました。

こうしたそうそうたる方々の組織を束ねる会長の役を、選挙の結果もう一期つとめさせていただくことになりました。よろしくお願いします。

イタリア語2010年11月03日 23時45分04秒

音楽の世界でとりわけ重要な言語が、イタリア語です。

私は大学時代に2年間、イタリア語をとりました。いい先生で成績も悪くなかったのですが、専門のしからしむるところとして、あまりちゃんとやる機会がありませんでした。したがって、《ポッペアの戴冠》の台本訳も、既存の訳、諸外国語への訳を参照しながら、全部辞書を引き、全部変化形を確認するような形で進めています。かなりわかるようになってきた段階で、感想が2つあります。

ひとつは、ヨーロッパ言語のもっている、共通性です。語学の基本は同じだなあ、と実感します。たとえば、接続法や条件法への感覚は、1つの言葉できちんとやっておけば、相当まで、諸言語に生かすことができる。とりわけ接続法の勉強は欠かせないと思いますが、近年の語学教育では、省かれることも多いとか。会話でもひんぱんに使われるのに、なぜでしょうか。

もうひとつは、ブゼネッロの台本の、レベルの高さです。語彙豊富な絢爛たる文体は、いわゆるイタリア・オペラの台本と比べても、傑出していると思います。ついわれわれは発展史観でものを考えてしまいますが、ルネサンスから初期バロックにかけてのイタリア文学のレベルは、際だっている。こうした前提あってこそのモンテヴェルディのオペラなのだなあ、と思うことしきりです。

研究に評価を2010年07月11日 09時46分28秒

10日(土)は酷暑の中、皆川達夫先生の研究発表が、明治学院大学で行われました。キャンパスに入ると、観光バスが止まっています。まさか学会に団体が、と思いつつホールにたどりつくと、立錐の余地もない盛況。ほとんど全国大会並みです。さすがに長年スター的存在を保ってこられた皆川先生だなあと思い、すっかり感心してしまいました。

先生が披露されたのは、箏曲『六段』が16世紀スペインの「ディフェレンシアス」という変奏曲形式に基づくもので、具体的には、グレゴリオ聖歌の〈クレド〉を下敷きにしたものである、という仮説でした。このロマンさえ感じさせる壮大な仮説の裏付けと当否に関しては、状況証拠の評価という専門的な事柄がありますので、会員の今後の討論に委ねたいと思います。イベントはさらに、久保田敏子先生(日本音楽研究)の研究発表、野坂操壽さん、神戸愉樹美さんらの演奏と続きました。音楽の「研究」が、華やかな脚光を浴びた一日。皆様、ありがとうございました。

かねてから感じ、昨日もまた思ったのは、音楽の「研究」というものが、もっと世間に評価されるようになって欲しい、ということです。理科系の研究を不要だと思う人はいないでしょうが、文化系の諸学、ことに芸術系の諸学、中でも音楽の研究は、重んじられていない現状があります。先日政府系のある会議に出席したとき、議長が「このプロジェクトの予算は一部の研究者のためでなく、一般の方々のために使うのが原則だ」という趣旨の発言をされ、驚いたことがありました。研究に予算を投じることが長い目で見るとその文化、芸術にとってプラスとなる、という視点が、世の中にはないようです。研究者の側に責任がある、とも言えますが、研究の必要性と意義を訴えることも大切だ、と痛感しました。

国際イベント終了2010年05月16日 23時36分03秒

慶応大学での「国際若手フォーラム」第3日に出席。厳しい日程で参加者はだいぶ疲れているようでしたが、ディスカッションを重ねて濃密な関係が築かれていることは、手に取るようにわかりました。国籍も文化的背景も超えて忌憚なく音楽を論じ合う共同体が、そこに出現していました。

私の役割は、クロージング・セッションで締めの挨拶をすること。今日も外注の原稿を用意して臨みました。最後、前列に実行委員が居並ぶ配置となり、その中央に招かれたので不吉な予感がしましたが、挨拶は多少のアドリブを交えて、無事終了。こうなると度胸が出て、皆さんの話をうなずきながら聞くという、大きめの態度になりました。

天罰覿面。最後の最後で、締めてくださいという思いがけない振りが、司会者から来たのです。意表を突かれてとっさに言葉が出ず、「バイバイ!」とのみ言って、手を振りました。満場爆笑(汗)。最後にマイナスが付きましたが、もともとできないのですから、仕方ありません。

というわけで、いい学会でした。しかし、英語圏の人ほど、また英語ができる人ほど有利で活躍できる、という状況が、顕著に成立しています。今後国際学会がこのような形で開かれるとすると、英米系の大学に留学した人は、国際性において、圧倒的に有利になります。となりますと、大学でも英語を専攻した方がいいということになり、大学側としても、いろいろな語学を中途半端にやるよりは、英語教育にしっかり集中した方が、就職の点でも有利だ、と考えることになる。事実そういう主張は周囲でもよく提起されて、私はいつも反対しているのです。

論者の中には、日本の大学は英語で授業をするべきだ、とおっしゃる方もおられますよね。平素英語で会話するようになり、語学のハンデがまったくなくなった状況を想像してみると、さぞありがたいだろうなあ、と思います。でも、こういうグローバリゼーションは何か変だ、という気持ちも、私はぬぐえずにいるわけです。

クリエイティヴとは2010年05月11日 23時49分41秒

pomさんにいい質問をいただきましたので、「クリエイティヴ」な研究とはどういうものを言うのかについて、自説を述べさせていただきます。

クリエイティヴな研究とは、対象について新しい見方、考え方を提示するとともに、それ自身、発展する可能性を秘めているものです。対象がそれ自体新しいか古いか、過去に研究されているかいないかとは、まったく関係がありません。

「論じ尽くされた」対象を扱ったのでは、クリエイティヴな研究にならない、と思われるかもしれません。しかしすぐれた古典に、「論じ尽くされる」ということはあり得ないのです。プラトンでも聖書でもバッハでもゲーテでもいいですが、偉大な古典は無尽蔵な教えを含んでおり、つねになにか、新しいことを教えてくれるものです。だからこそ歴史を超えて残ってきたし、研究もまた、更新され続けているわけです。逆に言えば、研究が更新されることが、古典をしかるべく受け継いでいく条件になる。その意味では、若い世代のバッハ研究家があまりいないことを、残念に思っています。バッハにおいて研究すべきことは山のようにあり、その多くは、まだ研究されずに、研究者を待っているのです。

「オーセンティシティを求める研究」(pomさん)は、オーセンティシティという切り口から新しい視点を求めていくものなので、きわめてクリエイティヴであり得ます。そういう研究が、古楽の隆盛を支えているわけです。「伝統を守ろうとする態度による研究」はどうでしょう。伝統を守ろうとすることが言論の前提であり目的になっているということですと、学問でなくイデオロギーと呼ぶべきだと思います。自分自身の立場に対する十分な客観性と批判が存在すれば、伝統護持の主張も、クリエイティヴな提言たり得るのです。

「考えない」傾向2010年05月10日 23時52分11秒

「相づち」への書き込み、ありがとうございます。皆さんが指摘しておられる番組の「考えさせない」傾向は、世間の「考えない傾向」とひとつのもので、学問の世界にも浸透しています。じつを申しますと、「考えることを怠る」研究に接することが増えたような気がしてなりません。私は、研究においてもっとも大切なことは「頭を使う」ことだと思っているのですが。

例を、2つあげたいと思います。第1に、アンケートの報告のようになっている論文。客観的な材料を得るためにアンケートが必要な場合はもちろんあり、心理学的な問題提起をしている場合には、その重要性は高まることでしょう。しかし、アンケートはあくまで材料であって、論文は、そこから始まるものです。結果をどう読み取り、そこからどんな洞察を得るか。でもじっさいには、このテーマにしよう、じゃアンケートで意見を聞こう、結果をまとめよう、という形でできあがる、安易な論文が多いのです。「考える」労力を払っているのは、アンケートを書いている側だ、と思うことさえあります。

第2の例は、教えられた方法によってひたすら対象を分析したり、調査したりしているものです。じつはこうした論文は相当に多く、まじめな学生がかなりの労作を仕上げる場合もある。しかし私は、自分の採っている方法を反省したり、方法を改良したり、新しい可能性に気づいたりという発展がなく、ただ1つのパターンを黙々とやっているのでは、手を使っているだけで、頭を使っていることにはならないと思うのです。厳しいかもしれませんが、そのことを強調したく思います。

研究は、多少とも、クリエイティヴなものであるべきです。そのためには、頭を使うことがなにより必要だというのが、私の考えです。

思考力を育てたい2010年02月18日 23時37分33秒

週刊誌で読む藤原正彦さんのエッセイがすばらしいので、単行本を買いました。『数学者の休憩時間』という、新潮文庫です。共感しつつ読み進めていますが、しばしば説かれているのが、論理的思考力の大切さです。

たしかに、これは大切。論文を書くような学生にはとりわけ大切で、今の受験教育、客観テストの教育では、育てることがむずかしいものです。では、どうやって育てたらいいでしょうか。

思考力は、自分で考えることを積み重ねなければ、育ちません。つまり、教師は学生に、自分で考えさせなくてはならない。考えさせ、待ち、議論し、修正するのが理想。これは、教えすぎてはいけない、ということを意味します。

ところが、同業者と話してみると、学生が考えなくて済むように手伝ってあげるのが親切、と考える方が、案外よくおられるのですね。たとえば、いまは十分な思考力をもたない子が大学に入ってくるから、手引きを十分に与えて、それを見ながらできるように、と考える方がおられて、驚いてしまいます。もちろん学生からしてみれば、親切な、いい先生です。しかし私は、この点に関しては、自分の考えを貫いていきたいと思います。

などといいながら、つい手伝ってしまうこともある、現実。先日ある学生が、訳詞を見て欲しい、と言ってきました。力のある学生だったので、ここを再考しろ、というメモを何カ所かにつけて送り返したところ、今日、見事に直った改訂稿が送られてきて、感心。嬉しい出来事でした。

「めくる」ことの効用2009年12月29日 22時37分50秒

本や楽譜を買うのは、私にとって、仕事の一部です。洋書、洋楽譜はいつも、本郷に店舗をもつ専門店、アカデミア・ミュージックから買っています。アカデミアさんには学会がお世話になっており、私の弟子も複数雇っていただいていますので、他の購入ルートには目もくれず、アカデミアさんを応援しています。

新刊は毎週届きますので、年間の総額が、30万から50万くらいになります。そのほとんどは、いつか必要になるに違いない、と思って確保した本。でも考えてみると、そう思って買い続けるほどには、私の人生に残りがありません。このままでは、死後残されるゴミを増やし続けるだけです。やはり買う以上は活用しないと意味がない、と、はっきり思うようになってきました。

とはいえ、買ったものを全部読むのはとうてい無理です。そこで思い出したのが、昔、恩師の1人である海老澤敏先生が洩らされた言葉。先生は、本を読む以上に、新しい本をめくるのが楽しい、とおっしゃっておられました。これこれ。ここには、読まないまでもめくっておけば、ただ本棚に入れてしまうよりずっといいし、知識の広がりにも役立つ場合がある、という知恵が語られています。

そこでめくってみたのが、ジョン・ライス著『ステージのモーツァルトMozart on the stage』(Cambridge、2009年)という本。モーツァルトのオペラを当時の劇場の実情とからめて論じたもので、委嘱、ギャラ、台本作者、歌手、リハーサル、改訂、宣伝、劇場、舞台装置、聴衆、上演、受容といったキーワードが見て取れます。

めくっただけですから内容紹介はできませんが、目を惹かれた部分があります。それは、モーツァルトのオペラはほとんどカーニバル・シーズンの所産であり、そのことが一般に忘れられている、というくだりです。著者によると、《ドン・ジョヴァンニ》第1幕の舞踏会場面で発せられる「自由万歳 Viva la libertà! 」という言葉は、18世紀のヨーロッパが宗教や道徳の拘束からの自由を満喫したこのシーズンの、モットーであったとか。仮面を付けた人々が階級を超えて社交を楽しむさまに、モーツァルトはイタリア旅行中に遭遇しました。こうした場面は、舞台にも好んで用いられたそうです。

なるほどそう考えると、この場面におけるこの言葉が自然に受け取れますね。もちろん、モーツァルトがこのメッセージに政治性を込めたという広く見られる解釈が、必ずしも否定されるわけではありませんが・・・。

グレゴリオ聖歌集2009年12月23日 11時17分37秒

方向音痴であることにかけてはわれながらいやになってしまうほど自信のある私ですが、土地勘をどうしてもつかめないのが四谷です。地上に上がると、2つの大きな通りがクロスしている。この4つの方向が、ひんぱんに下車しているにもかかわらず、どうしてもわからないのです。これは、私だけでしょうか。

昨日(22日)、その四谷で少し時間が空きましたので、カトリックの書店を覗くことを思い立ちました。駅の近くのサンパウロが一番大きいのですが、そこはうっかり素通り。少し先にドン・ボスコ社のショップがあります。クリスマス用品で、にぎやか。ここは実用的なものが中心で、ミサ典書や聖務日課書なども買うことができます。

とくに新しいものはなかったのでここは見るだけにし、もう少し先の2階にあるエンデルレ書店に行きました。ごく狭い売り場の奥に旧式のレジがあり、外国人の方が番をしています。ここの特色は外国語の本が充実していることで、ラテン語の聖書も、いくつかの版で並べられています。以前から欲しいなあと思っていたLiber usualisを棚に発見。さっそく購入しました。1952年版の復刻で、伝統的な礼拝で使われるグレゴリオ聖歌のテキストと楽譜が、ぎっしり収められています。高いですけどね(2万円)。

ページをめくると最初に、グローリア・パトリとマニフィカトの旋律が8つの旋法で並べられており、マニフィカトに関心があるだけに、うれしくなりました。タイトルの次には、記譜法や唱法に関する英語の説明が続いています。読書会でもやってみようかしらん。