日曜美術館2009年12月06日 23時23分44秒

NHKの日曜美術館「劇的?やりすぎ?バロックって何だ」、ご覧になった方はおられるでしょうか。私は今日ようやく、送っていただいたDVDで見ました。いや、よくできています。ナレーションもしっかりしていましたし、各芸術においてルネサンス対バロックの作品比較が行われていたのは、専門家の解説がきちんとつくだけに、とても役に立ちます。

ディレクターの首藤圭子さんから、じつは音楽の対比もやってみたいのだが、という相談を受け、加藤昌則さんに作ってもらうと面白いのではないか、と推薦しました。そしたら作られていたのは、ボルゲーゼ美術館のラファエロの絵画を洗ったら一角獣の画像が出現した、というくだりを前半ルネサンス(デュファイ)風、後半バロック風に作曲したモテット。岡本知高さんが独唱しましたが、じつに面白くできていました。さすがの才能です。

ゲストの中では、青山学院大学の福岡伸一さんのコメントが無駄のない言葉の中に芸術と世界観の本質を尽くして、じつに卓抜なものでした。フェルメールの美術に封じ込められた時間の感覚を「微分」の発明とかかわらせる考え方には説得力があり、いい勉強をさせていただきました。

正攻法の勉強2009年11月09日 23時05分22秒

徐行運転を宣言して始まった今週。弟子2人の発表するゼミは休めないので出かけ、結局、3つの会議と1件の打ち合わせを済ませて帰ってきました。博士課程の声楽専攻2人が発表の担当でしたが、2人ともかなりのレベルを示してくれたので、嬉しい気持ちになっています。

先の談話「博士論文」の内容に照らして特筆に値するのは、高橋織子さんのシュトラウス《4つの最後の歌》に関する発表でした。高橋さんはソプラノ歌手としてすでにかなりのキャリアをお持ちの方で、コンサートをご一緒したことも、複数回あります。その彼女がこの4月から博士課程で勉強し直す道を選び、私が論文の担当になっていたのでした。

しかし研究の基礎がとくにあったわけではありませんから、博士論文に向けてどう勉強していくか、なかなか方向の定まらない日が続きました。焦ってもいたようです。しかし、シュトラウスのオーケストラ歌曲を従来のリート美学とは異なった形で分析することを主張し、それにはニーチェの哲学がよき基礎を提供する、とする優秀な文献に出会い、それを読み進めることで発表を構成する、という道が開けてきました。

とはいえ、視野の外にあった哲学を、ドイツ語で勉強しようというのだからたいへんです。しかし彼女は驚くべき粘り強さを発揮し、聞くところでは、寝食を忘れて打ち込んだようです。その結果、思いの外短い期間に正攻法の研究の基礎が作られ、なかなか堂々たる発表ができあがりました。その過程で勉強のやり方がわかり、その面白さが感じられてくるというのは、まさに「博士論文」で提唱したやり方そのものです。これから挑戦する方の励みになり、モデルともなることだと思いますので、ご紹介させていただきました。

博士論文2009年10月26日 23時34分43秒

学会で、音楽学と学位の関係、とくに博士号との関係を扱ったシンポジウムがありました。そのさい、予告に書かれていて議論が及ばずに終わったのは、音楽大学が演奏家の博士を輩出するようになり、その指導を音楽学の先生がするようになったことに伴う、種々の困難についてでした。

音楽学者が音楽学の学生を教えるのは、普通のことです。しかし演奏の学生を博士論文に向けて教えることには、多大の困難が伴います。演奏の学生は論文を書くのが専門ではなく、基本的にはそれを苦手とする人がほとんどだからです。そういう人たちにどういうことをどれくらい教えるべきか。博士課程のある大学の先生は、皆迷っておられるに違いありません。

私はしかしこの問題に、自分なりの確信をもつようになりました。演奏が専門なのだから、論文はこの程度でいいだろう、というのは絶対ダメです。それでは結局作品の解説のようなものができてしまい、苦労した割にはお互いに不満が残って終わります。何が研究かわかるところまで、ぜひとももってゆかなくてはなりません。3年はたしかに短いけれども、そうする時間は、修士2年間に比べれば与えられているのです。

解説と研究の違いがわかる段階に達すると、論文は発展しはじめ、調べたり考えたりすることが楽しくなってきます。そうなればしめたもので、視野はどんどん広がり、そこで得た洞察が、演奏にもフィードバックされるようになる。その段階があらわれるまで、コツコツと努力できるかどうかが問題なのです。

私はこうした考えを、体験に基づいて述べています。いま博論完成中の湯川亜也子さんに、このような劇的な発展が、3年越しで起こりました(フォーレ研究)。今日ゼミで発表した1年生の阿部雅子さんには、早くも発展のきざしがあらわれています(モンテヴェルディ研究)。このように、演奏の学生の論文指導には、予見できない可能性がある。それは日々の練習を通じて音楽に打ち込むという点で、演奏の人たちがより真剣であることと関係があるように思えます。

こうしたことは本当に嬉しいことなので、定年までの間、演奏の学生の論文指導に打ち込みたいと思っています。

《魔笛》勉強中2009年10月03日 23時36分46秒

今学期は、金曜日の「作品研究」の授業で、《魔笛》を取り上げています。昨年は《フィガロの結婚》。今年は《ドン・ジョヴァンニ》にするか《魔笛》にするかかなり迷い、《魔笛》にしました。私にとっての究極的な作品はやはり《魔笛》であること、私自身がドイツ語の方が指導がしやすいことなどが理由です。

第1幕と第2幕を2つずつに分け、鑑賞の日と研究の日、そして幕ごとに、学生の演奏(および演奏指導)の日を設けることにしました。10種類の映像を所有していますので、鑑賞の日には、それを少しずつ見ます。昨日は第1幕後半を鑑賞する番でしたが、授業中であるとはいえ、作品のすばらしさに打ちのめされてしまいました。

第1幕だったら、皆さんは、どこに感動されますか?私は、フィナーレにおけるタミーノと弁者の対話です(これって、多数派なのか少数派なのか)。対話を導入する3人の童子の合唱も、美しさのかぎり。3人の侍女から笛と鈴の渡される五重唱、その鈴が使われて奴隷が踊り出すところも、いいですね。もちろん他のところもすべて超一流の音楽ですが、私はモーツァルトの晩年様式のあらわれているところに、とくに惹かれます。

作品がいいので、映像も高水準で揃っています。でも、昨日メインで聴いたコリン・デイヴィス指揮、コヴェントガーデン歌劇場のものが、隙のないキャストと正統的な演出で、随一ではないでしょうか。この盤でザラストロを歌っているのが、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒというバス歌手です。

ティーレマン指揮の《パルジファル》を聴いたとき、この新しい歌手のグルネマンツがすばらしいのに驚きました。とくにディクションと、格調の高さ。どんな人かなあと思っていたので映像は興味津々でしたが、低音もよく出ますし、芸術性の高い歌唱でみごとですね。クルト・モルの後継者たるに十分で、これからは、この人の時代だと思います。

Nessun dorma2009年09月17日 22時59分12秒

今日、私のところの大学院生のかなりが、徹夜しているはずです。それは、修士論文に相当する研究報告の提出が、明日だから。私の担当は声楽のオペラ専攻で9人いたのですが(過去の最大数)、今年はとてもよくやる人が揃っていて、半数近くが、例年を凌駕する出来映えになりました。やっぱりやる以上はいいものを出さないとつまらないですし、研究の場合には、努力は嘘をつきません。

うちの一人、テノールの学生が、「こんなに勉強したことは過去にない。でも途中から面白くなった」と言いました。これです!山登りと同じで、ふもとを登っているうちは苦しいだけでも、標高を稼いで展望がよくなってくると、楽しくなってくるものなのです。ぜひ手抜きせずに、そこまでやってほしいと思います。楽をするのは、結局損です。(10月の大学院オペラ《ドン・ジョヴァンニ》で、この人たちが出演します。またご案内します。)

酒井法子さん、保釈されましたね。その姿を見てしまうと、とても責める気になりません。もったいない人生の過ごし方で、教訓とするほかないでしょう。

明日、授業のあと広島に行きます。中国地区の合唱状況はまったく存じませんので、気が重い今夜です。

研究と自分の関心2009年07月07日 23時52分22秒

研究はその人をあらわす、と言われることがあります。まったくその通りだと思います。自分の関心がある部分には手厚い考察が可能ですが、そうでない部分に関しては、掘り下げることもままなりません。誰もがそうである結果、さまざまに異なる研究が生まれてきます。同様な理由により、オールマイティな研究というものもないわけです。

たとえば、制度。制度が重要だと考える人は、日頃制度の改善や改革、規則の整備といったことに力を注ぎます。そうした志向の人は、研究においても制度に注目し、たとえば歴史上の制度について、こと細かな調査を行うわけです。もちろん、社会の種々のしくみを解明することが歴史研究の重要事であることは間違いありません。

私は、こうしたところがだめなのです。制度は制度、制度を変えたって人間のやることは変わらない、という気持ちがあるものですから、制度の改革には日頃熱が入らないし、歴史研究にさいしても、制度やシステムの問題を掘り下げようという気持ちに、どうしてもなりません。バッハの場合であれば、領邦の統治制度や財政システム、教会法や礼拝の規定、雇用の制度など、いろいろ考えられますよね。私に制度への情熱があれば、そうしたことを調べ、そこから学び、という風になるのだと思います。

仕方がありませんので、そういうことは関心のある方におまかせし、私は自分の関心に従って、音楽と向かい合っていくつもりです。若い方も、自分の関心を伸ばす方向で研究に取り組むことによって、結局は自分を生かす道を見つけられるのではないかと思いますが、いかがでしょう。

講談調2009年06月30日 23時28分35秒

明治から大正にかけての頃、講談の人気はすごかったそうですね。私が子供の頃は、斜陽だと言われていても、それなりにラジオで聞く機会がありました。最近は本当に、耳にする機会が減っています。浪曲も、そうですけど。

残念だ、と言いたいところですが、私がひっかかるのは、講談が過去の出来事をひたすら効果的に、時にはおもしろおかしく話して聞かせる芸である、ということです。伝記も書く一研究者としては、必然的に誇張を含む「講談調」というものに、職業的な(?)抵抗感があります。もちろんこれは、講談を貶めて言うわけではありません。

そもそも学者の世界は、研究は極力事実に即しているべきで、話としては面白いが真偽不明、というような叙述は御法度、という世界です。当然、正確だが面白くはない、という記述が多いのが、この世界です。

昔、中村光夫さんという文芸評論家が、「エピソードがすべてだ」と書いておられるのを読んだ記憶があります。たとえば伝記の場合、さまざまな年代やデータより、ひとつのエピソードが鮮やかに対象を語る、という意味でしょう。しかしそうなると、そのエピソードは史実であるのか、という問題が必ず提起されます。いかにもありそうな話が後日形成される、ということも多いからです。

諸々のエピソードをどのように評価したらよいのか、しばしば考えてしまいます。誇張したエピソードなしでも面白い伝記は書けると思いますが、わかりやすいエピソードが人を広く惹きつけることは間違いありません。逆に、このエピソードは事実ではない、という研究が脚光を浴びたりするのも、現代です。

カウントダウン1--清くやさしい乙女から2009年06月13日 23時17分06秒

武蔵野音大での学会。今野哲也君、落ち着いた立派な発表でした。高度に専門的な内容のプレゼンテーションがよく整理されていて、国立音大の評価にも貢献してくれたと思います。

ピアノで試奏される《トリスタン》の和音を聴きながら、ワーグナーの和声はなんと美しいのだろうと瞑想。昔柴田南雄先生のところで和声を習っていたとき、よくワーグナーの分析の課題が出たのですが、この1音がなければ説明できるのに、というようなところが多かったのを思い出します。響きはまったく明瞭で表情に富んでいるのに、理屈で説明しようとするとうまくいかず、学者がいろいろな説を出して100年以上も論争している。芸術と学問の関係の、ひとつの典型でしょう。

学会を途中で抜け出して、橋本へ。すっかり準備のできた、しかし音楽家は誰もいない杜のホールで、字幕の確認と手直しをしました。第1部の最後のコラール合唱曲の「清くやさしい乙女から 私たちのために誕生された」のところへ来ると、私はいつも感動を覚えます。明日、この箇所をどんな気持ちで聴くことになるのでしょうか。

今回は2つのグループの峻別が重要なコンセプトなので、第1グループ、第2グループ、両グループ合同の3つを、3種のフォントで区別するように工夫してみました。字幕の操作をしてくださるのは、国音の卒業生で、私の「歌曲作品研究」を受講していた方だそうです。さあ明日。出演者の皆さん、がんばりましょう。

カウントダウン16--ある精神との出会い2009年05月29日 22時46分07秒

金曜日、午後1の授業は、音楽学の1年生が相手。いまやっているのは、自分が一番感動した本を重要箇所抜き書きの形で報告しろ、という課題です。前回「涙もろい」の項でお話ししたエトヴィン・フィッシャーは、この授業で登場したのでした(彼の著作を私が模範紹介したおり)。

今日はTAの戸澤史子さんの番でした。彼女が紹介したのが、「片山敏彦著作集・第六巻『青空の眼 — 芸術論集』」(みすず書房)というもの。皆さん、片山敏彦(1898-1961)ってご存じですか?独文・仏文学者、詩人で、ロマン=ロランやヘッセの翻訳をした人。全10巻の『著作集』があるほどですから、かつては大きな存在であったはずです。

こう書いている私が、じつはまったく知らなかったのです。芸術、絵画、音楽、美をめぐる思索のエッセンスが戸澤さんによって紹介されていったのですが、えっ誰?という当惑が驚きと感嘆に変わるのに、時間はかかりませんでした。畏敬をもって芸術と向かい合い、選び抜かれた言葉で本質に迫るこのような書き手が、さほど遠くない環境に存在したとは・・・。とにかく1つだけ、美に関する文章をご紹介しましょう。

「美は仕事の中の無限の重さであり、休息の中の無限の軽さである 。それはバッハの厳密さをみちびくとともに、ドフトイエフスキーに伴って地下の闇へ降りる。美は後悔の思いをなだめ、祝祭を秩序づける。それは可能性の空間に反響する鐘の音であり、事実の中から湧く岩清水である」(「美の感想」と題する章より)。

アルフォンソさん、ご存じでしたか。モーツァルト論もすごいですよ。1930年にヨーロッパでモーツァルト体験をしたが、「その後戦後の空襲時に、モーツァルトの音楽が生と死とのあいだに架かる虹の橋だと感じられたときの一種特別な透明な感銘、文学の中ではノヴァ—リスが感じさせるのに似た感銘を今も忘れることができない。」とあります。

引用箇所だけでは、文学的、美文調、という印象を受けるかも知れませんが、すべての考察が、豊富な原典講読を通じて裏付けをもっていることが見て取れます。こういう本を古本屋から買ってきて愛読している私の弟子もたいしたものだと、思っているところです。

隅田川2009年05月21日 22時46分51秒

5月16日(土)にいずみホールで、能《隅田川》とブリテンのオペラ《カーリュウ・リヴァー》の公演がありました。ご尽力いただいた方々に感謝しつつ、作品への感想を述べたいと思います。

イギリスの作曲家、ブリテンが能楽に並々ならぬ関心をもっていたこと、日本滞在の折に《隅田川》を見て感動し、その詳細な研究に基づいて、舞台をキリスト教的中世に置き換えたオペラを書いたこと、このため能とオペラを抱き合わせた公演が広く行われていることは、ご承知のとおりです。でも両者を見て感じるのは、能という伝統芸能の圧倒的なすばらしさ。ブリテンの作品もこれにはとうてい敵し得ない、と断言してもいいように思われます。

亡き子を思う母の思いが高まり昂じて、ついに霊界との交流が実現する。そのプロセスも迫力満点ですが、朝になるとすべては消え去り、草茫々の墓があるばかりだった、という無常観への収斂が、本当に味わい深いと思います。ブリテンでは、祈りを通じて神の奇跡が実現し、母が狂気から癒される、という結末になっているのです。ブリテンには《放蕩息子》という宗教的オペラもありますが、これも私には、深い内容のものとは思われません。

《隅田川》のクライマックスで、少年の霊が降臨する場面。私の心には、少年を出さない方がいいのではないか、という思いがよぎりました。いま笠井賢一さんの書かれた解説を読み直していたら、じつは世阿弥がそういう意見で、作者の元雅と論争したのだそうですね。昔から好きな能が、いっそう身近に感じられるようになりました。