むずかしい二人称2008年01月28日 23時34分31秒

高島さんの本に、「日本語に二人称なし」という項がありました。日本語には二人称がなく、あらわすには、ほかの言葉を使う。知らない人や目上の人をあらわす二人称がないことでは、不自由する場合もある、と書いてありました。

なるほど。メールでも、目上の人に「貴兄」じゃおかしいし、さほど親しくない女性に「貴女」じゃなれなれしいし・・。それ以上に考え込んだのは、カンタータや受難曲、あるいはドイツ歌曲の歌詞を訳すとき、この問題でいつも困っていた、と思い当たったからです。

話をバッハのドイツ語歌詞に限りましょう。歌詞のように、少ない言葉で一語一語の意味をもたせている場合、意訳には限度があります。日本語の流れに持ち込んでしまえばわかりやすいことは確かですが、もとの単語が音楽によって生かされている場合などには、ピントがぼけてしまう。かといって単語対応を丹念に生かすと、文意が取りにくくなりますし、読む人が読むと、「こんなものが日本語か」と感じることになりかねません。

最重要単語の1つ、Gott。呼びかけの場合、敬語の発達した日本語で、「神」ということはまずないでしょう。「神様」です。Jesus。「イエスは彼に言った」とはいわず、「イエス様は彼におっしゃった」ですよね(「彼」も変ですが、ここはがまんしてください)。でもドイツ語は Jesus sprach zu ihm で、どちらも同じです。

"mein Gott"、"mein Jesu(s)"というのも、よく出てくる。この場合はどうでしょう。単語対応させれば「私の神」「私のイエス」ですが、日本語ではまず、そう言わない。「私の」を付けない方が自然です。「私の」であることが前後から明瞭な場合には、付けるべきでないと、会話や説明的な文章の場合には、言うことができる。妻を紹介するとき、向こうなら「マイ・ワイフ」(マイネ・フラウ)ですが、日本で「私の」と付けたら、変ですよね。

ところが、この"mein"に気持ちがこもっていることが、歌詞ではよくあるのです。”Mein Jesu, gute Nacht!"は、「イエスよ、おやすみなさい」と自然に訳すか(一般化されるので「気持ち」は出なくなる)、「私のイエスよ、おやすみなさい」として気持ちを出すか、むずかしいところです(「イエス様、おやすみなさいませ」というのもありでしょうか)。パーセンテージのかなりを占める所有形容詞を、訳すか訳さないか。いつも迷い、そのときの判断でどちらもありにしている、というのが正直なところです。