ご挨拶2008年01月01日 14時30分45秒


新年を迎え、ブログを開設することにしました。連日更新を目標にしますのでよろしくお願いします。とりあえず、今年の年賀状をご紹介します。クリックすると拡大されます。

談話室前史2008年01月02日 13時53分21秒

1996年から2004年まで、私は「I教授の家」というホームページを開いていました。学生と一緒に実地勉強のようなつもりで開いたサイトですが、どんどん発展し、バッハ新情報だの、コンサート通信だのを含む巨大な邸宅に発展しました。運営を通じて多くの方とお知り合いになり、オフ会や、ときにはコンサートを開きました。こうした体験を通じて、私の人生は、大きく変わったと感じています。

ところが、不用意な記述から予期せぬ事態が生まれ、ホームページは閉鎖のやむなきに到りました(皆様もぜひ、お気をつけください)。その後、「日記風の談話」だけのサイトを復活させましたが、どうも気持ちのひっかかりを感じ、長続きしませんでした。

閉鎖されて寂しいと声をかけてくださる方が、たくさんおられました。その中によくあったのは、発信がないと何をやっているかわからない、という声です。これは困りました。私は人に集まっていただくイベントに種々関係していますし、ご案内したい企画、結果をご報告したいコンサート、お耳に入れたい情報がたくさんあるからです。そこで、近年発達した「ブログ」の簡便さを利用し、気楽に少しずつ発信していこうかと思った次第です。よろしくお願いします。

ロ短調学会(1)2008年01月03日 14時43分24秒

「I教授の家」では毎年大晦日に、1年間の十大ニュースを発表していました(このように年間の「まとめ」にこだわる理由は別途書きたいと思います)。私にとって2007年の最大の出来事は、ベルファストで開かれた《ロ短調ミサ曲》の国際シンポジウム("Understanding Bach's B-Minor Mass")に参加したことでした。それについて、連載の形でお話ししようと思います。(「ロ短調学会」と略称します。)

世界中のバッハ学者が一堂に会し、《ロ短調ミサ曲》について3日間論じ合う--こういう壮大な企画を立ち上げられたのは、ベルファスト大学教授の富田庸さんです。なぜ《マタイ受難曲》ではなくて《ロ短調ミサ曲》であるかといいますと、《ロ短調ミサ曲》には解明されていない謎が多く、この曲を基本的にどうとらえるかということについてさえ、学者間に大きな意見の相違があるためです。また、近年のバッハ研究の進展が、この作品を考えなおす上でのさまざまなきっかけを与えつつあることも確かです。私自身は、目下ザクセン選帝侯慶祝のための世俗カンタータを研究しているため、目的や背景の重なり合う《ロ短調ミサ曲》を採り上げるシンポジウムは、たいへん魅力的に映りました。

富田さんから参加の打診をいただいたのは、2006年の11月でした。すばらしい企画だとは思ったものの、おいそれとは引き受けられません。なぜなら私は、大学をドイツ語で受験したことからもわかるように、英語は苦手で(とくに会話)、これまで、まともに使ったことがなかったからです。この歳でそんなリスクを冒さなくてもいいのではないか、とも思いました。それでも結局参加を決心したのは、内容的なことに加えて、次のような理由があったからです。ひとつは、国際的に活躍されている好漢、富田さんを、日本の研究者としてできるだけ応援したい、ということ。もうひとつは、この時点で日本音楽学会の第9代会長に就任することが決まっており(2007年4月から着任)、国際的な仕事は率先してやらなければならない、と思ったことです。

シンポジウムでは、世界諸地域での受容がセッションの1つになるということでした。そこで研究発表は「《ロ短調ミサ曲》と日本人--〈普遍性〉という難題」というテーマで行うことにしました。《ロ短調ミサ曲》のすぐれた特徴として語られる「普遍性」は日本人にとって案外受け入れにくいものなのではないかと思っていましたので、そのあたりを日本人がどう考えてきたかを調べてみよう、と思ったのです。

この段階で、それまであまり気に留めていなかったひとつの事実が、大きな意味をもって浮かび上がってきました。それは、私の勤務する国立音楽大学が昭和6(1931)年に、大学の教職員・学生によって《ロ短調ミサ曲》を日本初演した、という事実です。この初演は、クラウス・プリングスハイムが芸大関係者を指揮して《マタイ受難曲》を初演する6年も前に行われました(《ヨハネ受難曲》は、同じプリングスハイムの指揮で昭和18(1943)年に初演)。私は思わぬ形で、自分の大学の歴史と出会ったわけです。(続く)

ロ短調学会(2)2008年01月04日 09時04分13秒

運が良かったのは、国立音楽大学が2006年に創立80周年を迎え、その記念事業として、『演奏の80年史』という資料が編纂されていたことです。付属図書館の染谷周子・杉岡わか子のお二人によって、昭和6年の初演に関する資料(チラシ、プログラム、写真、指揮者の回想など)が蒐集されていた。これをありがたく使わせていただき、調査による肉付けを行って、《ロ短調ミサ曲》受容史に関する論文を作成しました。

しかし、これを英語にしなくてはならない。口頭発表のためにも、英語の準備は肝要です。急に上手になれるはずはないが、何か、いい方法はないだろうか。私が選んだのは、英文の作成をネイティブの方にお願いし、それを暗記して発表に臨む、というやり方でした。

外国語の勉強は丸暗記に限る、というのはかねてからの持論ですが、昔読んだ外国語勉強法の本に、海外の学会に行くたびにその言葉の論文を1つ暗記する、という方法が紹介されていることを思い出しました。そこで、日本語にして40枚ほどの論文を、歩きながら、お風呂に入りながらetc暗記し、ほとんどすらすら言えるまでにしました。この方法は絶対お薦めです。自分の論文にかかわる語彙が頭に入りますし、種々のイディオムも、自分の発想に即して覚えることができるからです。日常会話の暗記も少しやりましたが、力のほとんどは、論文の暗記の方に注ぎました。

もちろんその程度では、全然足りません。日が迫るにつれ、気が重くなってきました。主催者側の準備はすばらしく進行しています。発表される論文を集めた冊子が作成されて、ネット上で配布されました。参加者に事前に読んでもらい、ディス火ションを充実させよう、という趣向です。書き手には有名な人が揃っていますし、感心するほどの力作揃い。なにしろ、注が100以上(!)付いた論文が2つあるのです。私は人にプレッシャーをかけるのが好きだとよく言われますが、その報いがしっかり来たようでした。(続)

ロ短調学会(3)2008年01月05日 13時21分05秒

11月初旬の大学はふつう、学期が進行中です。しかし私の大学ではちょうど「芸術祭」期間にあたっているため、休講は1日だけで済みました。終わったあと少しゆっくりしたいと心から思ったのですが、予定上そうもいかず、ちょっと早めに出て慣れの時間を作るのが精一杯でした。

北アイルランドの中心であるベルファストに、直行便はありません。ヒースロー空港の乗り継ぎは避けた方が無難、というアドバイスもいただきましたが、航空路には習熟していない私ですので、素直にブリティッシュ・エアウェイズからロンドンに飛ぶルートを選びました。その代わり、ロンドンからは直接ベルファストに入らず、間にマンチェスターを入れて、1日滞在することに。かくして、10月30日に出発しました。(私の友人筋には、飛行機旅行というと座席のクラスは何か、と尋ねるしつこい人が多いのですが、そのような世俗的な質問は却下します。)

ホテルは空港に隣接したところを予約しておきました。荷物をもってうろうろしたくなかったからです。ところが、案内板を途中で見失ってしまい、場所がわからない。やむなく周囲の人に尋ねたのですが、返答の英語がまったく理解できず、愕然!言葉の意味がわからないという以前に、英語であるかどうかすら判然としないのです。おまけに、尋ねた3人が、それぞれ別の方角を指し示す。4人目の人が空港職員で、ちょうどそっちに行くからついてこい、ということになり、一件落着しましたが、前途に暗雲の漂う始まりではありました。

今までは、成田空港で、海外用の携帯電話をレンタルして出発しました。しかし今回は、docomoの携帯がそのまま海外でも使え、これは便利。メールチェックやニュース購読を常時やっているうちに、請求がかさんでしまいましたが・・。(続)

ロ短調学会(4)2008年01月06日 09時22分42秒

10月31日は、1日だけ確保した、観光の日。マンチェスターを中心とした北イングランドの地域から、古都のヨークを目的地に選びました。

飛行機の恨みは列車で、というわけでもないが、一等車を張り込みました。ところが、え、この額ほんと?と言いたくなるほどの値段。間もなく明らかになったのは、イギリスはじつに物価が高い、ということです。体感3倍。1万円ぐらいかな、と思うと、3万円する(ような気がする)。もちろんそれは、ポンドと円の力関係によるわけで、ポンドは本当に強い。やっぱり大国なんですね、イギリスは。

イギリスに来たのは、たしか4回目。落ち着きと品位のある、私の大好きな国です。どこかどんよりとしていて、建物に色彩感のないのがひとつの特徴。田野を走ること1時間半で、ヨークに着きました。

お目当ての大聖堂は、こぢんまりとした町には不似合いなほどの巨大さで、往時の雰囲気をたたえています。なにしろ大きすぎて、広角のデジカメが間に合いません。そのあと、古代の要塞も見学。でもどこか、生気に乏しい印象を受ける町でした。

夜はマンチェスターの町を歩きました。こちらは近代的な大都市で、活力がいっぱい。それにしても、イギリス人はどうしてみな、歩くのが速いのでしょうか。私を次々と追い越してゆくこと、男女を問わない。あなたが遅くなったんでしょう、というご意見もいただいたが、それだけじゃないなあ。

こちらの大聖堂に入ると、オルガンが演奏されていて、しばし、心を洗われました。石造りの大きな空間に置かれたオルガンは、多様な反響が得られるために、とてもやわらかく響く。これだけは、来ないとわかりません。そう思う目の前では、スピーカーやアンプが運び込まれ、ロックのコンサートの準備が進行していました。(続)

ロ短調学会(5)2008年01月07日 10時47分41秒

イギリスは味覚の面がちょっと、というのは、よく聞く話です。でも少しお金を使っていいレストランに入ればいいのではないか、と思って出かけました。ところが、レストラン自体が、あまりないのですね。サンドイッチを食べるようなところは結構見かけますが、入ってみたくなるような洒落たレストラン、というのが少ない。食べることへの関心が、相対的に低いように感じられます。日本とは大違いです。

その話を知人にしたら、オランダからベルギーに入ると突然レストランが増える、という話を教えてもらいました。日本でも、訪れる都市によって、すごく食べ物屋の多いところ、飲み屋の多いところってありますよね。あんまり多いと、これで商売が成り立つのか、と心配してしまうぐらいです。やはり数と食の洗練は、無関係ではないように思えます。もちろん、そう見える中からおいしい店を見つけ出すことはできるのでしょうが、今回はそのゆとりがありませんでした。

11月1日は、飛行機でベルファストに移動。アメリカの2教授と落ち合い、タクシーでホテルに着きました。目の前に品のいい教会があります(写真)。歩いて感じる町の雰囲気は、どことなくなつかし系。落ち着きと味わいがあって、旅行者もリラックスできます。気がついてみると、現代的な建築というのはほとんどなく、簡素な印象です。その代わりというか、クルマは数珠つなぎで、大量に走っている。イギリスはクルマ社会、という印象を、どの町でも持ちました。

口頭発表の原稿に手を入れているうちに夜が更けました。さあ、明日からシンポジウムです。

ロ短調学会(6)2008年01月08日 14時24分52秒

参加者用バッグ
11月2日。まず受付へ足を運びます。若く、感じのよいスタッフから、冊子やパンフレットがたくさん入った、洒落たバッグをもらいました(写真)。これは、発表をする人だけがもらえるお宝です。時刻となり、富田教授の挨拶を皮切りに、いよいよシンポジウムが始まりました。(まさお君が公式ホームページのリンクを張ってくれましたので、詳細はそちらをご覧ください。)

セッションは、全部で9つ。今回の工夫は、2~3人の発表者のあとに「レスポンス」というコーナーが設けられ、その担当者が発表の意義を自分なりにまとめながら質問を投げかけ、それをきっかけに、ディスカッションに入るようになっていたことでした。

たとえば、歴史的背景を幅広く扱うセッションでは、リーダー格のクリストフ・ヴォルフ氏がレスポンスを担当して、主流の立場からの意味づけと、問題点の洗い出しを行う。これはとても、理解の助けになります。

1日目の白眉は、ワルシャワ大学のシモン・パチコフスキ氏の発表でした。《ロ短調ミサ曲》の成立は、ご承知の通り、バッハがドレスデンの宮廷作曲家の称号を、即位したばかりの新ザクセン選帝侯に請願したこととかかわっています。したがって、《ロ短調ミサ曲》を論じるためには、ドレスデンの研究が欠かせません。

しかるに先代のザクセン選帝侯(フリードリヒ・アウグスト1世)はポーランド王を兼ねており、息子の2世がその王位を継承できるかどうかは大問題で、まもなく、国際的な継承戦争が起ったほどでした。したがって、ドレスデンの研究には、ポーランドの研究が欠かせないのです。その意味で期待されるのはポーランドのバッハ研究であるわけですが、従来は言葉の問題もあり、それがあまり紹介されていませんでした。しかしパチコフスキ氏の参加によって、それが興味深い進展を遂げていることが明らかになりました。(続)

ロ短調学会(7)2008年01月09日 12時26分31秒

j配布資料
パチコフスキ氏の発表は、2つの点で、私の目を開かせてくれました。ひとつは、宮廷作曲家称号の請願という広く知られた出来事が、どういう背景のもとに、どんな意味合いで行われたのか、ということ。もうひとつは、ポロネーズ舞曲の当時における広がりと、その象徴的意味についてです。

その詳細については機会を改めて報告することにし、先を急ぎましょう。11月3日は、終日、発表と討論が続きました。最初に「神学」のセッション(ロビン・リーバー他)、続いて「作曲と意味(2):数比」(ウルリヒ・ジーゲレ他)、「作曲と意味(1):美学」(ジョージ・スタウファー他)。そして「資料とエディション」(ハンス=ヨアヒム・シュルツェ他)。クリストフ・ヴォルフ氏のキーノート・ペーパー(作品研究の歴史と現状、諸問題に関する要領のよいまとめ)で夕食休憩となり、そのあとはレセプションとなりました。楽しい談笑の写真が公式ホームページに紹介されていますが、私は翌日の発表原稿が不十分だったのでホテルに戻り、改良に精を出しました。深夜、富田さんが訪ねてくださり、疲れもみせずに協力してくださったのには感謝。富田さんの献身的な働きへの賞賛と感謝は、すべての参加者の口に満ちあふれていました。

疾風のように、英語の飛び交う学会です。みんな、ものすごいスピードでしゃべる。指揮者のアンドルー・パロットさんなんか、超特急。不安になった私が長老のジーゲレ先生に「英語ができないので心配です」と申し上げると、「私もですよ」というお返事。たしかにドイツ系の先生には、英語は苦手とお見受けする方が案外おられました。それでも、質問の内容は的確にとらえて、最低限の対応をする。やはり、ヒアリングが一定のレベルにあることが、重要なようです。

(写真は、配布された資料。発表論文を集めた冊子、既存の研究を集めた冊子、プログラムとレジュメ集、諸外国の演奏記録を集めた冊子。)

ロ短調学会(8)2008年01月10日 14時05分29秒

シンポジウムの初め頃のこと。後ろから、流暢な英語で的確な質問をする人がいます。どこかで聞いた声だと思って振り返ると、鈴木雅明さん。この方のドイツ語のすばらしさは知っていましたが(私よりずっと速く、ずっと正確に話されます)、英語もたいしたものです。頭も耳もいい、ということですね。。本来鈴木さんとエンシェント・ミュージックでクロージング・コンサートを行うはずだったのが、諸般の事情から地元のアンサンブルと差し替えになった、とのことでした。

鈴木さんの知名度は高く、世界を代表するバッハ演奏家として尊敬を受けています。それもあって、休憩中もいろいろな方と積極的に会話されており、声をかけるタイミングがつかめない(笑)。結果として、私と日本人グループを形成したのは、樋口隆一さん、星野宏美さんでした。お二人とも国際的な業績を挙げておられる方ですが、ベルファストまで足を運ばれる熱意には、頭が下がります。

11月4日、最終日のセッションが「演奏」(アンドルー・パロット他)で開始されました。レスポンスは、鈴木雅明さん。お昼の「公開Q&Aセッション」を経て、午後はまず「受容史」(ウルリヒ・ライジンガー他)。最後にとうとう--15時40分から--私の加わるラウンド・テーブルが開始されました。

(写真は外国での上演記録を集めたパンフレットの第1ページ。日本のチラシが冒頭を飾っています。)