コンチェルトの演奏法 ― 2008年05月28日 23時37分24秒
古典的なコンチェルトの場合ですが、今の演奏は、ソリスト中心になりすぎているのではないかと思っています。
古典的なコンチェルトでは、ソリストがなかなか出てきません。たいてい、管弦楽が長々と演奏しています。これは序奏、あるいは導入、というイメージで受け取られていると思いますが、それでいいのでしょうか。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなど古典派の交響曲では、第1楽章はソナタ形式で書かれています。ソナタ形式の提示部は、楽譜では反復されるように指定されている。ソナタ形式がバロックの舞曲にある二部形式から発展したためで、楽曲のコンセプトを強く印象づける、という狙いもあります。そんなとき、提示部の1回目は、気合いをいれて演奏しますよね。「顔」のような部分ですから、当然です。
さて、古典的な協奏曲の場合、第1楽章はいわゆる「協奏風ソナタ形式」で書かれていて、反復にあたる部分で、ソロが入ります。管弦楽による提示部を、ソロを交えて豊かに発展させるわけです。
私は、管弦楽による提示部が交響曲なみに充実して演奏されることが、ソロの入りに対するよき前提になると思います。ところが現実には、ソロを引き立てることを目的に、控えめに、軽く演奏される場合が多い。これでは、協奏風ソナタ形式の面白さは生かされない、と思うわけです。
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲では、ヴァイオリンが管弦楽の第1ヴァイオリンを、つねにいっしょに演奏しています(楽譜通りの場合)。要するにソロは管弦楽を率いていて、ソロが入ってくると、「その他」がソロと向かい合うわけです。ピアノ協奏曲でも、ソロは通奏低音のような形で、管弦楽の提示部に参加しています。腕をぶして待っているわけではありません。この精神は、失ってはならないのではないでしょうか。
ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲では、ソロはずっと休んで、管弦楽の提示部が終わったところで入ってきます(アインガング)。しかしそれ以前のコンチェルトでは、ソリストは管弦楽と一緒に演奏するのが本当であると思います。「弾き振り」は、それでこそ生きてくるのです。
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