話すことと書くこと(続)2009年01月17日 22時35分13秒

書き言葉を強引に読み上げる方式の発表を聞き慣れることも、研究者のひとつの技術かもしれません。しかし発表する側からすると、こういうやり方は、たいへん損です。ベーシックな部分の難易度を無意味に上げてしまうと、聞き手が疲れてしまい、大事なところをしっかりと聞いてくれなくなるからです。私はそれを、「聞き手の記憶メモリを無駄に使わせるな」という形で表現し、学生を指導しています。

「私は、ドイツ旅行をしたときの経験に基づいてこの曲の第2楽章の風景描写が現実を対象として描いたものではない、という礒山雅氏の説に疑問を感じています」という文章があるとします。作為的な例で恐縮ですが、こういう文章を書く学生は、案外いるものです。

この文章は、書き言葉ならまあまあわかるが、話し言葉としては最悪です。まず聞き手は、「私は」という主語を頭に入れ、「私がどうしたのか」という問題意識をメモリに保持しながらついてくる。しかし回答が与えられるのは、やっと「疑問を感じる」というところにたどりついてからです。

また、「私は、ドイツ旅行をしたとき云々」という文章を読むと誰でも、私がドイツ旅行をしたのか、と聞いています。それを後から修正するために払う労力は大きく、愉快ではありません。そもそも、「経験に基づいて云々」という情報は、「礒山雅氏の説」といういまだ見えざる概念に対してかかっているわけですから、聞き手はそこまで、目的のはっきりしないまま記憶をメモリに保持しなくてはならない。こういう「頭の重い」文章は、極力避けるべきです。余計なメモリを使わないすっきりした文章を基本にすることで、聞き手は肝心の部分の論証が緻密で入り組んでいても、ついてきてくれるものなのです。

こう書いていて、なんと言う当たり前のことを自分は書いているのか、読んでくださる方に申し訳ない、という気がしてきました。こういう文章をどうしても書きたくなる日常生活があるということで、ご容赦ください。

〔付記〕話し言葉の原稿を準備するときには、書いたものを自分で読み上げながら自分で聞き、もっと平易に、もっと流れよく、という要求を課しつつ修正していくのがよいと思います。話し言葉で書いているつもりでも、やはり何割かは、硬い書き言葉になっているものですので。

新著できました2009年01月19日 20時36分56秒

今日、私の新著『バッハ/カンタータの森を歩む3 ザクセン選帝侯家のための祝賀音楽/追悼音楽』(東京書籍)ができあがってきました。解説されているのはBWV193a、198、205a、206、207a、213、214、215、Anh.9、Anh.11、Anh.12、Anh.13の12曲で、BWV213(ヘラクレス・カンタータ)のCDがついています。演奏は、バッハ・コンチェルティーノ大阪です。値段はちょっと上がって、3,800円になりました。

帯の裏面に、「あとがき」からの1節が引用されています。ここでもそれを引用しておきましょう。「バッハは、ライプツィヒ時代(1723-50)の27年間、ザクセン選帝侯国の住民であった。バッハの領主はヴェッティン家の選帝侯であり、選帝侯は同時に、ポーランド王であった。したがってバッハは、事実上ポーランド国民でもあったことになる。ザクセン選帝侯=ポーランド国王とその一家のためのカンタータは、祝賀のにぎやかな式典に演奏されたり、記念日にコーヒー店で演奏されたりした。それらは、教会の礼拝を目的とした教会カンタータ群とは、まったく異なった環境で鳴り響いたのである。このため本巻の研究も、バッハの時代における政治や国際関係、社会や風土の歴史に注意を払いながら進められた。これは私にとって新しい課題であったから、私は研究を通じて多くのことを学び、しばしば、目からうろこの落ちる思いがした。そこから見えてきたのは、バッハにおける聖と俗の深い、密接なかかわりであった。」

万全を期したつもりでも、間違いは、手に取ったとたんに判明するものです。今収録作品を写していて、BWV193aとあるべきところが、表紙でAnh.193aとなっていることを発見。それは仕方がないですが、「あとがき」でCDの録音場所を「いずみホール」と記しているのは重大な記憶違いでした。巻末のデータにある通り、「相模湖交流センター」が正解です(柴田さん、ごめんなさい)。いきなりこれじゃ、宣伝になりませんね。でも、買ってください(笑)。

シャレの衰退2009年01月21日 22時51分33秒

洒落を飛ばす若い人って、いますか?私の知っている何人かの洒落好きは、みなかなりのオジサンです。CMで西田敏行のやっているのは、「オヤジギャグ」と分類されているようです。もちろん、ダジャレという概念はつねに存在します。

ふと思い当たったのですが、昔は洒落は高級な言葉遊びとしてそれなりに尊重されていたが、最近は、そうではなくなってきたのではないでしょうか。若い人は、ダジャレが出たとたんに、「寒い」と反応してしまうように観察しています。

じつは私も、そうなのです。サービス精神でけっこう優秀なシャレが飛び出しても、シャレだとわかったとたんに固まってしまう。笑ってあげる人って、偉いと思います(くれぐれも付言しますが、シャレを飛ばす方を貶めているのではなく、笑いに対する世相の変化と、自分の反応を考察しております)。皆さんは、いかがでしょう。ちなみに、先日の飲み会でその話が出たとき、すぐれたツッコミ(←やさしい人)の存在が重要だ、ということになりました。

ゲーム昨今2009年01月23日 23時28分18秒

先日、声楽の学生たちと、打ち上げで飲んでいたときのことです。先生はどんな気晴らしをするのですか、と尋ねた学生(テノール)がいましたので、パソコン・ゲームだ、と答えました。すると件の学生は驚愕の表情を浮かべ、先生がゲームをするのですか、とても信じられない、との由。だったら何をしているのか、と問うたところ、音楽(の研究)ばかりしていると思った、との答でした。

こう言ったのは、ドン・バジーリオを巧みに歌う洞察力のある学生なので、こちらが逆にびっくりしました。先生も普通の人間だということを、学生はそんなにわからないものだろうか。首をひねった私は自分の学生時代を思い起こそうとしましたが、記憶が戻ってきません。ゲームをやっているなどと、あまり言わないほうがいいんでしょうかね。

PCゲーム、最近不作のような気がします。やるゲームがなくなったものですから、じつに久しぶりに、国産のRPGを遊んでみました。「ツヴァイ2」というゲームです。私はアメリカのコワモテRPGが好きなので、甘口に味付けされたアニメ風ゲームはどうも苦手。少しやっているうちに、操作性の工夫された、よくできたゲームだということはわかりましたが、どうも照準は10代の男女のようで、半ばを過ぎたところで根気を失いました。売り場に行っては、そのまま帰ってくる日が続いています。

エンディング2009年01月25日 22時52分54秒

当今のオペラ上演における演出家の「読み替え」に対する私の抵抗感については、新聞批評でも、またこの欄でも、ときおり書いています。中でも承服できないと感じるのは、エンディングの方向性を逆転させようとするやり方です。これは決まれば鮮やかな力業ですから、演出家もあえて意欲を燃やすのかも知れません。

めでたしめでたしの大団円が、じつは不幸への入り口であるように設定する。逆に、絶望的な結末に、未来への希望を見て取る。どちらもよく見る演出です。私は、こうしたことが許容されるのは、音楽に根拠がある場合だけだと思う。音楽が不協和音から協和音にシフトし、安らかな大団円に向かっているのに、そこに悲劇性だの裂け目だのを持ち込んでくるのは間違っている。でもワーグナーの演出なんかに、結構ありますね。

話が大きくなってしまうので、狭めましょう。私が個人的に好きでないのは、作品に明示されていないヒューマニズムを演出家が加えて、めでたし感を盛り上げることです。たとえば、《ニュルンベルクのマイスタージンガー》の大団円で、ザックスとベックメッサーを握手させる。《魔笛》の最後で、神殿での戴冠式にパパゲーノ・ペアを参加させる。演出によっては、夜の女王やモノスタトスまで参加して喜び合う。こうすれば、「ああよかった」と思いつつ帰宅する人々が増えるのでしょうか。私は、エンディングが全方位的な価値観になっていないのも作品の重要な要素であり、それを変えたり薄めたりしてはいけないと思うのです。そこに実は、作品のメッセージが隠れている可能性がある。しっかり向き合うべき、辛口のメッセージが、です。辛口のものを甘口にしては、見るべきものが見えなくなってしまいます。

恐怖の電話2009年01月27日 10時01分57秒

家の電話の鳴ることが、少なくなりました。出てみると、過半数は売り込み。ショップから入荷のお知らせ、というのもよくあります。いずれにしろ電話が減ったのは、電話嫌いの私としてはありがたいことです。

というような感じで油断していたら、昨日の朝、恐怖の電話が。「×時から始まる△のためにもう全員揃っているが、どうされましたか」という内容です。仰天して駆けつけ、謝罪にこれ務めたことは、言うまでもありません。この話、夕方には職場中に広まっていました。みんな、口が軽いなあ(汗)。

大切なのは、再発の防止です。今回は、「しまった忘れた」ではなく、「意識していなかった」という状況。もちろん予定は告知されていたわけですが、それをスケジュールに書き込まなかったため、意識から外れていたのです。私の長年の課題であるスケジュール管理の問題が、ふたたび浮上した形です。

現在のスケジュール管理は「Google カレンダー」。オンラインで管理し、携帯からも見に行けるようになっています。ところが、携帯から書き込むことができない(ですよね?)。したがって、どこかで決まった予定をパソコンから入力しなくてはならず、ここに落とし穴が存在しているのです。やっぱり、紙の手帳にすべきなんでしょうか。

自己嫌悪です2009年01月28日 23時59分39秒

もう、ほんとに。今日また、会議を忘れてしまったのです。というか、月曜日とセットで、手帳に書き込むのを忘れていました。もう、職場を歩けないなあ。

まさお君から助言をいただいたので、環境向上につとめます。柴田さんから嬉しい書き込みをいただき、ちょっと気が晴れました。明日(木曜日)は相模大野でバッハのチェンバロ協奏曲です。出演が渡邊順生さんですから、楽しみです。

紙に逆戻り?2009年01月30日 21時10分11秒

皆様、書き込みありがとうございます。紙の手帳がいい、と言われると、たしかに、なぜ紙を使わないかという理由が、自分でもはっきりしないのですよ。生来のIT好き、ということでしょうかね。紙の手帳、これ、というのがありましたら、ご推薦ください。売れ筋の新製品、使ってみたいと思います。

今のワンセグ対応の携帯を使って半年以上になるかと思いますが、いままで一度も、電話に出たことがありませんでした。かかってくるのですが、うんともすんとも言わないのです。今日研究し、「サイレント・マナーモード」というのを採用しているとバイブレーションが発動しないことを発見。単なるOFFに、まぎらわしい題をつけるなあ。今まで無駄掛けされていた方、ごめんなさい。

出版社が、朝日の1面に新著の広告を出してくれました。右下、というのはいいですね(笑)。