9月のイベント2009年09月01日 22時18分21秒

ああ、9月。もう、9月。ついに、9月。秋ですよ、みなさん!

今月のご案内です。皮切りは、毎年この季節にやっている「モーツァルトの美意識」と題するコンサートです。今年は「響き合う友情と愛」と題して、4日北九州市立響ホール、5日熊本県立劇場コンサートホールで開催します(北九州は19時、熊本は18時から)。

プログラムはやや変則的なのですが、ヴァイオリン・ソナタホ短調と、オペラの二重唱特集が共通で、出演者は澤畑恵美、加納悦子、経種康彦、黒田博、久元祐子その他、国立音大の誇るすばらしい陣容です。このほか地元の同調会との交歓企画で、北九州には《ケーゲルシュタット・トリオ》、熊本には《レクイエム》抜粋が入ります。九州の方々、ぜひお会いしましょう。北九州の情報はhttp://www.kunitachi.ac.jp/event/2009/kitakyushu090904.html、熊本の情報はhttp://www.kunitachi.ac.jp/event/2009/kumamoto090905.htmlでどうぞ。

12日(土)は、モーツァルト・フェラインで講演します。「歌劇《フィガロの結婚》--気づきやすいこと、気づきにくいこと」というタイトルを考えています。19日(土)、20日(日)は、全日本合唱コンクール中国支部大会の審査員で、広島に行きます。様子のわからないところなので、また苦労しそうです。

26日(土)13:00からは恒例の朝日カルチャー横浜教室のバロック・シリーズ。「コーヒー店のバッハ」というタイトルで、《コーヒー・カンタータ》と若干の器楽曲を紹介します。

熊本2009年09月03日 23時17分32秒

熊本に来ています。四国、九州のうちで、いちども来たことがなかったのが、この熊本。原初の力強さのみなぎった都市です。街路に植えられた木も太くたくましく、銀座の柳(いまはないですが)が、いかにもひ弱に感じられます。

熊本城の広壮さは、たいしたもの。建物だけでなく周囲の環境がそのまま保全されていて、全部経巡ったら、相当な時間がかかりそうです。小腹が空いたのでラーメンを食べようと思い、やっとみつけた小さな店に入りました。そのお店は地元のお年寄り女性のおしゃべりの場となっていましたが、その言葉が、よく理解できません。いろいろな意味で、伝統が色濃く残っているのですね。でも、練習が終わったあとに行ったビア・レストランは、世界のビールをそろえて、見事なものでした。

《レクイエム》の合唱も気合いを入れて準備されていましたので、いいコンサートになりそうです。明日は、北九州です。

名前を忘れては2009年09月04日 23時08分51秒

今日は北九州の八幡にある「響ホール」で、「モーツァルトの美意識」のコンサートを行いました。熊本も、北九州も猛暑。もともと暑い土地柄なのか、ちょうど今そうなっているのか、わかりませんが。

こちらで用意していく出し物に加えて、現地の卒業生組織からの出し物を取り入れ、交流を図るのが、当シリーズのコンセプトです。冒頭の《ケーゲルシュタット・トリオ》と、《魔笛》の少年役を、北九州支部の方々に担当していただきました。これがなかなかで、《魔笛》の3少年など、大きな貢献をいただいたと思います。

トーク担当の私が心配したことのひとつは、演奏者紹介。お名前を忘れたりしたら、たいへん失礼にあたります。しかし最近は、あたりまえのことがとっさに出なくなる、ということをしばしば経験していますので、油断はできません。

演奏が大きな盛り上がりのうちに終わり、私が出演者を紹介する番になりました。懸命に記憶をたどりつつなんとかフルネームでご紹介できていたのですが、最後に、精神的な深さを加え圧巻の歌唱だった長身美貌のソプラノ歌手の前で、立ち往生。懸命にプログラムのページをめくり、「澤畑恵美」という名前を発見しましたが、一生の借りを作る、大失態でした。一番間違えそうもないお名前を忘れてしまうのですから、弁解の余地はありません。

失態はともかく、4人の名歌手(澤畑、加納、経種、黒田)の歌はすばらしく、器楽の方々も本領を発揮されて、エキサイティングなコンサートになったと思います。明日は、熊本で開催します。

月日への実感2009年09月06日 23時45分56秒

5日、熊本のモーツァルト・コンサートは、1800席と大きいにもかかわらず音響効果のひじょうに良い県立劇場に、大勢のお客様を招いて開かれました。

この日の大学+地元のコラボレーションは、地元のアマデウス合唱団とアンサンブル・ラボ・クマモトが国音勢の参加と福田隆教授の指揮により、《レクイエム》の抜粋を演奏するというものでした。しかしこれが、気迫のこもったじつにすばらしいもので、作品のすごさを見事に表現。〈トゥーバ・ミルム〉でソプラノ(澤畑さん)が「その時、哀れな私は何と言ったらよいのか」という歌詞で入ったところでは涙が出て、以降止まりませんでした。高校生の時傾倒したこの作品にこうした形で再会し、感無量です。

演奏後、また打ち上げの席で、私が最初に非常勤で行った講義を聞かれた方、若い頃の授業を受講された方が何人も来てくださいました。積み重ねた月日を、しみじみと実感します。

6日(日)。ほとんどの先生方は高校生対象の講習会で忙しいのですが、私は担当がありません。せめて私ぐらい観光しないと熊本県に申し訳ないと思い、タクシーを借り切って阿蘇巡り(!)。雄大きわまりない自然景観を満喫しました。温泉にも入りましたよ。

戻った東京、涼しいですね。全然違います。

謝罪考2009年09月07日 22時03分42秒

熊本で挨拶にいらした3人の方が、私が初めて国立音大で授業(音楽美学)したときの思い出を語られました。それによりますと、私は、「たくさん用意してきた資料のごくわずかしかお話できなかった、申し訳ない」と言って、授業を終えたのだそうです(記憶なし)。私の教員活動が謝罪とともに始まったということが、われながら興味深く思われました。

ダブルブッキングなどを繰り返す報いとして、私は日常生活において、ひんぱんに謝ります。頻度はどうかなと思っていろいろな人を観察してみると、さかんに謝る人がいる反面、けっして謝らない人も、ある程度いることに気づきました。謝らない人のメンタリティはどんなものかなあと考えましたが、よくわかりません。

かくいう私にも、謝りにくい時や、謝りたくない時というのがあります。謝って当然だと周囲が思っている時にはかえって謝りにくく感じるのは、私だけでしょうか。謝れ、と言われている時に謝るのは、もっとむずかしい。メンツがからんでくるからでしょう。ですから、一般に謝罪の要求というのは、人間関係を損ねると思います。

さらに考えるうち、私は家庭でめったに謝らないことに気づきました。外では謝るが、家では謝らない人。外でも家でも謝る人。外でも家でも謝らない人。外では謝らないが、家では謝る人。皆さんはどちらでしょう。また、望ましいのはどのタイプでしょうか(笑)。

続・謝罪考2009年09月09日 22時56分54秒

外に対する謝罪、内に対する謝罪という分類をしましたが、どちらにも含まれない、第3の謝罪があることに気づきました。神様に対する謝罪です。日本の伝統に則して言えば、「お天道様に対する謝罪」ということになるかもしれません。

まあこれは、人道的・道徳的観点からの反省、というのと同じことです。そう言ったのでは、抽象的で味気ないですが・・。教会に通っている人であれば、それが懺悔とか告解といった形を取るのだと思います。その究極的な形、将来への誓約を含む形が、「悔い改め」と呼ばれるものなのではないでしょうか。悔い改めは赦しの前提ですから、Claraさんのコメントにあるような「謝るぐらいなら最初からしないでよ」とおっしゃる方に、赦しはやってきません。

憐れみの祈りも、神への謝罪のひとつの形態と考えると、わかりやすいかもしれませんね。eleison、miserere、erbarme dich・・・。謝罪について考えているうちに、バッハの歌詞の中心部にたどりついてしまったようです。「憐れんでください」とはどういうことか、いつも考えていますが、素直に謝る気持ちの延長線上にあることは確かだと思います。

マルチェッリーナ考2009年09月13日 18時21分27秒

昨日の土曜日は、「モーツァルティアン・フェライン」の例会で、8年ぶりに講演しました。モーツァルトにかけては抜群に物知りの方々の前でお話しするのは気が引けるのですが、昨年の《フィガロの結婚》の授業で楽譜と台本を見直し、新しいことにいろいろ気がついていたので、その点をまとめてお話ししました。

その中で皆さんがいちばん興味をもってくださったのは、女中頭マルチェッリーナに関することです。モーツァルトはマルチェッリーナをソプラノとして考えていたが、現在はメゾソプラノで歌われる、その傾向は、第4幕のアリアを省略する慣習の定着によって加速されたのではないか、という仮説をまず述べ、その根拠として、第4幕のアリアがハイhを含むかなり高い音域のコロラトゥーラで書かれていること、第1幕のスザンナとの小二重唱で両者のパートがカノン風に書かれ、音域上の差異が設けられていない、ということを述べました。

その副産物として考えられたのは、本来のマルチェッリーナが今風に言えばアラフォーの、色香を充分に残した、なかなかすてきな女性像だったのではないか、ということです。マルチェッリーナをすっかりお婆さんにしてしまう演出も多く、それはそれで「にもかかわらずフィガロと結婚しようとしている」ストーリーを面白くするのですが、それでは、スザンナが彼女と張り合って本気で嫉妬することの根拠が、弱くなります。第4幕のアリアにも、「色香」がぜひ必要であるように思われます。

お婆さんタイプの典型はガーディナーの映像ですが、この日鑑賞したアーノンクールとチューリヒ歌劇場の映像ではエリーザベト・フォン・マグヌスがまさに色香イメージで演唱していて、これでこそ、と思いました。そう思って見ると、若々しいマルチェッリーナは、珍しくないですね。今までは、これじゃちょっと若すぎるな、などと思っていたものですから。

マルチェッリーナのアリアはメヌエット調の優雅なものですが、山羊でさえ互いの自由を尊重する、というくだりの「自由」というところで、唐突に、大きなコロラトゥーラが出現します。これは《ドン・ジョヴァンニ》の「自由万歳!」を連想させるもので、モーツァルトのひそかなメッセージではないだろうか、というお話もしました。マルチェッリーナの声部をモーツァルトはソプラノ記号で記譜しているのですが、これについては次話で。

モーツァルトのアルト?2009年09月14日 22時58分12秒

モーツァルトのオリジナル楽譜では、ソプラノ、アルト、テノールは、ハ音記号で書かれています。ソプラノはソプラノ記号(第1線がc)、アルトはアルト記号(第3線がc)、テノールはテノール記号(第4線がc)で書かれているのです。バスは、へ音記号。全部違う記譜法ですから、読むのがたいへんです。この点では、バッハも同じ。ト音記号は、声楽用には使われませんでした。

したがって、その楽譜の声種が何であるかは、音部記号を見ればわかる、ということになります。そこで調べてみると、《フィガロの結婚》に登場する5人の女声(伯爵夫人、スザンナ、ケルビーノ、マルチェッリーナ、バルバリーナ)のパートは、全部ソプラノ記号で書かれていることがわかりました。《ドン・ジョヴァンニ》は、どうか。これも同様で、アンナ、エルヴィーラ、ツェルリーナのいずれも、ソプラノとして記譜されています。

《コシ・ファン・トゥッテ》では、フィオルディリージ、ドラベッラ、デスピーナが、すべてソプラノ記譜。《魔笛》も驚くなかれ、童子や侍女の第3パートを含めて、すべてソプラノ記譜なのです。ソプラノが広い概念で、現在のメゾを含んでいた、とも言えるでしょうが、両者の間にはっきり線を引くことは不可能です。

ここで、次の疑問が出てきました。それは、モーツァルトのオペラに一体アルトは存在するのか、という疑問です。

円熟期のオペラには、ひとつもありませんでした。そこで舞台作品を前へ前へと調べていくと、最初のオペラ・セリアである《ポント王ミトリダーテ》のファルナーチェがアルト記号で書かれており、これが唯一の例外であることがわかりました。一般論として、モーツァルトのオペラではテノールとバスに対応する女声の分離は見られず、もっぱら高めの音域が活用されている、と言えそうです。このことは、おそらく当時のオペラハウスの状況とも関係があるのでしょう。

これが意外に思われるのは、合唱の第2声部がつねにアルト記号で書かれているためです。ミサやレクイエムのソロは、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4声部です。たとえば〈トゥーバ・ミルム〉の場合、モーツァルトのスケッチでは歌声部が途中まで一段で書かれていて、記譜がバス記号、テノール記号、アルト記号、ソプラノ記号と変わってゆきます。そしてそのたびに、歌い手が交代するのです。

小山さん授賞式2009年09月16日 22時19分30秒

今日は東京會舘で、サントリー音楽賞、佐治敬三賞の贈賞式がありました(今はみな「ぞうしょう」と読むようですね。「そうしょう」の方がきれいだと思いますが)。式もパーティも、豪華なにぎわい。知らない人が大勢いるところは、私、昔からどうも苦手です。気後れする必要はないと思いつつも、落ち着きません。そういう人って、案外多いんでしょうか。パーティで、お酒が入るまでの間ではありますが。

サントリー音楽賞の受賞者、小山由美さん(メゾソプラノ)の挨拶は抑制の効いた、落ち着いたものでした。佐治敬三賞を取った「labo opera絨毯座」の恵川智美さんは、協力してくれた個人や団体の名前を次々に、正確に挙げて感謝。プリマドンナの名前を忘れてしまう私とは、大違いです。このコメディア・デラルテ公演も、本当に地道な努力の結晶でした。

小山さんはパーティで、プーランク、チャイコフスキー、ラフマニノフの歌曲を歌われ、《カルメン》のハバネラをアンコール。さすがに内容のある、堂々としたステージでした。歌い手がサントリー音楽賞を取るのは、20年ぶりだそうです。

一度バイロイトで、《ワルキューレ》公演の後だったでしょうか、小山さんとお会いしたことがあります。何人かでお食事をしたあと、小山さんがクルマで、どこかまでお送りしてくださったのでした。そのことを憶えておられるかどうかと思案しつつお祝いに伺ったところ、顔を合わせてすぐに、心が通じ合いました。私の使う最高の褒め言葉は「品格」というものですが(あれ、今はやりの言葉ですね)、小山さんには惜しみなく、「品格」という言葉を捧げたいと思います。

Nessun dorma2009年09月17日 22時59分12秒

今日、私のところの大学院生のかなりが、徹夜しているはずです。それは、修士論文に相当する研究報告の提出が、明日だから。私の担当は声楽のオペラ専攻で9人いたのですが(過去の最大数)、今年はとてもよくやる人が揃っていて、半数近くが、例年を凌駕する出来映えになりました。やっぱりやる以上はいいものを出さないとつまらないですし、研究の場合には、努力は嘘をつきません。

うちの一人、テノールの学生が、「こんなに勉強したことは過去にない。でも途中から面白くなった」と言いました。これです!山登りと同じで、ふもとを登っているうちは苦しいだけでも、標高を稼いで展望がよくなってくると、楽しくなってくるものなのです。ぜひ手抜きせずに、そこまでやってほしいと思います。楽をするのは、結局損です。(10月の大学院オペラ《ドン・ジョヴァンニ》で、この人たちが出演します。またご案内します。)

酒井法子さん、保釈されましたね。その姿を見てしまうと、とても責める気になりません。もったいない人生の過ごし方で、教訓とするほかないでしょう。

明日、授業のあと広島に行きます。中国地区の合唱状況はまったく存じませんので、気が重い今夜です。