続・オンラインストレージ ― 2009年10月01日 13時01分37秒
パソコンを買い換えると、玉突きのように、古いのを職場に持ち込んでいます。やっと昨日、職場に、エプソンダイレクトの旧機を設置しました。古いパソコンのデータは専用ソフトを買って抹消しましたが、以前なら考えもしなかったことが、いまや常識になりましたね。セキュリティは大切にしなくてはなりません。
で、先日ご案内したSugarSyncを導入して同期を取ろうと思ったら、うまくいかないのです。間もなく判明したのは、無料2GBのコースでは、2台のパソコンしか同期できない、ということ。だめじゃん。私の場合、ノートを含み3台の同期が必要なのです。
そこで、SugarSyncかDropboxのどちらかを、有料で大容量にするほかないことがわかりました。比較してみると、SugarSyncには30GB、月約5ドルのベーシック・コースがあり、60GBのプレミアム・コースが約10ドル。Dropboxには今、25GB、約8ドルというコースができていて、次は50MB、約10ドルです。さあ、どうしようか。画像の類も全部上げるとすれば、かなりの容量が必要です。いっそ100GB(約20ドル)にしてしまうべきか、考えています。いずれにせよ、外付けHDの意義がほとんどなくなってしまいました。
気の交流 ― 2009年10月02日 22時50分52秒
楽しいクラシックの会コンサート「久元祐子の世界」、大成功のうちに終わりました。会の方々、出演者の方々、ありがとうございました。立川アミュー(小ホール)に満員のお客様に来ていただいたのはうれしかったのですが、入れずにお帰りいただいた方もあったようで、申し訳なく思います。
衆目の一致するところ、白眉はモーツァルト《ケーゲルシュタット》でしたね。これについては、久元さんのくださったメールに的確な言葉があるので、引用させていただきます。「自由闊達で魅力的な武田忠善先生のクラリネット、ひたむきでこまやかな坂口弦太郎さんのヴィオラ。まったく違う個性が出会い、音楽が生まれていく中でスリリングな快感と気の交流がありました。」本当にその通りで、音楽の中心に、久元さんの潤いに富む、温かいピアノがありました。
最後のトークで、「今日は久元さんの世界を室内楽も含めてご紹介したが、その世界の中心は久元さんではなく音楽である」という言葉が自然に出ました。心からの賛辞です。皆さん、ありがとう。
《魔笛》勉強中 ― 2009年10月03日 23時36分46秒
今学期は、金曜日の「作品研究」の授業で、《魔笛》を取り上げています。昨年は《フィガロの結婚》。今年は《ドン・ジョヴァンニ》にするか《魔笛》にするかかなり迷い、《魔笛》にしました。私にとっての究極的な作品はやはり《魔笛》であること、私自身がドイツ語の方が指導がしやすいことなどが理由です。
第1幕と第2幕を2つずつに分け、鑑賞の日と研究の日、そして幕ごとに、学生の演奏(および演奏指導)の日を設けることにしました。10種類の映像を所有していますので、鑑賞の日には、それを少しずつ見ます。昨日は第1幕後半を鑑賞する番でしたが、授業中であるとはいえ、作品のすばらしさに打ちのめされてしまいました。
第1幕だったら、皆さんは、どこに感動されますか?私は、フィナーレにおけるタミーノと弁者の対話です(これって、多数派なのか少数派なのか)。対話を導入する3人の童子の合唱も、美しさのかぎり。3人の侍女から笛と鈴の渡される五重唱、その鈴が使われて奴隷が踊り出すところも、いいですね。もちろん他のところもすべて超一流の音楽ですが、私はモーツァルトの晩年様式のあらわれているところに、とくに惹かれます。
作品がいいので、映像も高水準で揃っています。でも、昨日メインで聴いたコリン・デイヴィス指揮、コヴェントガーデン歌劇場のものが、隙のないキャストと正統的な演出で、随一ではないでしょうか。この盤でザラストロを歌っているのが、フランツ・ヨーゼフ・ゼーリヒというバス歌手です。
ティーレマン指揮の《パルジファル》を聴いたとき、この新しい歌手のグルネマンツがすばらしいのに驚きました。とくにディクションと、格調の高さ。どんな人かなあと思っていたので映像は興味津々でしたが、低音もよく出ますし、芸術性の高い歌唱でみごとですね。クルト・モルの後継者たるに十分で、これからは、この人の時代だと思います。
大バリトンの自伝 ― 2009年10月05日 22時27分56秒
音楽家の伝記がいろいろ出ていますね。浅岡泰子さんの『評伝クルト・マズーア』(聖公会)もいいお仕事でしたが、今日はフィッシャー=ディースカウの『自伝フィッシャー=ディースカウ 追憶』(実吉晴夫・田中栄一・五十嵐蕗子訳、メタモル出版)を、興味深く読み終えました。
「影のようにおぼろげな」記憶に色彩を吹き込んだものだと冒頭にありますが、いやいや、その詳細なことに驚かされます。論じられる出来事や、作曲家、作品、演奏家の、なんと多岐にわたっていることか。膨大なレパートリーを培い、それぞれを心血を注いで演奏してきた声楽家のスケールの大きさから、強い印象を受けずにはいられません。
フルトヴェングラーへの私淑は並々ならぬものだったのですね。他の指揮者論、ピアニスト論は、体験をもとに綴られているだけに、とても面白いです。録音の裏話もありますよ。残念なのは、晩年の活動や心境を綴ったページがないこと。第一線を退いてからのことを読みたい気持ちにかられますが、終章がないのが、自伝というものかもしれません。
大きな本なので翻訳者のご苦労は大きかったと思います。感謝を捧げますが、訳をもう少し洗練できるのではないか、とも感じました。文意の方向が定まらないところが散見されますし、カール・リヒターの出てくるところ、《マタイ受難曲》の「4曲のバス・アリア」というのが「4人のバスのためのアリア」と訳されて原語まで付されているのには、首をひねりました。
もうひとつ驚いたのは、彼がワーグナーを、たくさん歌っていたことです。かつて《パルジファル》の演奏比較をしたときに彼のアムフォルタスに違和感を覚え、舞台経験が足りないのではないか、と推測したのですが、それは間違っていたようです。今度出す本にも入っていますので、訂正させてください。
よき伝統 ― 2009年10月06日 23時32分11秒
出ました、朝青龍のガッツポーズ!それくらいいいじゃないか、というのが、すでに多数派でしょう。内館牧子さんのようにあくまで食い下がるのは、またか、と思われるかもしれない。でも私は、内館さんを支持します。理由はまさに彼女が言われていることで、国際的なスポーツになるのなら何の違和感もないが、その場合には国技の看板を下ろさなくてはならない、ということです。伝統と結びついた様式美こそ、相撲の本質だと考えます。
なし崩しにグローバリゼーションが進む世の中で、日本の伝統的価値のよいものはぜjひ継承すべきだ、と、私は思っています。勝っておごらず、負けて悪びれずというのは将棋にも同じく通じる価値観で、将棋の感想戦など、見ていて、どっちが勝ったのかがわからないほど。こうした奥ゆかしさがあるからこそ、将棋は勝負事を超えて、芸になっているわけです。
選挙の期間を通じて、日本を変えよう、という言葉が叫ばれ続けました。日本の政治を変えよう、とか、日本のよくない部分を変えよう、というのならわかりますが、とにかく変えてしまえ、という発想にはなじめません。ある程度外国を知っているものとして、日本には日本にしかないいいものがたくさんある、と確信しているからです。
新政権に何を望むか、とマイクを向けられた若い女性が、「日本を変えてください!」と叫びました。日本のよきものへの敬意がまったく感じられない語調で、私は、残念に思いました。知性派がずらりと揃った民主党に比べると自民党の古色蒼然たる印象には意気阻喪しますが、良質の保守主義を大事にしたい、という価値観は結構で、このさい洗練してほしいと思います。
続・10月のイベント ― 2009年10月07日 22時33分01秒
10月11日(日)は「すざかバッハの会」です。《マタイ受難曲》を中心とした2年のシリーズも、あと2回になりました。今回は第2部の核心部(ゴルゴタへの道行き)を扱います。「この1曲」ではカンタータ第140番(目覚めよ)を取り上げますが、コープマンの新しい映像がなかなかいいので、楽しんでいただけると思います。
17日(土)、18日(日)は14:00から、国立音大講堂で、大学院オペラ《ドン・ジョヴァンニ》の公演があります。今年の学生は粒が揃っていますから、一定のレベルを備えた公演になると思います。多くの学生がいい論文を書いたことはすでにご紹介しましたが、先日揃って研究室を訪れ、めいめいの写真をデザインしたラベル付きの「ドン・ジョヴァンニ・ワイン」を贈ってくれました。ありがとう。まだ飲んでいませんが・・・。
いずみホールの「ウィーン音楽祭 in Osaka」については、ホールのホームページをご覧ください。私が会場にいるのは18日(日)のフォルテピアノの日(小倉喜久子、桐山建志、花崎薫らによるベートーヴェンの交響曲第2番、シューベルトの《ます》)と、中嶋彰子+いずみシンフォニエッタによるシェーンベルク《月に憑かれたピエロ》他(火曜日)、ウィーン楽友協会合唱団を迎えてのシンポジウム(水曜日)、同合唱団によるハイドン《天地創造》(木曜日)です。
同合唱団が出演するトリのブラームス《ドイツ・レクイエム》(大植英次指揮 大フィル)も聴きたいのですが、土・日は大阪で、日本音楽学会の全国大会が開かれます。これの詳細も、学会のホームページでご覧ください。一般の方でも参加していただけます。
台風一過 ― 2009年10月08日 22時07分58秒
台風で被害に遭われた方には、お見舞い申し上げます。朝早く出勤したはずの娘から11時頃電話がかかり、まだ三鷹だというのには驚きましたが、私自身は今日在宅日だったので幸運でした。午後、仕事の打ち合わせに行くため国立を歩くと、とても爽やかで気持ちのいい秋の日。台風には、よどんだ空気を掃除するという効用もあるようですね。社会にも、似たようなことがあるかもしれません。
平素ほとんど銀行に行きませんが、昨日珍しく解約だの振り込みだのをして、面倒なのに閉口しました。何事も便利一方になるように見える世の中。セキュリティが、逆行の要因になっているようです。「本人でないと」という条件に困っておられる方も、多いのではないでしょうか。
お悔やみ ― 2009年10月09日 23時37分04秒
服部幸三先生が亡くなられましたね。心からお悔やみ申し上げます。今日の日本におけるバロック音楽の高い人気は、研究・教育や朝のFM番組における先生のご貢献なくしては考えられないことでした。「爽やかなバロック音楽」という有名な標語は、先生の作になるものです。
先生が東大に出講されたおりに音楽史を受講しました。たしか、修士論文を書いていたときではなかったでしょうか。近くに来いと誘ってくださったのに辞退してしまい、申し訳ないことをしました。しかし先生からは、多くを学ばせていただきました。
服部先生は日本音楽学会の第4代の会長でいらっしゃいました。私が第9代ですので、はるかな先達です。月曜日の告別式では、学会を代表してお別れして来ようと思います。
気持ちの落差 ― 2009年10月10日 22時50分39秒
今日は美学会全国大会の会場である、東大本郷へ。駒場で3年、本郷で8年を過ごした私は、その後も研究会やら非常勤講師やらでたびたび東大を訪れていましたが、今日は本当に久しぶりです。おかげで、お茶の水からの地下鉄のホームを間違えてしまいました。
本郷三丁目から赤門への道を歩くと、いろいろな思い出が蘇ってきます。しかし若い頃のことですから、さまざまなプレッシャーを感じて辛い時代だった、というのが正直なところ。時間が経つとずいぶん傍観者的になるものだな、と思いつつ、周知のキャンパスを逍遙しました。
研究室自体怖いところだったわけですが、偉い先生の揃う学会の怖さは格別で、その都度気が重く、発表ともなると緊張の極。音楽のことを述べているのに、直接かかわらないと思える(あるいは根底にあるのだが自分が気づいていない)哲学的な質問をされ、目を白黒させたことも何度かありました。
しかるに今は・・・。自分自身が年かさの世代になっていますから、存外楽な気持ちで、会場に入っていけます。それなりに責任の重い研究発表の司会を余裕綽々(?)に進めている自分をもう一人の自分が眺めて、落差に月日の経ったことを実感しました。年をとることにも、良さがあります。
バッハ理解と信仰 ― 2009年10月12日 22時49分22秒
さびれた別館http://groups.google.co.jp/group/alt-prof-iの様子が気になって久々にアクセスしてみましたところ、バッハの音楽を理解するために信仰が必要かという古典的なテーマに関する発題をいただいていたことがわかりました。メンバーの方々、引いちゃっているんでしょうかね。
今日、服部幸三先生の告別式に伺いましたが、先生の信仰が並々ならぬものであったことを知り、強い印象を受けました。聖書を読み、讃美歌に親しむ晩年であったとのことです。芸大生によってバッハのカンタータの一節も演奏されましたが、こういう雰囲気の中ですと、バッハを理解するために信仰が必要か、という問いは、新たな迫力をもって迫ってきます(じつは式場でそのことを考えていました)。少なくとも、信徒の方々に独自の理解様式があることは確かだと思います。
この問題を徐々に再考してみたいと思いますが、その前提として、応用問題を先に出したいと思います。次のように尋ねられたら、皆さんは、どう思われるでしょうか。
1.新興宗教の教祖の本に対して、「信徒でなくては本当には理解できない」という命題が成立するでしょうか。
2.キリスト教徒であればバッハ理解への切符をおしなべて手に入れることができるのでしょうか。それとも、カトリックよりはプロテスタントが、カルヴァン派よりはルター派が、より高い理解資格をもつのでしょうか。
3.戦記物を感動して読んでいる人に、戦争の悲惨さは行った者にしかわからないよ、と言うことは正当でしょうか。
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