子供のケンカに親が出る2010年06月03日 23時50分46秒

《ヨハネ》の話が途中ですが、緊急のご案内をさせてください。

来週の火曜日(8日)の19:00から、サントリーホールのブルーローズ(小ホール)で、「モーツァルト×オペラ=様々な愛のかたち」と題するコンサートを行います。音楽大学から企画を募って催される「レインボウ21」と題するシリーズの一環で、いまや国立音大の伝統ともなった、木管アンサンブル伴奏によるモーツァルトのオペラの公演です。

若手の公演に私が出て行くのは子供のケンカに親が出るようで気が引けるのですが、頼まれましたのでトークで乗ることにし、練習も、ある程度仕切っています。それなりに出来上がってきたのと、キャストの全員が私の指導下の学生・卒業生ですので、ぜひ親しい方々にはご支援をお願いしたく、ご案内させていただきます。おっしゃっていただければ、2000円からさらに割引します。

後半の《魔笛》は、ドクターコースの院生中心のキャスティング。パミーナが高橋織子さんで、パパゲーナは阿部雅子さん、3人の童子が、山崎法子+川辺茜+高橋幸恵さん。男声は、葛西健治君がモノスタートス。他に、卒業生の大川博君(パパゲーノ)と髙栁圭君(タミーノ)が出演します。

前半の《コジ・ファン・トゥッテ》は、修士2年で、今年秋の公演を準備している人たちです。こちらのレベルも相当で、安田祥子さん(フィオルディリージ)と小堀勇介君(フェルランド)の二重唱にご期待ください。他に、鈴木望(ドラベッラ)、照屋博史(グリエルモ)、千葉祐也(ドン・アルフォンソ)の諸君が出演します。みんな、がんばっています。

「支えられる」スタンス2010年06月04日 23時59分07秒

音楽大学の数の論理があると思いますが、とかく女性の優勢な、私の環境です。ちなみに私は、高校も大学も、女性は4分の1ぐらい。男性が多数、という環境で、人間の基礎を作りました。そのためか、いまだに、驚くようなことがあります。

ある授業で。発表の順番をクジで決めることにし、最後のシャッフルを、A君に依頼しました。その結果一番手に決まったのが、Aさん(←誰だか探さないでね)。そうしたらAさん、「Aくん最低!」と叫ぶではありませんか。5回ぐらい言ったと思いますよ(笑)。文句を言いながらも、Aさん、いい発表をしました。

今日は、A君の発表。そしたらA君、「Aさんが最初になって申し訳なかったので、今日の発表はAさんに代わってできるよう、連休に作ってあったものだ」と言うではありませんか。私は思わず、女の子はつけあがる、甘やかしちゃいかん、と叫んでしまいました。美談ではあるが、そこまで下手に出なくても、いいんじゃないかなあ。まさに、男が女を支える構造を、目の当たりにしたわけです。

それも、社会の趨勢。必然性も、長所もあることなのでしょう。私はと言えば、女性に支えられるという形で仕事ができていることを感謝した次第です。人生ここまで来ては、支えられるというスタンスしか、選びようがありません。

主の恵みにより2010年06月05日 12時25分06秒

オペラ専攻の学生たちの修士論文(研究報告)の指導をしています。今年は7人なのですが、なんとうち3人が、フランスのグランド・オペラをテーマとしました。マイヤベーア、オッフェンバック、マスネのオペラについて、彼らは研究しているのです。

先日話題にしたベルリオーズの《トロイアの人々》もこの系列ですが、今日はアレヴィの《ユダヤの女》を買ってきて、鑑賞しました。ウィーン国立歌劇場における2003年公演のライヴで、ニール・シコフが主演しています。

全5幕の壮大な構成、華麗な管弦楽、人海戦術のごとき合唱、といったグランド・オペラの特徴を典型的に備えた作品ですが、ストーリーが陰惨なのに驚きました。ユダヤ教徒がキリスト教徒から受ける迫害が主要テーマになっており、最後はユダヤ教徒の父娘が火刑にされてしまう。作曲者のアレヴィはユダヤ人ですから、きっと彼自身にとって、切実なテーマだったのでしょう。この救いのない内容で人気作となったことは、当時の社会背景を指し示しています。

《ユダヤの女》で唯一有名なのは、〈主の恵みにより〉というテノールのアリアですよね。私も、若い頃マリオ・デル・モナコのアリア集で親しんで以来、大好きな曲でした。これって、処刑を待つ牢獄で主人公が、やはり処刑を待つ娘を思いやって歌う歌なんですね。ニール・シコフの歌は、精魂込めた、感動的なものでした。内容のある歌い手です。

様々な愛の形2010年06月08日 11時52分52秒

表題のコンサートに、これから出かけます。若い人たちが日に日に向上しているので、熱いコンサートになると期待しています。いらした方は、感想など書き込んでいただけるとありがたいです。では、行ってまいります。

絶妙のロケーション2010年06月10日 23時29分39秒

「レインボウ21」の疲れからやっと立ち直りつつある状況です。たのもーさん、詳細な感想の書き込み、ありがとうございました。私自身はもちろんいろいろな感想がありますが、自分から書くよりは皆様に先に書いていただきたいという思いでいました。しかし私が書かないうちは書きにくい、と思われる方もあるようです。感想のおありの方、ご遠慮なくお願いします。いくつか書いていただけましたら、私の感想をレスポンスします。

私の実感を総合的にまとめておきますと、声楽、器楽、裏方すべての方々の献身的ながんばりで、これ以上は求められないというほどうまくいったと思っています。弟子たちとともにこういうコンサートをサントリーでやらせていただき、大きな幸福感に包まれたと、率直に申し上げます。みんな、ありがとう。最後は客席で拍手している方が謙虚な態度であると認識はしていたのですが、プリマドンナから招かれるまま、中央に出て行ってしまいました。右に《魔笛》のプリマ、高橋織子さん、左に《コジ》のプリマ、安田祥子さんという絶妙のロケーションで、手までつながせていただき、生きていて良かったという感じでした(笑)。

効率の良いトークをして時間を節約する必要があったため、昼間から、ずっと緊張していました。登場人物との対話を見せ場として、台本を配っていたのですが、ゲネプロではあちこち忘れてしまって、ミスの連発。大いに焦り、空き時間に準備を重ねました。結果として前半の《コジ》は完璧にうまくいき、一安心。でもそこで気が抜け、より確実に暗記していたはずの《魔笛》で間違えてしまったのですね。プリマを立ち往生させてしまいました。気を抜かず最後まで万全を期す、という当たり前のことの大切さを再認識した次第です。

6月のイベント2010年06月11日 23時57分10秒

もう6月中旬。更新もいろいろ中途半端になっていますが、イベントのお知らせをまだしていません。今更ですが、簡単に。

今週の週末、土曜日は、藝術学関連学会連合のシンポジウムに出席します。詳細はこちらをどうぞ。http://wwwsoc.nii.ac.jp/geiren/

日曜日(13日)は、すざかバッハの会の例会です。今月は、クラシック音楽講座の第3回。「響いてくる風土-標題音楽に親しむ-」というテーマで行います。同じ企画の改訂版を、20日(日)の「楽しいクラシックの会」でもご紹介します。26日(土)の朝日カルチャー横浜校は、「成熟する世俗音楽」と題して、バッハのライプツィヒ時代におけるコンチェルト、ソナタ、カンタータをご紹介します。

たのもーさんのコメントについて、私感を少々。指揮者がいたらなあ、というご感想はよくわかることで、われわれの演奏の至らなさの的確なご指摘なのですが、指揮者のいないコンサートの経験も、もっともっと必要だと思っています。指揮者がいると「みんなが指揮者に合わせて演奏する」という形になりやすく、横の連携が希薄になることがしばしばあるからです。声楽の指導をすることが多い昨今ですが、オーケストラを聴く、ピアノを聴く、という価値観を重んじています。歌のパートのみを一生懸命歌い、あとはピアノがついてきてくれ、というスタンスの人、どうしても多いのです。

たのもーさん、安田祥子さんの声を絶賛しておられますが、私もまったく同感。のびのびとまっすぐに飛んでくる若々しい声で、最初のリハーサルのとき、鳥肌が立ちました。高橋織子さんの気品ある円熟した声とは、また別のよさです。昔はテノールやバリトンの声ばかり好きでしたが、最近は女性の美声にも、本当に惹かれるようになりました。

楽しいインタビュー2010年06月13日 00時42分51秒

今日は東京都現代美術館で、藝関連のシンポジウム。「清澄白河」というところを初めて知りました。シンポジウムについて思ったことは、また別途書くことにし、今日は、かものはしさんのたいへんありがたいコメントに乗って、「レインボウ」がらみのことを若干付け加えます。

かものはしさんが言及してくださっている「私と出演者の掛け合い」について注釈します。ナビゲーター役の私は、ストーリーの解説をしなくてはなりません。しかしオペラのストーリーはこんがらかっていることが多く、時間もごく限られていますから、なかなか、行き届いた解説は望めません。抜粋となるとなおさらです。

そこでいつしか、インタビュー方式を採るようになりました。劇中の人物に私がインタビューし、その人物について、また彼・彼女がこれから歌う歌について、イメージを焼き付けてもらう、という作戦です。そうしたら、これが案外面白い。歌い手の方は芸達者が多く、しかも皆さん、いい意味で目立ちたがりですから、上手にやってくださるのです。最近は前もって台本を作り、それに沿ってやっています。

《コジ》では、第2幕初めのセレナードを終えたところに、インタビュー・コーナーを設けました。求愛が功を奏するか否か、という大詰めで、それぞれの心境を語ってもらうことにしたわけです。姉妹の性格の違いや、男二人の置かれた状況の違いを印象づけることを主眼として、台本を書きました。こうしてお客様にドラマの中に入ってきてもらい、後半の名曲を二倍楽しんでいただこう、という作戦です。

《魔笛》では逆に、音楽の始まる前に、3人にインタビューしました。パミーナに「向上する愛」への理想を語っていただき、それには応えるべくもないパパゲーノに自分なりの願いを語らせ、こわーいモノスタートスから、愛への秘められた思いを引き出すという構想です。パミーナにはパパゲーノ流の愛を否定するせりふを用意し、それをパパゲーノが立ち聞きしている、という設定だったのですが、私が引き出す質問を忘れてしまい、高橋織子さんが立ち往生される結果になりました。

〉この間,ラジオのクラシック番組でパーソナリティの歌手の方が「素晴
〉らしいという気持ちがわきあがったら拍手していいと思います」とコメントされていたのを思い出しました。

私、この考え方には絶対反対です。これははっきり言って、歌い手の言い分です。歌が終われば音楽は終わり、という考えが根底にある。作曲者が心を込めて書いた後奏、それを心を込めて演奏するオーケストラやピアノ。その全体が、音楽なのです。典型は、《魔笛》のパミーナのアリアです。後奏がまさに、音楽のエッセンスになっている。バッハのカンタータやシューマンの歌曲ならそうする人はいないでしょうが、オペラでも、事情はほとんど同じだと考えます。

最後に。足本君の貢献にご評価をいただき、ありがとうございました。本当に、彼あっての公演です。喜ぶと思います。

意識改革2010年06月14日 09時38分15秒

後奏で拍手が起こったことについては、私の責任もあります。この日はどうしても演奏曲が多くなってしまい、極力無駄がないように運ばなくてはなりませんでしたので、歌い終わった登場人物は、後奏の間に即退場するように設定していたのです。結果として、退場が拍手を誘発しました。歌い手も後奏を聴いてから動くようにしておけば良かったわけですよね。心に留めておきたいと思います。

前話で「歌い手の言い分」という言葉を使ったのは、学生指導の機会に、意識改革を求めているからなのです。自分のパートを歌うのに精一杯で、ピアノや合奏を聴いていない人が、あまりにも多い。たとえ自分のパートをしっかり覚えたとしても、ピアノがどうなっているか、和声がどう進行しているかがまったく把握されていなければ、作品の演奏が、いいものにならないことは当然です。作品の全体を見ることが、大きな意味をもつからです。

高度なことを最初から要求するわけではありませんが、とにかくピアノを聴き、ピアノといっしょに音楽を作ることを心がけるだけで、演奏の力は二倍にも、三倍にもなります。ピアノが主役としてきらめく場も歌の曲にはたくさんあり、そんなとき歌い手が意識して引き立て役に回ると、音楽はとても引き立ちます。

そんなことを考えるようになってから、私の音楽の聴き方も、ずいぶん変わりました。世界的な歌い手にも、ピアノやオーケストラを聴いている人といない人がおり、聴いている人のすばらしさを痛感する昨今です。

ヨハネの週末(2)2010年06月16日 17時24分27秒

基本的にはやりにくい形態である「プレ・トーク」ですが、この日は最初から大勢のお客様が顔をそろえ、真剣に聴いてくださったので、とても気持ちよく役割を果たすことができました。ありがとうございました。一橋大学の歴史と風格をひしひしと実感する、兼松講堂のコンサートでした。演奏の皆さんも、ベストを尽くされたと思います。

この話題が長いこと中断したのは、エヴァンゲリストの歌唱はいかにあるべきかに関する持論をこの文脈で披露するべきか否か、迷っていたからです。しかしバッハ・ファンの方々が多く来てくださるブログでもありますので、時間も経ったことですし、書かせていただくことにしました。

受難曲のエヴァンゲリスト歌唱は、2つのタイプに分けられます。第1のタイプは、エヴァンゲリストのパートの中にドラマを持ち込み、パート自体をドラマのごとく演唱するものです。一例は、後期のシュライヤー。このやり方ですと、エヴァンゲリストが受難曲の主役となります。概して力演型が多く、過剰になると独り相撲型になるのが、このタイプです。

第2のタイプは、自分を語り手の役割にとどめ、ドラマティックな演唱を避けて、なにより言葉を、明晰な音型に乗せて聴き手に届けようとするタイプです。近年の古楽はおおむねこの傾向にあり、私もこちらが正しいという思いを、日々強めています。エヴァンゲリストが一歩退くことは、イエスが輝きを増すことにもつながります。

もうひとつ、大事なこと。それは、エヴァンゲリストは必ず、続く登場人物の言葉へと、聴き手の意識を誘導しなくてはならない、ということです。「そこでイエスはこう語った」「弟子たちはこう言った」と歌い終えるとき、聴き手の意識がそちらに集中して初めて、エヴァンゲリストの役割は全うされることになる。ところが、自分のパートが終わったところで歌を閉じてしまう人が多いと、日頃から感じていました。主役型のテノールは、とくにそうなります。

ジョン・エルウィスさんのエヴァンゲリストはひじょうに立派でしたが、その点で、私とは違う価値観に立つものと思われました。もちろん、力演型でないと物足りない、と思われる方も、たくさんおられることでしょう。イエスの小笠原美敬さんが卓抜な言葉の解釈で好演だったことを申し添えます。

人間のいない世界2010年06月18日 23時44分36秒

聖心女子大学の授業、新約聖書の内容を追いながらそれにちなむ音楽を紹介して、復活、終末と進んできました。復活のからみで紹介したのが、ノートルダム楽派のオルガヌム(12-13世紀)。終末との関連で紹介したのが、メシアンのオルガン曲《鳥の歌》でした。前者にはヒリヤード・アンサンブルの、後者にはマルクッセンのDVDがあります。

こう並べてみて、中世と20世紀の親近性を痛感。この不思議な魅力の共通点は何だろう、と思っていて気がつきました。どちらの世界にも、人間がいないのです。人間がかかわってはいても、その音楽は、人間の向こう側の世界をはっきり指し示している。メシアンの音楽が、ことにそうです。

われわれが平素親しんでいる音楽にも、鳥はたくさん登場します。しかしそれは、人間の世界に住んでいる。自由に飛翔する鳥へのあこがれが歌われたり、鳥に恋人への思いを託したり、ナイチンゲールに恋の嘆きを聞いたり、というのが、音楽における、われわれの鳥とのかかわりです。

しかしメシアンの音楽には、鳥の声だけがある。ものすごい耳で聴き取られ、精密に採譜された鳥の声は、この世を超えた透徹の世界で、神への讃美を歌っています。これってすごいなあ、と思うようになりました。