反省2011年10月23日 23時56分29秒

音楽大学につとめていて良かったと思うのは、演奏家の先生方と親しくなれたことです。いろいろな分野に友人ができましたが、ある声楽の先生はいつも、「礒山先生は歌科(うたか)的気質の持ち主だから」とおっしゃいます。これは、私の歌好きをご存知で言ってくださっているのだと思いますが、あるいは、理知と感情のバランスにおいて、私がある程度感情に寄っている、という意味を含んでいるのかもしれません。周囲の方々に、私はどう映っているのでしょう。

自分では知的抑制に富むイメージを目指しているのですが、音楽に涙するケースがめっきり多くなり、自信がなくなってきました。私は演奏なり、スピーチなりに接してそのすばらしさに感銘することしばしばで、その一部を当欄でご紹介したりしているのですが、そうした多感なプラス反応は、同時に、マイナス反応をも生み出します。相手を甘く見たもの、自覚の足りないものに対して抱くネがディヴ感情は、自分でもいやになるほど大きいのです。で、基本平静、いいものに感動、そうでないものにも動ぜず、という境地に入れたらいいなあ、と思っています。

何より人間、怒っちゃだめですね。先日、前のスケジュールが長引いて私の練習を休んだ人たちに激怒してしまったのですが、大人気なかったという反省の念しきりです。どうして、信頼すべき人たちが休むのにはそれだけの理由があると思うことができなかったのか。まだ自分ダメですね。そういう部分を抑制しつつ、なお、「歌科的」というお言葉をいただけるように努力したいと思います。

iBACHで講演2011年10月25日 23時23分36秒

今日のiBACHは、《ロ短調ミサ曲》に関する私の講演会でした。聞きにいらしてくださった皆様、ありがとうございました。

今まではもう少し早い段階で、私が作品についてお話する回をもちました。今回ずっと遅れたのは、翻訳を手にとってもらってやると能率的、という思い(下心?)が働いたからです。しかしうまくいかないもので、発売の前日に、本のないまま、やる羽目になりました。

入念に準備し、相当緊張して臨んだのは、この1回のメッセージが届くか届かないかが、来年1月の演奏を、かなり左右するように思えたからです。自分ながら滑稽に思えるほどのハイテンション。マイクなしでやりましたが、新築のスタジオの音響効果がよく、なめらかに声が響きました(と思う)。じつは、NHKの最近数回が、いやになってしまうほどのしゃがれ声。もうこんな声になってしまって治らないのかな、と思っていたのです。

しかし、27曲もある長大な作品に詳細なレジュメを作成したのでは、どんなに飛ばしても、最後までいきません。休憩中に指揮者の大塚直哉さんがいらしておっしゃるには、勉強になるので来週も続けましょう、と。練習を中断して講演を続けるのは気が引けますが、作品を理解する重要性をみんなが感じてくれたのであれば、やはり必要なことだと思い、もし終えられなかったら、やらせていただくことにしました。

結局は、〈グローリア〉で討ち死に(笑)。締めに用意していたDVDの音が出ず、最後を飾れませんでしたが、こんなときに必要なのは、発想の転換です。代わりに、次回に送ろうと思っていた後半部の成立事情をお話ししました。来週は来られない方もいらっしゃるでしょうから、かえってその方が良かった面もあると思います。

ヴォルフ先生の作品観はすっかり頭に入り、自分なりの整理の仕方も、頭をもたげてきました。本は、いよいよ明日発売です。私の明日は、胃カメラの日。最近日本学術会議の連携会員というものにしていただいたので、午後はその説明会に回ります。

朝から胃カメラ2011年10月26日 23時09分14秒

早朝に胃カメラを予約すると、たいへんです。前の日に、食事を早く摂らなくてはならない。昨日は夜8時がタイムリミットだったのですが、講演終了後、9時過ぎになってしまいました。早く起き、満員電車で聖路加病院に向かいます。もちろん、朝食を摂ることはできません。まあ、年1回のことですから、がまんもできます。

朝日新聞を買って乗車しましたが、車内で新聞は読めませんね。今朝本の広告が出ると聞いていたのですが、結局発見できませんでした。予定より早く、病院着。先日のMRIをうっかりして病院に迷惑をかけてしまったので、今日は遅れないように、万全を期して出てきました。先生にお詫びしなくてはなりません。ああ、また謝罪率が上がる。

受付で手続き。すると女性がにっこりして言うには、「今日は予約されていません」。「いや、診療ではなく、胃カメラの検査です」。すると女性はパソコンの画面を確認し、「それは明日です」と言いました。

空腹の私は、それからよろよろと、築地方面へ。あ、朝日新聞の広告も、明日のようです。病院には明日、もう一度参ります。

百年河清を待つ2011年10月28日 11時26分24秒

胃カメラに、出直しの朝。満員電車に乗り、しばらく経ってからのことです。私は向かって右のドア、優先席とは反対側の入口に立っていたのですが、斜向かいの優先席あたりから、「携帯の電源を切ってください!」という声が上がりました。ある程度の年齢の、女性の声です。

「やるなら向こうでやってください」「ここは優先席ですよ」に始まる言葉は、ずっと続いて、休みがありません。次の駅に近づくと、「さあ、また猛者が乗ってくる」とつぶやき、乗客が入れ替わったところで語調を強め、「携帯の電源を切ってください」と戻ります。何サイクル、これが続いたでしょうか。

その間、乗客の声は、寂としてありませんでした。みんな、どうしているんだろう。知らん顔をしているのか、使っている人が電源を切っているのか、使っていない人も取り出して電源を切っているのか。見たいと思いましたがわかりません。

それ以上に知りたいと思ったのは、黙っている人々の反応です。たしかに、優先席で電源を切る人は、再三のアナウンスにもかかわらず、見たことがない。車掌さんが注意する光景にも、接していません。でもみんな、使っていますよね。年配の人が電話をかけている姿さえ、見たことがあります。私はといえば、なるべく使わないようにはしていますが、電源を切ったことはありません。

ですから、女性の発言は、まったくの正論です。非の打ち所がありません。だからこそ知りたいのは、黙っている人たちの感想です。よく言ってくれた、という感謝なのか。勇気ある発言への賞賛なのか。あるいは、ある人の生きがいへの、やさしさなのか。でも人間って、どうして正論に反発してしまうのでしょうね。他人をあげつらう情熱に、どうしても賛同することができないのです。

胃カメラを無事済ませ、荻窪の名店「春木屋」で、ワンタンメンを食べました。

杉山先生を送る会2011年10月30日 22時57分13秒

10月29日の午後、恵泉女学園大学で行われた「杉山好先生を送る会」に参加してきました。先生を熱愛する人々がこんなにたくさんいらっしゃるのかとあらためて目を見張るようなすばらしい会で、先生も上からご覧になり、涙を流していらっしゃったのではないかと思います。

多摩センターにある恵泉女学園には初めて伺いましたが、緑が多く心が澄みわたるような、いい環境のところですね。そこのチャペルでまず、礼拝がありました。オルガン演奏(木田みなこさん)はバッハのコラール・パルティータ《おお神よ、汝慈しみに富みたもう神よ》BWV767から4つの節を選んで行われましたが、そのそれぞれの節に対応する杉山先生の訳が、配布されています。第1節と、老いの辛苦を述べる第6節、安らかな死を祈る第7節が先立って演奏され、礼拝の最後に、復活を述べる最終節が演奏されました。

先生の精魂こもった名訳を読みながらオルガン演奏を聴くうちに私の心には「信徒の幸福」と呼ぶべきものが、しみじみと実感されるように思われました(もちろん私は信徒ではないので、想像するわけですが・・・)。これは、初めての体験です。快活な笑顔をとらえた先生のすばらしい写真が、花の中に飾られています。

いくつもの著作を勉強させていただき、尊敬申し上げている荒井献先生が「奨励」(短い説教)をなさいました。その中で、先生の最近の研究成果である『ユダ福音書』の話をされ、ユダがイエスによってすでに赦されている、という見方の価値を語られたのですが、それは杉山先生との長年の友情を語る文脈の中ででした。

そのことにかかわる講演を聴かれた杉山先生は、終了後壇上に駆け上がって荒井先生の手を取り、「ユダはバッハの《マタイ受難曲》においても、放蕩息子になぞらえて赦されているんですよ!」と感激の面持ちでおっしゃったそうです。私は驚き、全身耳になってこのお話を聞いていました。なぜなら、この解釈は私が著作の中で提示し、状況証拠を引きつつ主張しているものであるからです。

ああ、杉山先生は共感してくださっていたのだな、と思い瞑目していると、荒井先生は「そのことを私は、杉山さんの弟子のひとりである礒山さんの著作ですでに知っていました」とおっしゃり、私の著作の、「東京書籍、1994年」というデータまで、付け加えてくださったのです。私はますます驚き、ああ、こういう方がこういう風に読んでくださっているんだなあ、と恐縮しつつ、深く励まされました。『ユダ福音書』のこと、これから勉強します。

その後の茶話会では、先生の思い出と恩義を綴った精一杯の文章を用意し、朗読しました。亡くなられた今、先生への感謝の思いは募るばかりです。

[付記]「私の解釈」というのはいかにも語弊がありますので修正し、正確なところを記しておきます。

杉山先生は、ユダの死を受けるバス・アリアの歌詞に以前から「放蕩息子」の訳語を使っておられましたので、この部分を、すでに赦しの文脈で捉えておられたことは間違いないと思います。私が行ったのは、その発想がどこから出てきたかの、ルーツの探索です。バッハの神学蔵書を調査した結果、そのままの用例は見つからなかったが、ユダ観の転換を窺わせる記述は随所にあり、とりわけランバッハのユダ論に、それが顕著でした。したがってユダ=放蕩息子という思い切ったたとえはバッハ/ピカンダーのオリジナルである可能性がなお残っています。しかし、ライプツィヒの牧師たちに由来する可能性もあることでしょう。いずれにせよ、そこには大きな一歩があるように思います。