学問と実践の共同2012年01月21日 01時34分02秒

いつまでも結果に酔えませんので、最後に。

何人もの方からおっしゃっていただいたのは、「学問と実践の共同」という観点です。その意味では私も、ひとつのモデルケースを提示できたかな、とは思っています。種々の要因がありました。場が、大学の、それも「音楽研究所」であること。メンバーの多くが論文を書いている人たちで、指揮者の大塚直哉さん(大功労者です)も楽理科の出身であること。私がはからずも《ロ短調ミサ曲》の研究に取り組み、ぴったりのタイミングで訳書を出版したこと、などなどです。少なくとも私の中では、研究と演奏が、折り重なって進行しました。

どんな音楽でも研究に取り組んで演奏に損はないと思いますが、バッハの場合、とくにそう言えると思います。バッハ自身が卓越した頭脳の持ち主で、作品が、思弁的傾向を帯びているからです。研究してはじめてわかることがたくさんあり、それが、本質と連なっています(ヴォルフ先生の評伝の副題は「学識ある音楽家」となっていますが、まさに共感します)。それを演奏にフィードバックするというのは、魅力的な課題です。

ということで、練習の過程では、ラテン語の典礼文テキストを理解すること、それにバッハがどういう音楽をつけているかを認識することを絶対条件とし、練習の合間に説明をはさんだり、気合を入れたりしました。選んだ演奏家におまかせし、口をはさまない方が感じがいいことはわかっているのですが、今回は演奏者に学びへの欲求が強くあり、アドバイスを生かそうと、いつも努めてくれましたので、研究情報の提供は、積極的に行いました。それが無駄にならなかったのは、演奏者の方々のおかげです。

よきコラボレーションの実例を、1つだけ。あのすばらしい「復活」の合唱曲を思い出してください。キリストの復活を喜ぶ音楽は爆発的に始まり、中間部で「昇天」を扱います。その最後に再臨と裁きを予告するバス・ソロが来て、統治の永遠を歌うテキストが、再現部の役割を果たします。そのテキストは、cujus regni non erit finis(その方の統治に終わりはないだろう)というものです。

通奏低音を伴ったバスのソロが一種威嚇的に進行する間、合唱は、主題の再現に備えています。バス・ソロが終わると、満を持した合唱が再現部を爆発的に歌い始める--となりそうですが、これではダメなのです。再臨し、生者と死者を裁かれるイエス。その方の、そういう統治こそが永遠だということを伝えるために、再現部の合唱はバスのソロをしっかり受けて、そのメッセージを肯定して始まらなくてはならない。具体的には、cujusに実感がこもる必要があります。この点は大塚さんがしっかり徹底してくださいましたので、説得力のある効果を挙げたのではないかと思います。それでこそ生きる、管弦楽の長い後奏なのです。

「学問と実践の共同」は、演奏上の通念とは、必ずしもなっていません。音楽は感性の領域であり、変に理屈っぽくなるのはよくない、と考える方も、たくさんおられるからです。しかし私の意見では、バッハの音楽を人間の感性にもっぱらひきつけるのは、私が言うところの人間中心主義です。それを超える領域に入っていくには、理性の共同が必要だと思っています。もちろんそのバランスが、別の課題となるわけですが。いずれにせよ、感覚を超えるものの大切さを演奏者たちと共有できての、今回の結果だったと思えてなりません。皆さん、ありがとうございました。

辻荘一賞授賞式2012年01月22日 23時24分46秒

21日の土曜日はたいへん寒い雨の1日になりましたが、立教大学のチャペルで行われた、辻荘一・三浦アンナ学術奨励金の授賞式に出席しました。受賞者は既報の通り、芸大教授の大角欣矢さんです。

完全な礼拝形式で、授賞式は進みます。記念講演は祭壇で行う。そういえばやったような気がしますが、私がいただいたのは第1回で1988年のことですので、何をお話ししたか、まったく記憶がありません。

ご専門の宗教改革期の音楽、ルターとシュッツをつなぐ時期の聖句モテットについて語られた大角さんの講演は、感動的なものでした。作品の成り立ちを追悼説教からアプローチするのが大角さんのオリジナルで、当時の人々がいかに死としっかりと向き合い、そこに価値観を発見していたかが語られていきます。それは同時に、死と向き合うことを放棄した現代人への警鐘ともなっているのです。そこで発揮される音楽の力を評価すべきだと、大角さんは主張されました。

おっしゃることのすべてが、私の心から同意できることばかり。発想にしろ楽曲分析にしろ、自分が話しているのではないかと錯覚しそうになることも何度かありました。しかし私からの影響は、微々たるものだと思います。ご自身でオーソドックスに勉強された結果、私の心から共感できるお考えに、到達しておられるのです。

ただ、決定的に違うことが、1つあります。それは大角さんが敬虔な信徒であられ、私がそうでない、という点です。それなのにどうしてこういう共感があるのだろう。私には不思議に思えてなりませんでしたが、ふとよぎった直観があります。これは、私が《ロ短調ミサ曲》について述べている「宗派を超えた宗教性」というもののもたらしたつながりと考えることはできないでしょうか。

次の世代にすばらしい研究者を得て、シメオン老人(ルカ福音書参照)のような心境です。

今月のCD選2012年01月25日 00時19分15秒

年末商戦のあとだからでしょうか、今月は、分母がすごく少なかったです。というわけで、ちょっと渋い選考になりました。

1位は、ヘンゲルブロック指揮 北ドイツ放送交響楽団のシリーズ第一弾(ソニー)。曲はメンデルスゾーンの交響曲第1番とスケルツォ(弦楽八重奏曲からの編曲)、シューマンの交響曲第4番初稿。いかにも爽やかな演奏で、初期ロマン派の魅力がいっぱいです。ヘンゲルブロック、これから一番楽しみな指揮者ではないでしょうか。《ロ短調ミサ曲》があったことを思い出して聴いてみましたが、すばらしいですね。コンチェルティスト方式をとっている(従ってジャケ裏にソリスト名が出ていない)、珍しいCDです。

2位は、吉松隆さんの「夢詠み」を選びました(カメラータ)。吉村七重さんの箏が、清澄のきわみなのです。「耳を静けさへと引き込み、心を洗い清める至芸」と書きました。

3位は、有森博さんの「カバレフスキー3」(フォンテック)。日ごとに存在感の薄れつつある社会主義リアリズム時代の人気作曲家ですが、使命感をもって演奏してくれているピアニストがいることを知ったら喜ぶでしょうね。24の前奏曲など、曲ごとに個性があり、面白く聴けます。

毎日芸術賞贈呈式2012年01月26日 11時06分17秒

昨日25日は、東京プリンスホテルで、第53回毎日芸術賞の贈呈式。大きな黄色の花をつけて左正面の審査員席に座りましたが、小田島雄志、高階秀爾といった大先生方のお側ではいかにも貫禄不足で、気恥ずかしいかぎり。「若輩」という言葉さえ浮かんでしまいます。

千田是也賞、毎日書評賞を合わせて7人の受賞者の方がスピーチされました。平素不案内な領域も多く、自分の住んでいる世界の狭さが痛感されて、とても勉強になりました。こうした式典、祝賀パーティーは、世界を広げるいい機会ですね。いくつか、印象に残ったことを。

石飛博光さん(書道部門)のお話によると、書は筆順に生命があり、筆順をたどってみていくことで、書き手の心に触れることができるのだそうです。う~ん、図形として見ていましたね、私は(汗)。坂茂さん(建築部門)は被災地の仮設住宅などを積極的に手がけている方ですが、地震で人は死なない、建物がこわれて死ぬ、だからそこには建築家がいなければならないのだ、と。頭の下がるお言葉でした。千田是也賞の演出家、中津留章仁さんは、支えてくれた人たちへの感謝を語る段に至り、感極まって涙されました。長身の精力的な方とお見受けしていたのに意外なやさしさの発露で、びっくりしました。どの世界にも、涙もろい方はおられるのですね。

パーティーで生・由紀さおりさんの歌を拝聴。お姉さんの安田祥子さんもいらしていました(iBACHにも同字の方がおられます)。自由時間の増えそうなこれから、なんとか、世界を広げていければと思います。

真紅のバラ2012年01月27日 22時43分04秒

1月最後の金曜日は、たいてい、1日がかりの仕事になります。それは、オペラ専攻の大学院生の修了試験(アリアとアンサンブルに分かれ、今日はアンサンブル)と、その後に論文の口述試験があるからです。私の指導で論文(正式には研究報告)を書いたのは、ソプラノ6、バリトン2の8人。その全員が、声楽の先生方(著名人ばかり)の審査を受けました。今日はその前に、音楽学の修論審査も1本入りました。

ドニゼッティ、グノー、ヴェルディのオペラ名場面を、学生たちは先輩共演者(通称「助演」)の力を借りながら、全力投球でこなしてゆきます。みんながんばりましたので個別的な感想は控えますが、新国立劇場で勉強されコンクールにも入賞された先輩、高橋絵理さん(ソプラノ)の、格段にスケールを増した堂々たる歌唱にはびっくり。これから第一線に立たれることでしょう。

口述試験は、和気藹々の雰囲気のうちに進みました。先生方が立ててくださるので、私ものびのびと感想を伝えました。終了後、先生方が思いがけず別れを惜しんでくださったのには、感激。真紅のバラと好物のワインをいただき、記念写真を撮りました。「学生たちは幸せだったと思います」というお言葉は、一生忘れません。大学のオブリゲーションが終わるたびに前向きの解放感を感じて進んできましたが、今日はじめて、終わる寂しさを感じました。やっぱり、声楽魂になっているようです(笑)。

「涙」再考2012年01月28日 23時49分51秒

もう一度だけ、涙を話題を。仲間も読んでいますので、ご容赦ください。

昨日校庭を歩いていましたら、作曲の先生(女性)に遭遇しました。その先生は《ロ短調ミサ曲》を聴いてくださっていて、本当にすばらしかった、涙が止まらなかった、とおっしゃったのです。その表情がいちだんと輝いて美しく思えたものですから、心から言ってくださっているんだな、と、嬉しく受け止めさせていただきました。

今日カルチャーに行くと、やはり複数の人が、涙が出た、というご感想。隣の人は嗚咽していた、というお話もありました。どうやら、多くの方が涙を流してくださったようなのです。

曲は、《ロ短調ミサ曲》です。オペラでヒロインが病死するといったシチュエーションとは、違いますよね。バッハでも《マタイ》であれば、死を悼むというモチーフがあります。最後の曲は「私たちは涙を流しつつひざまずき」という歌詞になっていますので、涙も自然だと思います。でもより思索的、超越的な作品である《ロ短調ミサ曲》に対する涙というのは、質が違うように感じます。

皆さん涙を流されたところは、同じではないかと思います。最後から2曲目、加納悦子さんが歌われた〈神の小羊〉です。でもそこがあれだけすばらしかったのは、それまで25曲の積み重ねがあったからこそで、〈神の小羊〉から始まったのでは、そうはいかないでしょう。もうひとつ、「コンチェルティスト方式」の効用もあったと思うのですね。加納さんが合唱のパートリーダーとして歌われ、自ら曲の流れを体験した上で、この曲を歌われたということです。全体がここを目指して進んできたという印象は、このような演奏形態を取ったからこそ、明確なものになったのではないでしょうか。

同じことは、バスの小川哲生さんやテノールの藤井雄介さんにも言えると思います。ソリストが座って待っているお客様方式では、なかなかこういかないのではないか。言い換えれば、ソリストの方々が献身的に協力してくださって成り立ったコンサートだったということです。合唱とソロの関係の見直しを、提案したいと思います。

今週の「古楽の楽しみ」2012年01月30日 12時22分10秒

ご案内しようと思っているうちに日が経ち、もう放送が始まってしまいました。今週の月曜日から、私の担当で、「バッハとその周辺」という特集をお送りしています。

月曜日と火曜日が、偽作の特集。今朝は、第142番(作曲者不詳)、第141番(テレマン作曲)、第15番(ヨハン・ルートヴィヒ・バッハ作曲)の3つのカンタータを聴きました。第142番は学生の頃レーデルのレコード(《マニフィカト》とのカップリング)を聴き、いい曲だなあと思っていたのですが、偽作ということでその後まったく聴くことができず、ようやくCDを見つけて放送にもちこみました。素朴ながら、やはりとても美しい曲だと思いました。

第15番は、古いバッハの本では「最初のカンタータ」とされているものです。これもまったく聴く機会がありませんでしたが、今回調達。壮大な復活祭カンタータで、かなりの曲です。

31日(火)は、オルガンのプレリュードとフーガ(BWV571、576)を両枠に、第53番(ホフマン作曲?)とマニフィカト(ホフマン)、第217番(作曲者不詳)を並べました。鐘の音がじっさいに響く第53番がチャーミングですし、まず聴く機会のない第217番も、悪くないと思います。

2月1日(水)は、フリーデマン・バッハのハレ時代のカンタータ2曲を、オルガン・コラールをはさんで。思いの外立派な曲で、長男の頼りないイメージを見直します。抒情的なデュエットの美しさが、なかなか。研究上でも脚光を浴びている領域です。

2日(木)は、ちょうどマリアの浄めの祝日なので、バッハのカンタータ第82番を出し、シメオン老人の辞世のコラールに基づく作品をいくつか(ブクステフーデとクリスティアン・ヴォルフのカンタータ、バッハのオルガン曲など)を並べました。前後に抜きん出てしまったのは仕方がないですね。82番はメルテンスとクイケンのものを選びましたが、メルテンスが自分も1つの古楽器のようになり、楽器とコラボレーションをしながら歌っているさまには、たいへん感心しました。これぞ古楽です。

3日(金)は、バッハの弟子で片腕のような存在でもあったヨハン・ルートヴィヒ・クレープスのオルガン曲とトリオを特集しました。「偉大なる小川(バッハ)から採れたのは一匹の蟹(クレープス)だけだった」という、この人の才能を評価するジョークがあります。同じ曲は2回使わない、という趣旨でやっていますが、クレープスを使ったのは初めてです。

以上、よろしくお願いします。