幕を開けないで2012年08月18日 16時45分34秒

今日18日は、「たのくら」例会と、恒例の「ビヤ・パーティ」でした。ワーグナー・プロジェクトが始動したのが4月。今月のテーマは、《妖精》《恋愛禁制》《リエンツィ》の初期3作品におけるワーグナーの発展をたどることでした。このテーマでどこまで興味をもっていただけるか心配でしたが、20代のワーグナーの発展はまことに顕著かつ面白く、充実感をもってお話できました。相当準備しましたが、やはり、準備は嘘をつきませんね。来月の《オランダ人》に向けて、意欲が高まってきました。

《リエンツィ》には、ベルリン・ドイツ・オペラの2010年のライヴDVDが出ています。フィリップ・シュテルツルという人のその演出を私はとうてい受け入れられないのですが、ここでは一般論として、「序曲で幕を開け、演出を始めること」について意見を述べさせてください。

今では流行となり、当然のように行われる「序曲のステージ化」は、基本的には、やってはならないことだというのが、私の意見です。すごくうまくいって効果的な事例がいくつかあることをもちろん知ってはいますが、あらずもがなのもの、音楽を阻害するものも、看過できぬほど多い。ドイツで演奏されている方からお聞きした話があります。ある時指揮者が怒り、どうしてすぐ幕を空けてしまうのか、十分間ぐらい音楽を聴くことがなぜできないのか、と演出家に詰め寄ったとか。私は指揮者の意見にまったく同感です。序曲は、幕が上がる前に音楽を純粋に聴かせ、聴衆の脳裏に豊かなファンタジーを呼び起こすために置かれている。主役は当然、オーケストラです。

しかし最初から幕を開け、パントマイムをあれこれ行うと、聴衆の注意力は削がれ、音楽は自律性を失って「劇伴」になってしまいます。このパントマイムはどういう意味なのだろう、と考え始めることも少なくない。ベルリンの《リエンツィ》の場合、ムッソリーニを思わせる独裁者が登場して、権力への志向を高めたり、目に見えぬ不安に怯えたり、という演技を行います。聴衆の目はその新奇な身振りに吸い寄せられて、序曲はいつのまにか、それへの伴奏としか認識されなくなってしまうわけです。

《リエンツィ》というオペラは、共和制の理念を14世紀のローマに復活させようとした夢想的な革命家が、その理想主義の故に孤立し破綻するドラマを描いている。だからこその「大悲劇」で、独裁を美化したものではありません。ですから、リエンツィの理想主義を提示することが悲劇の必須の前提になるわけで、音楽にまかせておけば、序曲は、おのずからそのことを語る。しかし演出の介入によってそこを否定してしまったら、序曲が無意味になるのみならず、ワーグナー青春の長所も短所もある作品を上演することの意味も、わからなくなってしまいます。作品に敬意を払う演出家であれば、このような舞台は考えるはずがないと私は思うのですが、現実はそうではないのが残念です。