もののあはれ2013年03月04日 11時37分40秒

 週刊誌に有名人の方々がエッセイを連載しておられますが、私が常々感嘆して読んでいるのは、週刊朝日連載、内館牧子さんの「暖簾にひじ鉄」です。内容といい見識といい毎回本当にすばらしく、心温められながら拝見しています。

 先週はお節句にちなんで、童謡《うれしいひなまつり》に関するお話でした。歌詞の2番に、「お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔」というくだりがありますね。この「いらした」を、「お嫁に行かれた」ととるか「お嫁に来られた」ととるか2つの説がある、というのが、まず、目からウロコのご指摘。たしかにどちらも可能で、印象はまったく異なったものになります。後者だとすると、お姉さまの存在感が前面に出て、官女はむしろかすむようです。

 まあでも、嫁入りして離れていったお姉さまの面影を思い出してなつかしむ、という前者のとり方が、自然でしょう。エッセイでは続けて、このお姉さまが作詞者サトウハチロー自身の姉と重なり合うのではないか、という説が紹介されます。ハチローより4歳上の姉は、結核にかかり、嫁入り話が破談となったあげく、19歳で亡くなった。「お嫁にいらした姉様」というくだりは、このお姉さまが天国に嫁がれたという意味に解釈できるのではないか、というのです。そう思って聴くと、河村光陽の悲しげな旋律もいっそうぴったりとしてきこえる、という趣旨の言葉で、内館さんはエッセイを結ばれています。

 心を打たれた私は、ネットで、情報を少し検索してみました。すると、「うれしいひなまつり」はなぜ短調で作曲されているのか、という疑問が提起されており、それに対して、それぞれ一理あるいくつかの意見が投稿されていました。またWikiには、「この曲が短調なのはハチローの姉へのレクイエムだからであるとの解釈もある」という記述が見つかりました。

 私の意見。おひな様に姉との類似を発見するという作者の心の働きに、亡くなった実姉の面影が投影されているというのは、間違いないと思います。ただ「神に招かれて、天国に嫁ぐ」という意味を作者が詩に意識的に封印したかどうかは、微妙。本来は素朴に発想された詩からのちの解釈がファンタジーとともに発見しているのだ、と見る方が、おそらく自然でしょう。こうしたファンタジーを触発しうるところに、名作の証明はあります。

 「今日はたのしいひなまつり」という歌詞に対して短調のもの悲しい調べが付されるという背景にあるのは、日本人が伝統的に培ってきた「ものあはれ」の感情ではないでしょうか。「もののあはれ」は、たえず過ぎていく時間への思いと結びついています。お節句は、楽しい中に、こうした時間感情を呼び起こす。主人公が女性になると、とくにそうであるように思われます。いたいけな、たおやかな女の子のお節句に、どこか、「もののあはれ」感が投影される。今では華やかなイメージしかない「結婚」も、「嫁入り」と表現されると、「あはれ」感がにじむと思われませんか。