ドイツにお供した3冊 ― 2013年07月30日 09時28分27秒
成田空港の本屋さんで文庫本を3冊買って、飛行機に乗りました。マキアベリの『君主論』、ドストエフスキーの『貧しき人々』、猪瀬直樹さんの『唱歌誕生』です。『君主論』を読むのは初めてでたいへん興味深かったですが、猪瀬さんの本にもとても感心したので、ひとこと。
都知事の猪瀬さんに明治の音楽史に触れあう本があるとは、知りませんでした。過去にNHK出版と文春から出て、今回、中公文庫で新装発売になったもののようです。読んでみると多くの文献を用い、現地取材も行われている力作で、びっくりしました。
詩人高野辰之、音楽家岡野貞一の2人に焦点を当て、島崎藤村などもさかんに登場させながら、時代の中で唱歌がいかに生み出されたかを描いてゆく。豊富な語彙といい潤いのある文章といい、また卓越した構想力といい、作家の筆力を随所に感じさせます。個々の論点に関してはおそらく専門的な異論もあることでしょうが、その議論は学会の若い方々におまかせするとして、私はテレビの画面ではわからない猪瀬さんの奥の深さ、とりわけ感受性の豊かさに感心しました。
都知事の猪瀬さんに明治の音楽史に触れあう本があるとは、知りませんでした。過去にNHK出版と文春から出て、今回、中公文庫で新装発売になったもののようです。読んでみると多くの文献を用い、現地取材も行われている力作で、びっくりしました。
詩人高野辰之、音楽家岡野貞一の2人に焦点を当て、島崎藤村などもさかんに登場させながら、時代の中で唱歌がいかに生み出されたかを描いてゆく。豊富な語彙といい潤いのある文章といい、また卓越した構想力といい、作家の筆力を随所に感じさせます。個々の論点に関してはおそらく専門的な異論もあることでしょうが、その議論は学会の若い方々におまかせするとして、私はテレビの画面ではわからない猪瀬さんの奥の深さ、とりわけ感受性の豊かさに感心しました。
もう増えない文庫本 ― 2013年05月26日 09時27分03秒
高峰秀子さんの『にんげんのおへそ』(新潮文庫)を読みました。力作揃いの13篇。『にんげん蚤の市』『にんげん住所録』はすでに読みましたので、これで高峰さんの晩年のエッセイはすべて読んだことになったようです。ちょっと残念。
巻末に、養女斎藤明美さんのあとがきが載っていました。それによると、晩年のエッセイは、もう書くことがないと固辞する高峰さんを『オール讀物』三代の編集長と斎藤さんが三顧の礼でくどき続け、「いつでも、何枚でも」と粘って、少しずつ出来上がったものなのだそうです。その重荷から最後に解放されたのが、78歳の時だということでした。
涙が出るようなお話です。こうしたプロセス自体は、高峰さんの原稿の価値をみんながいかに高く評価していたかを物語っているわけですが、ファンの気持ちからすれば、近況や世相雑感を少しずつ読めるだけで、十分であったと思う。しかしそれでは、ご本人が満足しないわけですね。書く以上は、長さも起伏もある密度高いエッセイを完成しないと自分が承知できないという現実のもとに、本数が少しずつ減っていったのでしょう。
本屋の棚になお並んでいるもう増えない文庫本を眺めるたびに、すごい方だったんだなあ、という気持ちになります。
巻末に、養女斎藤明美さんのあとがきが載っていました。それによると、晩年のエッセイは、もう書くことがないと固辞する高峰さんを『オール讀物』三代の編集長と斎藤さんが三顧の礼でくどき続け、「いつでも、何枚でも」と粘って、少しずつ出来上がったものなのだそうです。その重荷から最後に解放されたのが、78歳の時だということでした。
涙が出るようなお話です。こうしたプロセス自体は、高峰さんの原稿の価値をみんながいかに高く評価していたかを物語っているわけですが、ファンの気持ちからすれば、近況や世相雑感を少しずつ読めるだけで、十分であったと思う。しかしそれでは、ご本人が満足しないわけですね。書く以上は、長さも起伏もある密度高いエッセイを完成しないと自分が承知できないという現実のもとに、本数が少しずつ減っていったのでしょう。
本屋の棚になお並んでいるもう増えない文庫本を眺めるたびに、すごい方だったんだなあ、という気持ちになります。
天才論 ― 2013年05月05日 08時44分41秒
車中よく読むもののひとつが、将棋の本。最近面白かったのは、加藤一二三九段による『羽生善治論~「天才」とは何か』(角川oneテーマ21)です。
オビに「天才が天才を語る」とあるのは、加藤九段が十代の頃、「神武以来の天才」と言われていたから。天真爛漫、将棋のことになると脇目もふらず、という感じでファンが多い棋士ですが、羽生さんへの分析が多角的で鋭いのには感心しました。他の同業者に対しても好悪の隔てなく温かい論評をされていて、なかなかできることではないと思います。
そもそも天才論は、美学のテーマのひとつ。作曲と将棋は頭の使い方において似たところがありますので、音楽における才能を考える上でも参考になります。いろいろな切り口のひとつに「好戦的」というのが挙げられていたのには、意表を突かれました。羽生さんの将棋は駒のやりとりが多く、チャンスがあればすかさず打って出てくる、というのです。なるほどねえ。
私も羽生さん好きですが、二大タイトル(竜王戦、名人戦)に分の悪い強者がいるので、これからが心配です。目下進行中の名人戦でも、森内名人に第1局、第2局と横綱相撲を取られ、なすすべなし、という感じなのです。連休明けの9日、10日が第3局です。
オビに「天才が天才を語る」とあるのは、加藤九段が十代の頃、「神武以来の天才」と言われていたから。天真爛漫、将棋のことになると脇目もふらず、という感じでファンが多い棋士ですが、羽生さんへの分析が多角的で鋭いのには感心しました。他の同業者に対しても好悪の隔てなく温かい論評をされていて、なかなかできることではないと思います。
そもそも天才論は、美学のテーマのひとつ。作曲と将棋は頭の使い方において似たところがありますので、音楽における才能を考える上でも参考になります。いろいろな切り口のひとつに「好戦的」というのが挙げられていたのには、意表を突かれました。羽生さんの将棋は駒のやりとりが多く、チャンスがあればすかさず打って出てくる、というのです。なるほどねえ。
私も羽生さん好きですが、二大タイトル(竜王戦、名人戦)に分の悪い強者がいるので、これからが心配です。目下進行中の名人戦でも、森内名人に第1局、第2局と横綱相撲を取られ、なすすべなし、という感じなのです。連休明けの9日、10日が第3局です。
死との向き合い ― 2013年04月26日 05時00分41秒
高峰秀子さんの本、今度は『にんげん住所録』(文春文庫)を読みました。平成10年から12年、70代半ばに書かれたエッセイが集められています。必然的に、老いがテーマの中心になっている。
老化して気息奄々、という趣旨の文章がさかんに出てきます。ところが、文章には持ち前の気っぷの良さが相変わらず躍動していて、老け込んだところがまったくない。達意の文章を書く人はそういうものなのか、彼女のエネルギーが特別なのか、どうなんでしょうね。
最後に「私の死亡記事」という欄があるのにはびっくりしました。想定される新聞記事を先取りして、簡潔に、クールに書いておられます。
私が思ったのは、こういう記事を書かしめるメンタリティはどんなものだろう、ということです。自分を突き放す豪毅な方ならではのユーモア、という解釈はもちろんありますね。それが基本です。私は豪毅ではないが、この手の冗談は好きな方です。
しかし、逆の解釈もあるように思えるのです。自分にそれを言い聞かせ、気持ちを備えるための一種の念仏、ないし祈り、というような。そこを突っ込めば、あくなき生への意志の逆説的な表現と見られるかもしれません。両面ある、という見方も成り立つことでしょう。
故人の心境を忖度するのも申し訳ないですが、私には、高峰さんのご逝去が、あらためて大きなことに思えてきました。強烈な人生を生きた、本当に偉大な方だったと思います。
老化して気息奄々、という趣旨の文章がさかんに出てきます。ところが、文章には持ち前の気っぷの良さが相変わらず躍動していて、老け込んだところがまったくない。達意の文章を書く人はそういうものなのか、彼女のエネルギーが特別なのか、どうなんでしょうね。
最後に「私の死亡記事」という欄があるのにはびっくりしました。想定される新聞記事を先取りして、簡潔に、クールに書いておられます。
私が思ったのは、こういう記事を書かしめるメンタリティはどんなものだろう、ということです。自分を突き放す豪毅な方ならではのユーモア、という解釈はもちろんありますね。それが基本です。私は豪毅ではないが、この手の冗談は好きな方です。
しかし、逆の解釈もあるように思えるのです。自分にそれを言い聞かせ、気持ちを備えるための一種の念仏、ないし祈り、というような。そこを突っ込めば、あくなき生への意志の逆説的な表現と見られるかもしれません。両面ある、という見方も成り立つことでしょう。
故人の心境を忖度するのも申し訳ないですが、私には、高峰さんのご逝去が、あらためて大きなことに思えてきました。強烈な人生を生きた、本当に偉大な方だったと思います。
明暗 ― 2013年04月13日 23時55分11秒
古典をなるべく読もうと決心した流れで、夏目漱石の『明暗』を読んでみました。漱石は明治の人、という印象ですが、世代的にはマーラーよりちょっと後ぐらいになるのですね。文豪の誉れ高い漱石。でも私は、若い頃からなんとなく苦手に思っていました。久々の挑戦で自分がどう思うか、興味がありました。
最初は、別世界に触れるようで、とても苦痛。新聞小説のため区切りが短く、それを救いとして読み進めました。慣れるにつれて面白くなり、非凡さを実感。文章は用語法に古さを感じますが、会話はいまとそう変わりませんね。面白さは何より、心理描写、心理分析の徹底にあります。しかし妙に入り組んでインテリじみていて、さして共感は覚えません。このへんは、もちろん好みの問題です。
最後の小説で未完といえば、最前、カフカの『城』を読んだばかり。未完の作品が読まれ続けるというのも、興味深い現象です。音楽には補筆完成という手がありますが、小説ではそれができませんものね。読了後不完全燃焼のまま漱石の生涯をたどってみたら、胃潰瘍で何度も倒れる人生であったことを知りました。ここに至り、ようやく親近感が湧いてきました。もっとも私は十二指腸潰瘍で、現代医学の恩恵を受けられたわけですが。
〔付記〕水村美苗さんという方が続編を書き、賞も取っておられるのですね。知りませんでした。
最初は、別世界に触れるようで、とても苦痛。新聞小説のため区切りが短く、それを救いとして読み進めました。慣れるにつれて面白くなり、非凡さを実感。文章は用語法に古さを感じますが、会話はいまとそう変わりませんね。面白さは何より、心理描写、心理分析の徹底にあります。しかし妙に入り組んでインテリじみていて、さして共感は覚えません。このへんは、もちろん好みの問題です。
最後の小説で未完といえば、最前、カフカの『城』を読んだばかり。未完の作品が読まれ続けるというのも、興味深い現象です。音楽には補筆完成という手がありますが、小説ではそれができませんものね。読了後不完全燃焼のまま漱石の生涯をたどってみたら、胃潰瘍で何度も倒れる人生であったことを知りました。ここに至り、ようやく親近感が湧いてきました。もっとも私は十二指腸潰瘍で、現代医学の恩恵を受けられたわけですが。
〔付記〕水村美苗さんという方が続編を書き、賞も取っておられるのですね。知りませんでした。
凄い自伝 ― 2013年03月29日 11時20分40秒
東奔西走にお供していた高峰秀子さんの自伝『わたしの渡世日記』(上・下、文春文庫)、読み終わりました。かつて週刊朝日に連載されたもので、誕生から子役時代、女優時代の1年1年が、克明に追想されています。
高峰さんは自伝を書くにあたり、自分のすべてをさらけ出そう、と決心されたのでしょうね。その勇気に、まず驚きます。ふつう自伝を書くとなると、ある程度までで歯止めをかけ、マイルドにまとめると思う。それだって、私など、恐ろしくてできません。ところが高峰さんは事実を赤裸々に述べ、人間関係やその愛憎を率直に綴って、美化しないのです。連載が昭和50-51年ですから、当時は今読むほど「時効」という感じはなかったのではないかと思われます。
それだけのことはあり、読み進めるにつれて、高峰秀子さんという方がいかに真剣に、本質を見据えて生きた方かということが鮮明に印象づけられ、その人間性に呪縛されてしまいます。とりわけ、ご自身の人生設計によって実現した結婚のくだりは感動的。昭和史のおさらいにもなりますので、一読をお勧めします。
映画を見る習慣のない私ですが、高峰さんの出演された映画をひとつひとつ鑑賞したくなってきました。本当は映画館で見るのがいいのでしょうね。たくさんの映画とこれだけの自伝を残された高峰さん、文字通り「不滅」の存在になられたと思います。
高峰さんは自伝を書くにあたり、自分のすべてをさらけ出そう、と決心されたのでしょうね。その勇気に、まず驚きます。ふつう自伝を書くとなると、ある程度までで歯止めをかけ、マイルドにまとめると思う。それだって、私など、恐ろしくてできません。ところが高峰さんは事実を赤裸々に述べ、人間関係やその愛憎を率直に綴って、美化しないのです。連載が昭和50-51年ですから、当時は今読むほど「時効」という感じはなかったのではないかと思われます。
それだけのことはあり、読み進めるにつれて、高峰秀子さんという方がいかに真剣に、本質を見据えて生きた方かということが鮮明に印象づけられ、その人間性に呪縛されてしまいます。とりわけ、ご自身の人生設計によって実現した結婚のくだりは感動的。昭和史のおさらいにもなりますので、一読をお勧めします。
映画を見る習慣のない私ですが、高峰さんの出演された映画をひとつひとつ鑑賞したくなってきました。本当は映画館で見るのがいいのでしょうね。たくさんの映画とこれだけの自伝を残された高峰さん、文字通り「不滅」の存在になられたと思います。
天平の甍 ― 2013年03月18日 22時39分50秒
高峰秀子さんのことを書いて幾日もしないうちに、未発表エッセイが発見されたというニュースが新聞に載りました。紀行文だとか。ぜひ読みたいと思いますが、それが故人の遺志に反しないことを願います。高峰エッセイ、目下は『わたしの渡世日記』に挑戦しています。
書店の棚を見渡すと、いわゆる流行作家のものがかなりのスペースを占めています。棚を占拠するような人の本は読んでおかないと、という気持ちがこれまではあったのですが、もうこの齢になったら自分の心に触れる本だけを読めばいいのだと、ようやく思うに至りました。日常会話が延々と続くような小説はやめよう!ということです。そうなると、細々と売られ続けている古典に、目が向きます。
井上靖の『天平の甍』。高名な作品ですが、初めて読みました。いいですね、心が澄み渡ります。遣唐使と共に中国に渡り、鑑真の来朝を実現する仏教僧たちの営々たる努力が綴られているわけですが、国がこれからという時代に、勉強に生涯を捧げる人たちの生きざまは、崇高そのもの。豊かな現代との落差を感じるにつけ、こういうことを文学の形で伝えてゆくことの価値を思います。
書店の棚を見渡すと、いわゆる流行作家のものがかなりのスペースを占めています。棚を占拠するような人の本は読んでおかないと、という気持ちがこれまではあったのですが、もうこの齢になったら自分の心に触れる本だけを読めばいいのだと、ようやく思うに至りました。日常会話が延々と続くような小説はやめよう!ということです。そうなると、細々と売られ続けている古典に、目が向きます。
井上靖の『天平の甍』。高名な作品ですが、初めて読みました。いいですね、心が澄み渡ります。遣唐使と共に中国に渡り、鑑真の来朝を実現する仏教僧たちの営々たる努力が綴られているわけですが、国がこれからという時代に、勉強に生涯を捧げる人たちの生きざまは、崇高そのもの。豊かな現代との落差を感じるにつけ、こういうことを文学の形で伝えてゆくことの価値を思います。
高峰秀子さん ― 2013年03月12日 23時35分38秒
お若い方たちは、もう高峰秀子さんと言っても、ご存じないかもしれませんね。昭和の大女優で、『二十四の瞳』で長く記憶される美女。私の印象にある映画は、『喜びも悲しみも幾年月』です。といっても、とくにファンだったわけではありません。
地方都市の小さな本屋さんに、文庫を1冊買おうと思って入りました。目の前に高峰さんの新潮文庫が3種あり、『にんげん蚤の市』というのを買ってみました。ほんの出来心です。
いや驚きましたね。こんなに優秀なエッセイストであったとは。流れるような文章、横溢するユーモア、きりりとした気っぷの良さ、辛口の突っ込み。ぐいぐいと読んでしまいました。亡くなった方とこのように出会えるのも、本の楽しみです。
地方都市の小さな本屋さんに、文庫を1冊買おうと思って入りました。目の前に高峰さんの新潮文庫が3種あり、『にんげん蚤の市』というのを買ってみました。ほんの出来心です。
いや驚きましたね。こんなに優秀なエッセイストであったとは。流れるような文章、横溢するユーモア、きりりとした気っぷの良さ、辛口の突っ込み。ぐいぐいと読んでしまいました。亡くなった方とこのように出会えるのも、本の楽しみです。
もののあはれ ― 2013年03月04日 11時37分40秒
週刊誌に有名人の方々がエッセイを連載しておられますが、私が常々感嘆して読んでいるのは、週刊朝日連載、内館牧子さんの「暖簾にひじ鉄」です。内容といい見識といい毎回本当にすばらしく、心温められながら拝見しています。
先週はお節句にちなんで、童謡《うれしいひなまつり》に関するお話でした。歌詞の2番に、「お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔」というくだりがありますね。この「いらした」を、「お嫁に行かれた」ととるか「お嫁に来られた」ととるか2つの説がある、というのが、まず、目からウロコのご指摘。たしかにどちらも可能で、印象はまったく異なったものになります。後者だとすると、お姉さまの存在感が前面に出て、官女はむしろかすむようです。
まあでも、嫁入りして離れていったお姉さまの面影を思い出してなつかしむ、という前者のとり方が、自然でしょう。エッセイでは続けて、このお姉さまが作詞者サトウハチロー自身の姉と重なり合うのではないか、という説が紹介されます。ハチローより4歳上の姉は、結核にかかり、嫁入り話が破談となったあげく、19歳で亡くなった。「お嫁にいらした姉様」というくだりは、このお姉さまが天国に嫁がれたという意味に解釈できるのではないか、というのです。そう思って聴くと、河村光陽の悲しげな旋律もいっそうぴったりとしてきこえる、という趣旨の言葉で、内館さんはエッセイを結ばれています。
心を打たれた私は、ネットで、情報を少し検索してみました。すると、「うれしいひなまつり」はなぜ短調で作曲されているのか、という疑問が提起されており、それに対して、それぞれ一理あるいくつかの意見が投稿されていました。またWikiには、「この曲が短調なのはハチローの姉へのレクイエムだからであるとの解釈もある」という記述が見つかりました。
私の意見。おひな様に姉との類似を発見するという作者の心の働きに、亡くなった実姉の面影が投影されているというのは、間違いないと思います。ただ「神に招かれて、天国に嫁ぐ」という意味を作者が詩に意識的に封印したかどうかは、微妙。本来は素朴に発想された詩からのちの解釈がファンタジーとともに発見しているのだ、と見る方が、おそらく自然でしょう。こうしたファンタジーを触発しうるところに、名作の証明はあります。
「今日はたのしいひなまつり」という歌詞に対して短調のもの悲しい調べが付されるという背景にあるのは、日本人が伝統的に培ってきた「ものあはれ」の感情ではないでしょうか。「もののあはれ」は、たえず過ぎていく時間への思いと結びついています。お節句は、楽しい中に、こうした時間感情を呼び起こす。主人公が女性になると、とくにそうであるように思われます。いたいけな、たおやかな女の子のお節句に、どこか、「もののあはれ」感が投影される。今では華やかなイメージしかない「結婚」も、「嫁入り」と表現されると、「あはれ」感がにじむと思われませんか。
先週はお節句にちなんで、童謡《うれしいひなまつり》に関するお話でした。歌詞の2番に、「お嫁にいらした姉様に よく似た官女の白い顔」というくだりがありますね。この「いらした」を、「お嫁に行かれた」ととるか「お嫁に来られた」ととるか2つの説がある、というのが、まず、目からウロコのご指摘。たしかにどちらも可能で、印象はまったく異なったものになります。後者だとすると、お姉さまの存在感が前面に出て、官女はむしろかすむようです。
まあでも、嫁入りして離れていったお姉さまの面影を思い出してなつかしむ、という前者のとり方が、自然でしょう。エッセイでは続けて、このお姉さまが作詞者サトウハチロー自身の姉と重なり合うのではないか、という説が紹介されます。ハチローより4歳上の姉は、結核にかかり、嫁入り話が破談となったあげく、19歳で亡くなった。「お嫁にいらした姉様」というくだりは、このお姉さまが天国に嫁がれたという意味に解釈できるのではないか、というのです。そう思って聴くと、河村光陽の悲しげな旋律もいっそうぴったりとしてきこえる、という趣旨の言葉で、内館さんはエッセイを結ばれています。
心を打たれた私は、ネットで、情報を少し検索してみました。すると、「うれしいひなまつり」はなぜ短調で作曲されているのか、という疑問が提起されており、それに対して、それぞれ一理あるいくつかの意見が投稿されていました。またWikiには、「この曲が短調なのはハチローの姉へのレクイエムだからであるとの解釈もある」という記述が見つかりました。
私の意見。おひな様に姉との類似を発見するという作者の心の働きに、亡くなった実姉の面影が投影されているというのは、間違いないと思います。ただ「神に招かれて、天国に嫁ぐ」という意味を作者が詩に意識的に封印したかどうかは、微妙。本来は素朴に発想された詩からのちの解釈がファンタジーとともに発見しているのだ、と見る方が、おそらく自然でしょう。こうしたファンタジーを触発しうるところに、名作の証明はあります。
「今日はたのしいひなまつり」という歌詞に対して短調のもの悲しい調べが付されるという背景にあるのは、日本人が伝統的に培ってきた「ものあはれ」の感情ではないでしょうか。「もののあはれ」は、たえず過ぎていく時間への思いと結びついています。お節句は、楽しい中に、こうした時間感情を呼び起こす。主人公が女性になると、とくにそうであるように思われます。いたいけな、たおやかな女の子のお節句に、どこか、「もののあはれ」感が投影される。今では華やかなイメージしかない「結婚」も、「嫁入り」と表現されると、「あはれ」感がにじむと思われませんか。
オチが淡泊と思ったら・・ ― 2013年02月16日 08時11分39秒
平素、読み物はほとんど文庫本を買っている私ですが、宮崎旅行にあたっては読む時間が多くなると考え、分厚い単行本を買いました。久しぶりに宮部みゆきで、『ソロモンの偽証』です。タイトルに惹かれた面が多分にありますが、自分が女性作家ばかり読んでいることに、自分で驚きます。
ディテールが愛嬌豊かにふくらんでいくのが宮部さんの特徴。それは出来事のめぐりを遅くする場合があり、今回も最初、その感なしとしませんでした。しかしひととおり布石を打ち終わって、それらが、すなわち一連の登場人物かみ合って回転し始めると、怒濤のような迫力。舞台が学校で感情移入しやすいということもあり、文字通り、読みふけってしまいました。
741ページもある大著。謎が次々に解き明かされるのを期待して最後を読みましたが、案外淡泊です。あのことはどうなったんだ、この人のことは書いていないな、などと、思いが残ってしまう。でも全部説明しないでそれを読者の心の中に残しておくのもスマートなのかな、と思ってふと気がつくと、「第一部 事件」となっているではありませんか!空恐ろしいほどの大きな構想があるようです。次が待ち遠しい。
ディテールが愛嬌豊かにふくらんでいくのが宮部さんの特徴。それは出来事のめぐりを遅くする場合があり、今回も最初、その感なしとしませんでした。しかしひととおり布石を打ち終わって、それらが、すなわち一連の登場人物かみ合って回転し始めると、怒濤のような迫力。舞台が学校で感情移入しやすいということもあり、文字通り、読みふけってしまいました。
741ページもある大著。謎が次々に解き明かされるのを期待して最後を読みましたが、案外淡泊です。あのことはどうなったんだ、この人のことは書いていないな、などと、思いが残ってしまう。でも全部説明しないでそれを読者の心の中に残しておくのもスマートなのかな、と思ってふと気がつくと、「第一部 事件」となっているではありませんか!空恐ろしいほどの大きな構想があるようです。次が待ち遠しい。
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