ドイツ旅行記2013(11)--なつかしのヴォルフェンビュッテル2013年07月01日 23時50分39秒

訪れたとき、ドイツは猛暑でした。ライプツィヒが、35度。湿度が低いから、夕方になると涼しくなると思っていると、そうではないのですね。午後4時でも太陽は高く、カンカン照り。夕方5時から6時にかけて、最高気温になるのだそうです。知りませんでした。

ところが、途中から一変して、寒風吹きすさぶ世界に。私は気温の変化に強いのですが、敏感な人だったら、たいへんだったろうと思います。ライプツィヒからブラウンシュヴァイクを経て、なつかしのヴォルフェンビュッテルに到着しました。


20年前、私はここに通って、著作『マタイ受難曲』のために、バッハ時代の神学書を研究しました。久しぶりに降り立つヴォルフェンビュッテルは、駅の南側が開発されたほかは昔のまま、清潔な町並みです。この日は閲覧手続きと資料の予約をし、昔泊まったホテル「バイエリッシャーホーフ」で、夕食を摂りました。ウェイターさんが昔世話してくださった方とよく似ているので「お父さんですか」と訊いてみると、自分のではなく受付にいた女性のパパであるとのこと。20年の歳月を噛み締めながらの食事となりました。


 翌25日(火)は、朝からアウグスト大公図書館(上)で、17世紀神学書の研究。いちいち昔を思い出しますが、バッハの歌詞に慣れたためか、読むのはずっとはかどります。パソコンが持ち込めるので、重要なテキストの抜き書きに没頭しました。こういう研究をする人はあまり多くないようで、とても丁寧に対応していただきました。特別な発見をしたわけではありませんが、多くを学ぶことができました。

 勉強を一区切りした夕方、ゴスラーに足を伸ばしてみました。ブラウンシュヴァイクを出てヴォルフェンビュッテルで下車する列車は、ゴスラーまで行くのです。それで気になっていました。ゴスラーは、ハルツ地方の中心地。行ってみると、想像を超えていいところでした。中世以来の歴史的な建造物がたくさんある上、町並みが軽井沢風に洒落ているのです。ドイツ旅行の穴場として、お勧めします。






ドイツ旅行記2013(10)--バッハ祭終わる2013年06月30日 23時38分10秒

 クラインチョッハーから戻った私は、クロージング・コンサートの曲目である《ロ短調ミサ曲》の解説を行った後、ヴォルフ先生と面談。広報として大活躍しておられる高野明夫さんも同席されました。ヴォルフ先生は、大阪のオルガン・シリーズが好調であること、《ロ短調ミサ曲》の訳書が重版になったことをとても喜ばれました。バッハ祭の仕切りは今年が最後だそうですが、まれに見る盛り上がりになったのはなによりでした。

 トリの出演者は、ゲオルク・クリストフ・ビラー指揮の、聖トーマス教会合唱団とフライブルク・バロック・オーケストラ。トーマス教会は、2階席で聴くと演奏者を(巨大な柱に邪魔されながらも)見ることができますが、1階席は祭壇に相対して(ないし直角に)座り、背後から降ってくる音を聴くことになります。でもこれが教会本来の鑑賞法で、なかなかいいのです。耳から集中する鑑賞法を、教会の音響効果の良さが助けてくれます。この日は、この形で鑑賞しました。

 ただ、演奏が・・。悪いことは書きたくないのですが、ここまで克明に書いてきているので、最低限、書かせていただきます。私には、この演奏が何をやろうとしているのか、わかりませんでした。いくら聴いてもそうで、耳あたりのよい響きが起伏も緊張もなく、淡々と重ねられていくだけでした。子供たちはむずかしい曲をしっかり歌っていたと思いますが、バッハの後継者であり、世界で本場を標榜する演奏を展開している人が、バッハが精魂傾けたこの曲にこの演奏、というのは納得できません。じつにすばらしい今年のフェストだっただけに、残念な締めとなりました。

 24日(月)。空港で、すっかり仲良くなったツアーの方々とお別れ。朝日サンツアーズの旅行、とても良かったですよ。チケットもすべていい席で取れていましたし(私も参加してくじ引きしていました)、添乗員さんも献身的。海外旅行のさいには、候補にお加えください。

 トランクを空港に預けた私は、フリーの単独行に入りました。最初の目的地は、ヴォルフェンビュッテル。当地のアウグスト大公図書館で、神学書を勉強するためです。

ドイツ旅行記2013(9)--農民カンタータの上演跡2013年06月29日 12時42分05秒

23日(日)。ライプツィヒ・バッハ祭の最終日です。バッハの足跡探索、事前解説のおりにあれこれと報告していましたら、お仲間の中に、行きたい、という人が出て来ました。そこで「農民カンタータを初演したクラインチョッハーの荘園」という形でご案内し、9名の探検隊が出発。引率者になり、気持ちが引き締まりました。

駅前から、路面電車の3番に乗り、20分ほどで、現地着(ペッツォルトの『バッハの街』インフォーメーションの項に4番とありますのでご注意を)。市街地郊外の閑散としたあたりを少し歩くと、不釣り合いに大きな教会が出現しました。バッハ時代の後に建てられたものです。ちょうど礼拝が始まるところだったので、案内されるままに、中へ。楽譜が配布され、オルガニストと、3人の女性奏者(フルート、オーボエ、ファ
ゴット)が演奏の用意をしています。

礼拝は瞑想と歌唱を基本にしたもので、地域の女性たちが自主的に運営しているように思われました。ひとつの聖歌を何度も繰り返して歌ってゆくのですが、そこに楽器が入ってくると一種エキゾチックな効果がして、不思議な雰囲気。時代に合わせての平明な感覚を取り入れた、なかなか好ましい礼拝でした。

ペッツォルトの本には「屋敷と庭園は常時公開。教会の見学は要予約」とあります(本文ではなくインフォーメーションの項)。教会の見学が首尾よくできましたので、礼拝を途中で抜けさせていただき、屋敷を探しました。いかにも穏やかな老夫婦が歩いていたので尋ねてみると、大戦中爆弾が近くに落ち、屋敷が飛ばされてしまって残念だ、とのこと。プレートだけ が、ひっそりと佇んでいました。バッハは1742年に、新しい荘園領主フォン・ディースカウの着任を祝って、例のカンタータを捧げたのです。当地の徴税責任者 だったピカンダーの、自虐的なテキストが愉快です。


老夫婦は今日が結婚60週年だそうで、ほのぼのムード。遺された公園はすばらしいもので、古い巨木が美しい枝葉を茂らせていました。散策しながらふと振り向くと、教会が立派な姿を見せています。


近くに、これまた唐突に思えるほど立派なホテル兼イタリア・レストランがあり、そこで昼食をすることに。店名が「ドン・ジョヴァンニ」で、仕切っているお兄さんが精力絶倫のイメージとはできすぎです。そこでも老夫婦に遭遇しました。

というわけで、意外性のある、とても楽しい遠足でした。著名な観光地を外れたところに、地域の良さはあるものです。




ドイツ旅行記2013(8)--真髄の演奏方式2013年06月28日 15時29分12秒

22日(土)の昼間は、ツアーの企画で、ケーテンとハレへ。この地域には水害の後遺症が残っていました。ドイツは全土が平坦なので、上流から来た水がどこかで溢れると、引いて行かない。そのため、今年のヘンデル音楽祭も中止になったと伺いました。

ハレ聖母教会のオルガンと対面し、このオルガンならばバッハも食指が動いただろうなあと思いましたが、それよりも、その夜のコンサートのことを語りましょう。ガーディナーとモンテヴェルディ合唱団、イングリッシュ・バロック・ソロイスツが聖ニコライ教会に出演し、《復活祭オラトリオ》と《昇天祭オラトリオ》で、またまた圧巻の演奏を聴かせたからです。その驚くべき躍動感に、一同感激。学ぶこと、教えられることが、いくつもあります。

この日もソリストはモリソン、グレイブル、マルロイ、ハーヴィーで、合唱から出る形が守られていました。いずれもが一流のレベルをもち、音楽の方向性を体現していることは先に述べた通りですが、何よりもみな、音程がいい。速いパッセージになるところでも細部までピタリと決まっていて、よくここまで訓練できるなあ、と思うほどです。そういう人の集団ですから、人数の何倍かハーモニーが充実し、すみずみまで明晰な演奏が可能になります。

キャリアを見ると、それぞれ、かなりのもの。モリソンなど、外見も魅力的で、すぐにでも花形になり得る人です。そういう人が、モンテヴェルディ合唱団に入る道を選ぶ。皆自信満々で、喜びにあふれて歌っている、という感じを受けます。オーケストラも同様です。

つまり、ガーディナーの指揮はすばらしい統率力をもっているのだが、それは演奏者を抑圧したり萎縮させたりするものではみじんもなく、スピリットを吹きこむことで全軍躍動の形をもたらすものだ、ということです。本当に稀有のことで、これこそが指揮です。

私はかねてから、バッハの声楽曲演奏におけるコンチェルティスト方式の利点を説いてきました。その点でひとつの理想的な形が、この夜の演奏に実現されていました。声楽家の方にも、ぜひ知っていただきたいと思います。

招かれたソリストが合唱曲を一緒に歌う姿は、最近よく見るようになりました。しかし、参加してはいるが形作り、と思えるケースもよくあります。ソロの演奏に差し障らないように、ということだと思いますが、ソリストに対するこうした要請は、合唱曲を充実させるためではありません。それは、合唱曲とソロ曲に関連をもたらし、メッセージの一貫性を演奏に付与することを、真の目的にしています。ですから、合唱曲に主体的に参与することは、問題意識を体に感じながらソロに入ることになるので、ソロの演奏をいちだんと充実させる可能性があると、私は考えます。

バスのピーター・ハーヴィー。彼は唯一団員ではないソリストなのですが、闘志満々でほとばしるように合唱を歌い、バス・パートを引っ張っていました。これこそがコンチェルティストの姿で、まさに、我が意を得た思いでした。

昇天祭オラトリオの合唱曲とコラールがアンコールされ、熱狂は頂点に。同席した富田庸先生も、ニコライ教会でこの10年間に響いた最高の演奏だと、心からの賛辞を呈しておられました。

ドイツ旅行記2013(7)--そう、言葉です!2013年06月27日 13時24分04秒

21日、ツァイツから帰って臨んだコンサートは、ヘルマン・マックス指揮のライニッシェ・カントライ、ダス・クライネ・コンツェルトによるもの、曲はバッハのカンタータ第67番《イエスの復活を記憶にとどめよ》と、エマヌエル・バッハのオラトリオ《イエスの復活と昇天》でした。

今回の旅は「朝日サンツアーズ」というグループに属しているのですが、コンサート前にはいつも私が解説をしようということで、事前に曲ごとの情報を用意しました。1曲A41枚、大曲の場合は2枚を基本とし、中の曲は、編成や内容をそれぞれ1行にまとめて、進行を追えるようにしました。1行情報は使いやすかったようなので、今後の方針にしたいと思います(私にもいい予習になります)。

この日のコンサートに興味があったのは、私が放送用のCD収集の段階で彼らの演奏に再三接し、また使ってきたから。とにかく、珍しい曲や発掘された曲をどんどん録音するという、好奇心にあふれたアンサンブルなのです。それへの評価か、マックスはバッハ・メダルを受賞しています(今年はペーター・シュライヤーが受賞しました)。

合唱団は1977年の設立、オーケストラは1981年からだそうなので、キャリアはもう長いのですね。この日の合唱は12人という編成でした。ニコライ教会では祭壇側にしつらえられた演奏者席と向い合って聴くことになりますが、響きが拡散して、やるにも聴くにも、むずかしい会場です。そのためか、バッハのカンタータは、どこか浮ついた感じのまま進行してしまいました。しかし、エマヌエル・バッハは、とても良かった。現代の音楽現象である古楽アンサンブルの、いいレベルを見せてもらった、という感じです。

3つの長所を挙げておきましょう。第一に、言葉がとても大切にされていたこと。ヴェロニカ・ヴィンター(S)、マーゴット・オイツィンガー(A、バッハのみ) ゲオルク・ポプルッツ(T)、マッティアス・フィーヴェク(B)というソリストは、まだ有名ではありません。しかし皆、言葉を意味深く、美しく伝えることに精魂傾けており、それによって、エマヌエル・バッハの音楽をとてもよく引き立てていました。そう、このように言葉が生きていて、音楽を牽引するのがいいのです。「歌詞をつけて歌っている」のでは、こうはなりません。

第二に、合唱もオーケストラも全員が、見るからに楽しそうに演奏していたこと。こちらまで楽しくなりました。第三に、器楽の水準がなかなか高く、トランペットが柔らかく協和するさまはたいしたものだったこと。ちなみに「ダス・クライネ・コンツェルト」(小演奏会)というネーミングは、バッハの晩年に開始されメンデルスゾーンらによって営まれた「大演奏会」(ダス・グローセ・コンツェルト)から取られたそうです。指揮者のマックスからカリスマ性はとくに感じませんでしたが、こうしたもろもろのまとめに手腕があるということでしょう。

実演を楽しみましたので、これからは、愛をもって彼らのCDを流せそうです。

ドイツ旅行記2013(6)--マクダレーナの生家を訪ねる2013年06月26日 11時43分13秒

21日(金)は、昼の時間を利用して、ツァイツを訪れました。バッハの妻、アンナ・マクダレーナが、ここで生まれたのです。

バッハの時代に、ここはザクセン=ツァイツ公国の宮廷所在地でした。ザクセン公国特有の分割相続によって生まれた小国のひとつです。しかしそれなりの宮廷生活を営み、音楽にも力を入れていました。そこでトランペット奏者を務めていたヴィルケが、アンナ・マクダレーナの父に当たります。1718年、相続者が途絶え宮廷がザクセン選帝侯国に編入されたのを機に、ヴィルケ家はヴァイセンフェルスに移りますが、1701年生まれのマクダレーナは、ツァイツですでに、美声のソプラノ歌手に成長していたはずです。

ライプツィヒから南西の方角へ、ローカル電車に乗ります。昨年ヴィーデラウ訪問で泊まったペーガウを過ぎ、40分ほどで、ツァイツに到着しました。いかにも旧東という寂しいところで、行き交う人もまれ。それでも旧市街の中心へと坂を上がると、マクダレーナが受洗したとされる聖ミヒャエル教会を発見しました。



市庁舎、フランシスコ教会をめぐり、モーリツブルク宮殿へ降りてゆく道筋に、生家跡はありました。すでに建て替えられてプレートがあるのみですが、なんとなく甘美な思いが、心に湧きました。左側の白い建物です。



バッハもこの町とは関係をもっており、1736年に当地の宮廷が出版した《シェメッリ歌曲集》の編纂に協力しています。坂を下り、モーリツブルクという往時の宮殿と対面して、ようやく、昔日の繁栄に触れることができました。オルガンを2台備えた聖ペテロ・パウロ教会が併設されています。中庭に意外に立派なレストランがあり、人待ち顔でしたので、季節の終わりを迎えている白アスパラガスを食べました。食べる途中の写真ですみません。「黒ヴァイツェン」ビールとの相性が抜群でした。


その後ネットで知りましたが、この町は鳥栖市と姉妹都市の関係にあるそうです。

ドイツ旅行記2013(5)--ガーディナー、雷雨の中の大演奏2013年06月25日 15時45分56秒

ドイツは酷暑続きで、ライプツィヒ入りした20日(木)が、35度。ところが、8時からの開演に備えて支度している頃、雷雨になったのです。バケツをひっくり返したような、猛烈な雨。聖トーマス教会はホテルから数分のところにあるのですが、皆様服装を整えて、決死の出発となりました。

会場に入っても、雷鳴が轟いています。そこで思ったのは、こうした環境で受難曲を鑑賞するのは、なんという見事なお膳立てなのだろう、ということでした。(〈成し遂げられたEs ist vollbracht〉のアリアで雷が大きく轟いたのには驚かされました。)

それから始まった演奏のすばらしさは、筆舌に尽くせないものでした。これまでの長い人生にもなく、この先の短い人生にもないであろう圧倒的な《ヨハネ受難曲》がこれであった、と申し上げます。

ずいぶん太ってしまったガーディナーですが、統率力は健在。従来に増して大局観が明確になり、演奏に緩急と奥行きが出てきました。たとえば、祈りをこめた長い空白を置いてから始まった《憩え》の合唱は切々とした共感に満たされていましたが、その響きには先へ向かう「希望」の強さが込められており、復活と永世を祈るあのコラールへの、絶妙な橋渡しとなっていました。

いちだんと深まっていたのが、言葉への集中力です。たとえば、"weg, weg"(消してしまえ)の合唱がささやくように飛び交ったあとに、"Kreuzige"(十字架につけろ)の叫びが恐ろしいフォルテシモで立ち上がる。透明で軽やかな古楽合唱団は世に多くありますが、突き抜けるような底力を兼ね備えて堂宇を満たすのは、モンテヴェルディ合唱団を置いてないと思います。

合唱団のすごさを物語るもうひとつのことは、アリアを歌うソリストのうちSATの3人(ハナー・モリソン、メグ・グレイブル、ニコラス・マルロイ)が、合唱団から出ていたことです。いずれもソリストとして十分な力量を備えている上、余計な「自分」を交えることなくまっすぐに歌い、全体と同じ方向を向いている。聖書場面とアリア、コラールの三者が大きく統一されるという、私の兼ねてからの理想が、こうして実現されていました。

マーク・パドモアの福音書記者。清潔な美声で繊細に、正確に、真摯に、時には意外な力強さで歌うテノールに、私は一音符も逃すまいと耳を傾けました。最近は聖句レチタティーヴォを速いテンポで「語る」演奏が主流になっており、パドモアも基本的にはそうなのですが、内容に即して緩急が取り入れられ、後半、十字架の場面では、噛み締めるような沈黙も交えて、物語が進められました。疑いなく、当代最高のエヴァンゲリストです。

劣らず絶賛したいのが、イエス役のマシュー・ブルック。「ヨハネ福音書のイエス」には超越的な尊厳が必須で、それがゆえになかなか満足することのできない私なのですが、ブルックはまさに、その要求を実現していた。これが、演奏に、計り知れない重みを与える結果になっていました。《ヨハネ受難曲》においては、イエスとピラトの対話が、かなり長く展開されます。この日はバス・アリアを歌ったピーター・ハーヴィーがピラトを担当したので、この対話が、きわめて格調の高いものとなりました。ハーヴィーも良かったです。

ずいぶん長くなりましたが、こうしたもろもろの末に、コラール「ああ主よ、あなたの天使に命じて」が歌われたとお考えください。往年のバッハ、自作自演に聴き入ったであろう聴衆と、ガーディナー、そして自分をいつしか重ね合わせ、幸福感でいっぱいになった、この日の私でした。

ドイツ旅行記2103(4)--《オランダ人》を観ましたが・・2013年06月24日 23時28分48秒

ドレスデンのゼンパーオーパーは、旧建物の時代に、ワーグナーが《さまよえるオランダ人》を(そして《リエンツィ》と《タンホイザー》を)初演したところ。そのオペラハウスが、ワーグナー・イヤーに《オランダ人》の新演出上演を行うのは、いかにもふさわしいことです。しかしその新演出(フロレンティーネ・クレッパー)が本当によいものであるかどうか確信がなく、半ば腰が引けながら出かけました(右奥が歌劇場)。


私は、演出家が自分本位に作品を換骨奪胎するのが大嫌い。しかし演出家が本当にいい仕事をすれば、オペラの舞台が見違えるように緊張感に高いものになることもわかっています(《リング》におけるハリー・クプファーなど)。この夜眼前に展開されたのは、換骨奪胎極まれりと思える舞台でした。

序曲が終わると、音楽の始まる前に長いパントマイムが挿入されます。「斬新な」アイデアを実現するために必要なことなのでしょうが、それが長いこと自体、無理な継ぎ合わせをしていることの証拠。にもかかわらず、黙劇の意味はわかりません。これはいったい何を意味するのか、などと根を詰めて考えるのは本末転倒なので、わかろうとしないことに決めました。

ですから、演出家の意図を、私は説明出来ません。確かなのは、じつにさまざまなアイデアが作品外から持ち込まれたこと。例は2つだけにします。1つは、本来男性だけで進められる荒々しい第1幕に、女性が4人登場した。ゼンタと、少女時代のゼンタ、酒場女2人です(逆に出てこないのは、海や船です)。もうひとつは、女性だけで始まる第2幕、〈糸紡ぎの合唱〉が、病院における出産のシーンになり、女性たちはすべて臨月の姿で合唱した。ストーリーにないが登場する人物、ストーリーにいるが違う脈絡で登場する人物は、皆容赦なく演技をして視覚に介入する。その結果、音楽の方がコンテクストから浮き上がってしまうこともしばしばでした。

演奏の方はというと、徹底した力勝負。みなさんすごい声量だしオーケストラも迫力満点でしたが、愛、味わい、潤いといったものは見当たらない。そうなると、《オランダ人》というのはこの程度の作品なのかな、という思いが、頭をもたげてしまうのです。同行した方々の中からも、ワーグナーはちょっと、やっぱりバッハの方が、という声が、終了後かなり聞こえました。私としてはそれも残念なので、「この演出のことが嫌いでも、《オランダ人》のことは嫌いにならないでください」「《オランダ人》のことは嫌いでも、ワーグナーのことは嫌いにならないでください」と説得。上演が作品をあの手この手で引き下ろすという、あってほしくない構図が、大手を振って実現しているのです。

まあこれはこれ、と割り切り、翌朝バスで、ライプツィヒに出発しました。いよいよ、ガーディナーの《ヨハネ受難曲》です。

ドイツ旅行記2013(3)--フライベルク訪問2013年06月23日 15時41分03秒


6月19日(水)の朝6時、FMからは、ドレスデンを中心としたオルガンめぐりを解説する私の声が響いていたはずです。主役はゴットフリート・ジルバーマンのオルガンで、ドレスデン、フライベルク、ライプツィヒの楽器を紹介しました。

奇しくもこの日、ジルバーマンが本拠としてるフライベルクを、初めて訪れてみました。かつて銀の鉱山で栄え、バッハもその株をもっていたところ。ツヴィカウ方面行きの各駅停車で、40分ほどです。

その名を「ベルク」(山)といい、地域をエルツゲビルゲ(エルツ山地)といいますが、山は見当たらず、ゆったりとした平原の起伏する、広やかな地域です。駅から坂を下って旧市街に入り、まず、ペトリ教会へ。さっそく、近年修復されて録音にも使われているジルバーマン・オルガンに対面しました。


なんとその日は、週に一度の無料コンサートがある日。開始の12時までに戻ることにし、中央広場に向かって、大聖堂(聖マリア教会)に対面しました。美しい教会。ここに、たくさんのCDに録音されている、ジルバーマン初期の大オルガンが納められているのです。


まだ教会が開いていませんでしたので、タクシーを頼み、20キロほど離れたフラウエンシュタインへ。目的地はジルバーマン博物館だったのですが、小さな博物館は古城跡の一角にあり、高みに登ると、エルツゲビルゲ一帯のすばらしい眺望が楽しめました。すてきな女性運転手さんとお話しながらフライベルクに戻り、大聖堂を拝観したあと、ペトリ教会に戻ります。早くから席を取りにいったのですが、結局聴衆は20人ほどで、バッハと近代の、30分ほどのプログラムを聴きました。感想は・・・そうですね、どんなにいい楽器も、弾き手を得なければ真価を発揮しない、と申し上げておきましょう。

そろそろ季節の終わるシュパルゲル(白アスパラガス)と黒・白ビール(ドゥンクレス・ヴァイスビーア)で昼食。ドレスデンに戻り、ゼンパーオーパーの公演(さまよえるオランダ人)に臨みました。


ドイツ旅行記2013(2)--猛暑のドイツ2013年06月22日 15時08分36秒

今回のフライトは、ルフトハンザ。皆さんとご一緒にエコノミークラス、というのが既定路線だったのですが、差額自己負担で、ビジネスに変えていただきました。これで、ワクワク感(←N市のNさんのコメント参照、ただし意味は違う)がだいぶ違います。

絶対に実現したかったのが、飛ぶ前にラウンジに寄ること。しかし本の購入だの両替だのに手間取って、結局実現できませんでした。残念!

ビジネスクラスの空間には、エコノミーにはない、優雅な時間が流れています。おいしいお食事、飲み物を悠然と・・・などなど縷々綴りたいところですが、座席が厨房に接していたこともあってか、今回は妙にあわただしく、しばしば、騒がしい。あとで聞いたところでは、満席になってアテンダント大忙しのビジネスに対し、エコノミーは空いていて、優雅に、悠然と過ごせたそうです。それはない!

ともあれ、無事フランクフルトに到着---。「待てえ!」という叫びがいっせいに聞こえて来ました。あんた、飛行機に乗り遅れたんじゃなかったのか!と。乗り遅れました(きっぱり)。しかしそれは成田~フランクフルトの便ではなく、フランクフルト~ドレスデンの接続便だったのです。「飛行機に乗り遅れる」というタイトルは、文字通りです。

乗り遅れた理由は、「24」というゲートの数字が頭の中でいつのまにか「42」にすり替わったこと、「35分」という搭乗時間がいつのまにか「45分」にすり替わったことでした。その理由もないわけではないですが、自分の頭の状態を疑うような大失態です。添乗員さんや同行の方々に、たいへん心配をおかけしてしまいました。

窓口で種々取り計らっていただき、懸念していた荷物も、私と一緒に、1時間遅れで到着。空港にお迎えまで手配されていたのには恐縮しました。すごく寒いらしいぞ、とおっしゃる方もおられましたが、気温は、フランクフルト到着の時点で31度。数日間、猛暑の中で過ごすことになりました。次回からは、写真入りで継続いたします。