よき友人の死2008年11月06日 10時52分15秒

美学の後輩でよき友人だった笠原潔さん(放送大学教授)が亡くなりました。想い出が、たくさんあります。

笠原さんははじめ東大の教養学部でフランス語・フランス文化を専攻しておられ、卒業論文はバッハの《フーガの技法》に関するものだったと記憶しています。したがって本来バッハ研究者のひとりであり、バッハに関する論文やエッセイも、折に触れて書かれていました。しかし美学の大学院に入られて以降の研究の広がりは目覚ましく、中国の古典音楽、音楽考古学、洋楽移入史といった世界的視点の研究に、指導的な役割を果たされました。そうした超幅広い研究がこれから大きくまとまってゆくという時期に逝去されてしまい、残念でなりません。

放送大学の番組をご覧になった方も、きっとたくさんいらっしゃるでしょう。才気に富んだ構想をもとに進められる解説は弁舌さわやかで、テレビ写りもたいへん良く、魅力的でした。そんな笠原さんのお世話で、私もバッハの聖と俗に関する番組を作らせていただき、それはまだ、オンエアされています。

お人柄は洗練されていて明るく、サービス精神にあふれ、どんなに忙しいときでも、学会の仕事であれ大学の仕事であれ、快く引き受けてくださいました。2年間闘病されたのですが最後まで徹底して明るかったというご遺族のお話を伺い、驚嘆しています(彼ならそうかもしれない、と思いつつ)。もう少し親密にお付き合いをしておくのだった、と心残りです(続く)。

日本流2008年10月29日 23時04分35秒

昨夜の富田庸さんの講演を聴かれた方は、至福の印象を抱かれたことでしょう。資料、とりわけ自筆譜研究の深さ、すばらしさ、そして恐ろしさを、参加の方々に、また私にも実感させて下さった2時間でした。

その富田さん、もうイギリスが長くなられましたので、日本の学生の性質に戸惑われたご様子。どんどん問いかけ、考えさせ、質問させ、意見を言わせ、という流儀でなさるのですが、学生の方は引いてしまい、最初は、誰も発言しない。当てられても黙っている(笑)。偉い先生だという刷り込みがあったのでよけいそうだったのでしょうが、ご本人は、やさしい、癒し系の方です。

でもこれ、日本流もありだと思いますよ。私自身、どんどん問いかけられたり手を挙げさせられたりするのはいやで、静かに聞き、考えたい。ですから授業でもめったに、対話方式は採りません。それが最良とは申しませんが、日本人のメンタリティに合っている以上は、悪いとも思えないのです。この日は皆さん徐々に積極的になられ、最終的には、それなりに活発なディスカッションが生まれました。やればできる、ということですね。

数日、充実した専門の勉強が続きました。今日は疲れて、完全休養。出かけるべきコンサートもあったのですが、お許しください。

昔の記憶2008年08月14日 23時24分40秒

ドン・アルフォンソさん、温かいお言葉ありがとうございました。20年前に書いたひとことがずっと心に生きていたなんて、感激です。

昔の本を見直したらそんなに悪くなかった、ということをブログに2度書きました。私の場合、昔の記憶が心の中でだんだん悪くなっていく傾向があるのです。ですから、昔の本をしばらく読み返していないと、いろいろ不備だらけなのではないか、と思ってしまう。世の方々はどうなのでしょうね。昔の思い出話が好きな人はたくさんいらっしゃるけど、そういう方の場合、記憶が心の中でだんだん良くなっていくのでしょうか。だとすると、昔すごい本を書いたと思っていたが、いま読むとだめじゃん、ということが起こりますね。

私のような性格だと、過去が思い出したくないことばかりになってきて、結構困ります。タイムマシンで戻ってみたら、それなりにベストを尽くして生きていたのだと思うのですが・・。このあたり、精神修養したいポイントのひとつです。

今日は、遅れに遅れていたザクセン選帝侯家のためのカンタータ解説書の原稿を仕上げ、出版社に渡しました。少しほっとし、今はCD選に精を出しています。

合宿にて2008年07月25日 23時16分53秒

大学の合宿で、河口湖に行きました。

私は夕食から合流し、食後の卓球大会で、準優勝。身体を動かしたのは久しぶりで、疲れました。続いてコンサート。学生のコンサートにはけっして寛大でない私ですが、今年はたいへん良かった。津軽三味線の名手が入学したことが、ものを言っています。音楽学の先生方がグレゴリオ聖歌から初期の多声が派生するさまをほとんど即興で実演したのには、驚嘆しました。さすが。

2年生幹事のみごとな仕切りで進んだ合宿は、飲み会の部へ。ここで、ウルトラCのアイデアが出ました。学年で固まるのを避けるために、血液型ごとにテーブルを分けることにしたのです。

音楽学の特殊性のゆえに、私のテーブルは最大派閥。それからはどのテーブルでも、血液型談義に花が咲いたようです。1時間経っても2時間経ってもその話をしているのだから、皆さん、関心があるのですね。私の同類がこれほど多いのも不思議で、やはり何か、集中する理由がありそうです。次回は、少数派の人たちに「血液型税」を課そう、という話になりました。こういう発想自体が、ある型を指向しています。

集中力2008年07月23日 22時46分17秒

将棋名人戦の激闘をまとめたテレビ番組の中で、レポーターが森内俊之前名人に、自身の集中力について尋ねました。森内さんは永世名人の資格をもつ強豪で、立派な人格を感じさせる方です。

森内さんがおっしゃるには、自分は音が気になるので、棋士の中では集中力が高い方とは言えないかも知れない、とのこと。なるほど、音なんか気にならない、というほど高い集中力のレベルがある、ということですね。

音が気になるのは、私も同じです。音楽大学では校庭で金管楽器の練習をしますから、聞こえてくると、思考が妨げられます。ですから私は、授業中、暑くても窓を閉めさせることが多い。静かになると、さあやっと集中できる、というわけです。でもそれが自分の集中力の乏しさだ、とは気づきませんでした。

そこで思うのですが、「ながら」と集中力の関係は、どうでしょう。なにかと「ながら」でやる人は、集中力が乏しいのか。あるいは、集中力が高いからこそ、「ながら」が可能になるのか。集中力がたいへん高ければ、集中の対象をスイッチのように切り替えることもできるのか。集中力の高さと、ものに熱中しやすいこととは関係があるのかどうか。

いろいろな疑問が湧いてきます。

美徳2008年07月21日 22時46分38秒

私が22年間続けている音楽同好会に長いこと通われていた方が、最近、天寿を全うされました。人生を楽しむ自由人、という趣の方でしたが、息子さんが会に寄せてくれたメッセージを聞いて、驚きました。この息子さんは、お父さんが人の悪口を言うのを聞いたことがなかった、というのです。

人の悪口を言う人と言わない人がいる、ということは、私も意識していました。以前テレビである評論家が、小泉元首相は人の悪口を言わない、と述べていたのでその後気をつけていましたが、本当にそう。根強い小泉人気の背景には、絶対これがあると思います。レトリックを総動員して特定人を批判する、というタイプの人は、それがたとえ正当でも、感じがよくありません。

そう思って身の回りを考えてみると、言わない方がやはり何人か、いらっしゃるのですね。まねのできないことで、尊敬します。もちろん、「人間は人の悪口を言いたい動物である」(三島由紀夫)というのは真理だと思いますし、正当な批判だったり、罪のない座興だったりすることもありますから、ある程度は許されると思う。私もこの快楽からは逃れられないわけですが、節度として大事なのは、「自分を棚に上げない」ということではないでしょうか。自分を振り返る痛みなしに出てくる一方的なそれは、どんな局面でも感じが悪く、言う人の損になると思います。

私が常時見に行っているブログは少数ですが、主宰者のちょっとした過失(謝罪されている)に対して傘にかかるような批判コメントが発信されている状況に接し、心が痛みました。励ましのコメントの中にいくつか一方的なものが混じるだけで、献身的な努力で情報発信されてきたブログが、読むに耐えない場となってしまう。荒らしにも効果があると、思わざるを得ません。

疲労雑感2008年06月19日 22時45分54秒

これじゃ疲れてたいへんだろうなあ、と思うことがよくあります。なにより、将棋。最高峰の名人戦などは2日がかりで、1日目は9時から夕方まで、2日目は9時から勝負がつくまで指す。多少の休憩はあるものの、正座して考え続けているわけですから、消耗度はたいへんでしょう。身体を動かすスポーツのほうが、まだいいように思えます。

羽生-森内戦などはいつもがっぷり四つの大勝負になりますから、終盤にゆくと鬼気迫るような感じになる。終了後にマイクを向けられても、いっこうに言葉が出てこない。心身が別の世界に入り込んで、戻ろうにも戻れない、という感じなのです。精根尽くす、というのはこういうことを言うのでしょうね。勝利まであと一歩、というところで羽生名人の手が震えることは、有名です。

しかもそういう大きな勝負が、次々に控えている。才能は集中力であり、そのあらわれは仕事の量でもある、という、たとえば火曜日に野平一郎さんに対して感じたことを、羽生さんにも感じずにはいられませんでした。

全力投球2008年06月18日 13時08分44秒

 バッハ演奏研究プロジェクトの「ピアノで弾くバッハ」部門。昨日は野平一郎先生にご出講いただきました。先生の《平均律クラヴィーア曲集》数曲の分析や考察、模範演奏が最上級のものであることはいうまでもありませんが、それにも増して印象的なのは、2時間にわたってびっしり語り演奏する、その集中力です。さぞお疲れなのではないかと思い、食事の席でそう伺ってみると、「このぐらいなら全然疲れません」とのお返事。恐れ入りました。

考えてみると、全力投球していい仕事をし、達成感なり満足感なりを得る、というのが、いちばん疲れないことなのかもしれません。あまり興味のない会議に義理で顔を出すことの方が、はるかに疲れる。居眠りをしても、罪悪感を伴うようでは、休養にならないようです(笑)。

私も全力投球を日頃心がけているつもりですが、先週の疲れがどっと出てきている状況です。今週は東大和(金)、立川(土)、須坂(日)と週末にイベントが並んでいるので、とりあえず、気分転換を図りたいと思います。

双葉山2008年02月12日 23時57分14秒

前話で、「未だ木鶏たり得ず」という言葉を使いました。これは、不世出の大横綱、双葉山が、69連勝を阻まれたときに打った電報の言葉です。闘鶏がまるで木彫りのように落ち着いたときに最高の境地に達したという中国の故事を受けて、勝負師は力みのない淡々とした心境に達して、初めて究極の力を発揮できる、ということを言うようです。そういえば将棋の大山名人の著書にも、勝ちたいという意欲が先立つのは力みを生ずるので禁物だ、と書いてありました。

どうしてそういう話題が出てくるかといいいますと・・。療養の間に読もうと、数冊の本を買いました。その中に、『横綱の品格』という、ベースボールマガジン社の新書があった。双葉山の旧著を、大鵬の序文を付けて復刻したものです。双葉山が自分の生い立ちや相撲人生、相撲に対する考え方を綴った本で、おそらくライターが取材をまとめたものでしょう。

相撲の本でも読んでみるか、と軽く買った本ですが、これがすばらしい。努力を重ね、その世界で長く頂点に立った人の尊厳のようなものが、素朴な語り口に満ちあふれているのです。自分に厳しく人にやさしい、まっすぐでおおらかな、日本男性。爽やかで、心が洗われます。

こういう人って、昔の日本にはいたが、今の日本はいなくなりました。彼が活躍したのは、昭和の戦前です。ということは、暗い時代として批判ばかりされる当時の昭和も、今にないよさをもっていた、学ぶべきことのある時代だということになるのではないかと思うのですが、いかがでしょう。

双葉山は56歳で亡くなったそうです。若すぎますね。

のんびりしたい2008年01月23日 23時55分05秒

「少しはのんびりしたい」とおっしゃる方が、よくおられます。私もよく、そう思う。でも、最近考えるようになりました。「のんびりしたい」というのは、けっしてのんびりできない性格の人間が、空想的な願望として抱くものではないか、と。

こういうタイプの人(私を含む)は、のんびりしていると、不安になってくる。自分がやるべきことをやらず、自堕落になっているのではないか、という思いにかられる。だから「のんびりしたい」と思うことによって、自分はちゃんとやっている、という実感を得ようとする。違うでしょうか。

こう書きながら、「のんびりする」とはどういうことなのか、自分は理解していないような気がしてきました。不安になる、というようでは、本当にのんびりとはしていない、ということですよね。

ものごとをゆっくりやる、時間単位の生産性を落とす、という意味合いが「のんびり」に含まれていることは、間違いないと思います。でも、その代償として獲得されるであろうポジティヴな面は、どう考えたらいいのでしょう。のんびり上手の方に教えていただき、これからの人生に役立てたいと思います。

(注)四六時中仕事をしている、という風に読めますが、そういう意味ではありません。飲んでいても、ゲームをしていても、のんびりはできていない、という意味です。