3時間語り会った昭和40年代 ― 2008年06月15日 22時19分01秒
研究発表と講演、シンポジウムが4回という、厳しい週を完走しました。最後がもっとも神経を使うものでしたので、絶大な安堵感です。
藝術学関連学会連合のシンポジウムは、場所が学習院女子大でしたから、「副都心線」を初日に利用できました(西早稲田駅下車)。私はコーディネーターですから進行を司れば済むとも言えますが、なにしろ不案内な領域を含んでいる上に、各学会の代表者がフロアにいるという、できればご遠慮したいシチュエーションでの役割です。まあ、日本語でできるのが救いではありましたが。
初めのうちは、最近よく聞く「頭が真っ白」というのはこういうことかな、というほど、うわずっていました。しかし佐野光司(音楽)、千葉成夫(美術)、國吉和子(舞踊)、神山彰(演劇)というパネリスト諸氏、およびコメンテーター(尼ヶ崎彬氏)が強力で、どなたも全力投球してくださり、基調報告、相互討議と、間然とするところなく進行。なかなかこううまくはいかない、というほど充実したひとときになりました。まあ私は司会ですから中味は少ないわけですが、足を引っ張ってはいけないので、神経を使ったわけです。
つくづく思うのは、自分の領域だけやっているのではだめだなあ、ということ。第一線の芸術家はみな先駆的なコラボレーションを手がけているのに、研究者は細分化された領域だけを見ていることが多いのではないかと思います。そういうことを骨身に染みて感じたことが、今回の一番の収穫でした。私の勉強のためにやっていただいた、という感じさえしています。
心づくしの懇親会のあと、新宿で、カラオケ。4つのイベントのうち3つは上々に行っていましたから、自分の理論に照らして最後にしわ寄せが来るのではないかと心配していたのですが、どうやら、それはなし。そうなると、積み重なったまま先送りされているツケがどう解消されるのか、問題です。とりあえず、今週は気をつけなくてはなりません。
シンポジウム「昭和40年代の日本における藝術の転換」の内容は、やがてWEB化されますので、またお知らせします。
昔と比べて ― 2008年06月10日 23時02分33秒
厳しい週を通過中です。
月曜日には、勤め先の研究室で開かれている上級ゼミナールで2年に1回回ってくる研究発表を行いました。共通テーマは「伝統と断絶」というものですが、私は「バッハの失われたカンタータをめぐって」というタイトルで発表しました。内容は、次の著作で読んでいただきます。
鼎の軽重を問われる機会ですから、全力投球しました。それにしても素朴な感慨としてあるのは、研究発表と自然に向き合えるようになったな、ということです。若い頃は、発表が回ってくることは頭痛の種でしたし、何をやろうか、そのたびに頭を悩ませました。ところが今は、わかった、いつでもいいよ、という感じ。ネタに困らないのです。
発表の大半は、この1年以内に勉強した事柄でした。ですから、昔より今の方が、勉強していると思うのです。なぜ、そう思えるのか。昔より自由時間があるわけではありませんし、勤勉になったわけでもありません。要するに、テーマが決まっているからではないでしょうか。ですから、一生勉強を続けるためには、しっかしりたテーマをもつことが先決だと、若い人たちに申し上げたいと思います。
たいへんですが、充実している今週です。
聖書索引をネットで! ― 2008年05月15日 22時20分02秒
若い人たちを指導していて残念に思うのは、西洋音楽の古い方をやっている人でさえ、キリスト教に対する知識が乏しいことです。聖書を読んだことがない人も、たくさん。でもそれでは、バッハの歌詞はもちろん、聖書を踏まえた歌曲の歌詞(←多いですよ)の理解はお手上げです。
理解を深めるためには、手元の語学辞書を引くだけでなく、聖書本文に対する索引(コンコルダンス)を駆使して、ある言葉が、聖書でどう使われているかを調べなくてはなりません。ひとたびこれができるようになると、宗教的な文章に対して目が開かれること請け合いです。
今は、ネットの時代。専門書を求めなくても、手軽に索引検索を使えるようになりました。お薦めは、”eBible Japan”というサイト(http://ebible.echurch-jp.com/)です。
ここでは、口語訳、新共同訳、新改訳の3種類の本文に対して、検索が使えます。それ以上に圧巻なのは、「多国語Bible検索」。ルター訳は1545年版(←バッハが使ったもの)と現在の両方を引けますし、ヴルガータ訳のラテン語も引けます。英訳は、欽定訳を含め11種類も使え、ヘブライ語、ギリシャ語も大丈夫です。ありがたく活用されることをお薦めします。
芸術への敬意 ― 2008年03月24日 23時07分01秒
3月12日、16日と、ヴィオラ奏者坂口弦太郎さん(N響)の出演が続きました。16日(日)のプログラムはシューマンの《アダージョとアレグロ》、日本の歌3曲、シューマンの2つの歌曲 op.91、そしてシューベルトの《アルペッジョーネ・ソナタ》でしたが、この方ならではの心にしみる音色と歌心にあふれたカンタービレを楽しみました。ヴィオラって、いいですねえ。
最近しばしば述べている「音楽には神様がいる」というテーゼに確信を抱くのは、こういう音楽に立ち会った時です。立川駅から離れた小さな公民館(地域学習館)の、体育館同然の講堂。ごくごくわずかな予算。ふらりと寄られた、地域のお客様たち。こうした条件にもかかわらず、坂口さんや、ベルリン在住のピアニスト元井美幸さん、アルト歌手の北條加奈さんがベストを尽くしたコンサートとやってくださるのは、やはり、音楽の神様に尊敬を捧げているからではないでしょうか。ありがたいことです。
芸術への敬意は、演奏家にとって、必ず必要なものです。そうしたものに欠ける人は、ヴィルトゥオーゾにはなれても、芸術家にはなれないと思う。研究にとっても同じことで、対象に対する尊敬がなければ、何のための研究かと思います。芸術に関する素朴な敬意は、どの分野でもいま、なくなりつつあるように思えてなりません。そうしたものを愚直に育てられないものか、と思案する昨今です。
学術論文の条件 ― 2008年03月02日 22時51分46秒
2月13日のブログで、「学術論文として認められるためにはどんなことが必要か」についてそのうち書く、と予告しました。今日はそのお話です。
特定の作曲家、特定のジャンル、特定の楽器などについて、ものすごく詳しい方がよくおられます。論文を書いたので読んでほしい、学会に投稿したいがどうだろう、という熱心なご相談も、時折ある。そんな場合、ぜひ踏まえておいていただきたいのは、次のようなことです。
好きな対象について考えているとき、こうではないだろうか、というアイデアがひらめく。ベートーヴェンの不滅の恋人はこの人ではないだろうかとか、この出来事がモーツァルトの死と関係があるのではないかとか、いろいろな場合が考えられるでしょう。それから、資料や文献の探索が始まり、論文へと発展してゆきます。それは当然、自説の論証、という色彩を帯びてきます。
その際、けっしてやってはいけないことがあります。それは、自分の仮説に都合のいい文献や資料だけを集め、都合の悪いものは排除して論文を構築することです。私は日頃からそれはいけない、と学生に注意していますが、後を絶たず、起こる。不都合な資料を入れると論旨が弱くなる、だから触れずにおこう、と考えるようです。
それは、まったく逆。別方向を向いているように思える資料や文献を採り入れ、それを比較考量してから結論に向かうようにすれば、著者の厳正で客観的な態度が示され、立論の信頼性が大幅に増すのです。著者の自己批判によって慎重に吟味された論述であることが伝えられるからです。それだと100%の主張ができない、70%になってしまう、というのであれば、こういう理由で70%そう考えられる、と書けばいいのです。
センセーショナルな新説は、往々にして、都合のいい資料の、都合のいい解釈によって主張されます。それが面白がられることもあるわけですが、一方的な記述になっていないかどうか、警戒して読むべきだと思います。
日本の学会 ― 2008年02月13日 23時38分07秒
11日(月)には、日本音楽学会の全国委員会が開かれました。学会は東北・北海道支部、関東支部、中部支部、関西支部の4つに分かれて運営していますが、全支部の代表者が集まる会議が、年2回あります。そのひとつが例年この日に開かれるもので、新年度の活動について審議します。
宣伝を兼ねて、学会のお話をしておきましょう(詳細は学会のホームページをご覧ください)。会員の紹介があれば、どなたでも入会できる、開かれた組織です。年会費は9000円。最新の論文を載せた機関誌が年2回送られてくるほか、各支部の例会(研究会)、年1度の全国大会、内外の著名人を招いての特別例会などに参加できます。もちろん、そこでの研究発表に手を挙げることも可能です。
学会の機能は、音楽研究者同士の情報交換や親睦、イベントの開催といったことにあるわけですが、究極の存在意義は、「業績」を培う場だ、というところにあるのだと思います。研究者としてポストを得ていくためには、学会で研究発表をし、学術論文を積み重ねていくことが、どうしても必要です。それは、昨今の大学行政で、ますます強く要求されていることでもあります。
こう書くといかにも敷居が高いように思われるかもしれませんが、われわれは、そんなことは少しもないつもりでやっていますし、常に、新しい意欲的な研究を求めています。学会とは別のところで高度な研究をしておられる方のお力も、学会は、ぜひお借りしたいと思っています。とはいっても、学術論文として認められるためにはどんなことが必要か、ということも、私なりに申し上げるべきかもしれません。近いうちに、述べる機会を設けたいと思います。
最近のコメント