学者のポスト ― 2009年03月27日 11時11分42秒
少子化で、どこの大学も、新入生集めに四苦八苦しています。統合されるところ、定員を減らすところ、学部を閉鎖するところなど、さまざまですね。
大学生が減るということは、大学の先生も減るということです。すなわち、大学の先生になれるチャンスは、いま減りつつあります。私が本拠とする音楽学がまさにそうした状況にありますが、多くの分野が同じ困難に直面しているようです。語学なども深刻だ、と伺いました。
専攻してもなかなか就職できない、となれば、当然、その分野に人が集まりにくくなります。不安をもって勉強している若い人たちも、たくさんいらっしゃることでしょう。
ただ今は、そうした状況を自力で打開するための手段も、それなりに存在しています。博士課程などで、学位を取る。論文を書く。学会で研究発表する。留学する。研究プロジェクトに加入して実績を積む、等々。ただ待っているだけではポストは取れませんが、いわゆる「業績」を地道に積み上げることはできますし、そうした業績が結局はものを言うのが、専門家の世界です。本当に実力があり、それを明示するアウトプットをもっていれば、そうした人をほっておくほど、どの分野も、人材は過剰ではありません。
専任のポストを取るのもたいへんですが、劣らずたいへんなのは、学生を終えて、どこかに非常勤のポストを得ることです。教歴がなく、業績も多くはないはずだからです。大学に非常勤のポストをもっているのといないのとでは、研究者としての存在感が大きく異なる。それは事実ですから、そのために、若い人たちも努力して欲しいと思います。
私の若い友人、YM君が、この4月からポストを得ました。いつも飲み会の盛り上げ役を務める好青年で、FMでも活躍しています。これからがんばってください。
注目すべきモーツァルト論 ― 2009年01月06日 23時37分24秒
初対面の方から、あるいは見ず知らずの方から論文をいただくことがよくあります。本当はすぐに読んで感想を差し上げるのがいいのだろうと思うのですが、ついつい目先の仕事を優先して、そのまま積んで(あるいはファイル保存して)おきます。そしてそのまま忘れてしまうのがいつものパターンで、よほど時間が経ってから発見しては、後悔しております。
という性癖の犠牲になっていた後藤丹さん(上越教育大学)の論文「《フィガロの結婚》のカリカチュアとしての《ドン・ジョヴァンニ》--オペラのスコアに盛り込まれたモーツァルトの機知」(『音楽表現学』Vol.4、2006所収)を思い出し、読んでみました。9月にいただいていたものです(汗)。
このように紹介しているぐらいですから、じつに面白い論文でした。後藤さんは、《フィガロの結婚》における伯爵夫人のカヴァティーナ(第2幕)と《ドン・ジョヴァンニ》におけるドンナ・エルヴィーラの登場のアリア(第1幕)が、密接な音楽的関連をもちながらまったく対照的な表現になっていることに注目し、後者を前者の「カリカチュア」と見なしました(卓見です)。そして同様の対応関係が、フィガロの最初のカヴァティーナ(第1幕)とマゼットのアリア、スザンナのアリア(第4幕)とツェルリーナのアリア(第1幕)にも見られることを、豊富な譜例で論証しています。
批判的に読んでも、この関係の指摘には説得力があります。後藤さんがそこから引き出す考察については論文を読んでいただくとして、私が思うのは、次のようなことです。
モーツァルトは《フィガロの結婚》におけるいくつかの音楽の骨組みを《ドン・ジョヴァンニ》でも再利用し、それを裏返してまったく別の音楽を作り出す楽しみを味わったのかも知れません。あるいは、モーツァルトはこういう音楽の作り方を日頃からよくする人で、われわれが気づかずにいるのでしょうか。面白い切り口を与えていただき、感謝です。
生命と音楽のかかわり ― 2008年12月21日 23時35分24秒
理系の頭がないものですから、科学の本を手に取るのはいつもはばかられます。それでもこの本を買って新幹線に乗ったのは、「新書大賞、サントリー学芸賞ダブル受賞!」という謳い文句に惹きつけられたから。読んで納得。ダブル受賞は伊達じゃありません。すばらしい本で、生命科学の基本とその発見史が、わかりやすく、味わい深く、感動豊かに綴られています。文章といいその構想といい、傑出した書き手です。
読み進めるうちに、電子顕微鏡の突き詰める生命とは、音楽に酷似している、と思うようになりました。音楽が人間の時間的生命を充実させるものだとの趣旨を、私は音楽美学概論でつねに述べているのですが、その趣旨と響き合う記述が、随所に見られるのです。たとえば最後にある文章。この主語を、「生命」から「音楽」に入れ替えても、大筋で通るのではないでしょうか。
「生命という名の動的な平衡は、それ自体、いずれの瞬間でも危ういまでのバランスをとりつつ、同時に時間軸の上を一方向にたどりながら折りたたまれている。それが動的な平衡の謂いである。それは決して逆戻りのできない営みであり、同時に、どの瞬間でもすでに完成された仕組みなのである」(福岡伸一『生物と無生物の間』より)。
この本が、講談社の雑誌『本』に連載されたものに基づいているというのも驚きでした。私もときどき書かせていただく媒体ですが、こんなにすごい連載があったことを見過ごしていたからです。
明日は6時前に出て、福岡に向かいます。
日本流 ― 2008年10月29日 23時04分35秒
昨夜の富田庸さんの講演を聴かれた方は、至福の印象を抱かれたことでしょう。資料、とりわけ自筆譜研究の深さ、すばらしさ、そして恐ろしさを、参加の方々に、また私にも実感させて下さった2時間でした。
その富田さん、もうイギリスが長くなられましたので、日本の学生の性質に戸惑われたご様子。どんどん問いかけ、考えさせ、質問させ、意見を言わせ、という流儀でなさるのですが、学生の方は引いてしまい、最初は、誰も発言しない。当てられても黙っている(笑)。偉い先生だという刷り込みがあったのでよけいそうだったのでしょうが、ご本人は、やさしい、癒し系の方です。
でもこれ、日本流もありだと思いますよ。私自身、どんどん問いかけられたり手を挙げさせられたりするのはいやで、静かに聞き、考えたい。ですから授業でもめったに、対話方式は採りません。それが最良とは申しませんが、日本人のメンタリティに合っている以上は、悪いとも思えないのです。この日は皆さん徐々に積極的になられ、最終的には、それなりに活発なディスカッションが生まれました。やればできる、ということですね。
数日、充実した専門の勉強が続きました。今日は疲れて、完全休養。出かけるべきコンサートもあったのですが、お許しください。
全国大会迫る ― 2008年10月23日 21時18分06秒
日本音楽学会の全国大会が、目前に迫ってきました。この土曜日、日曜日に国立音楽大学を場として、たくさんの研究発表やパネル・ディスカッションが行われます。ここしばらくスタッフの先生たちが、連日走り回って準備してくださいました。非会員でも、学生には1000円で聴ける特典を用意してあります。ぜひ覗いてみてください。
総会、懇親会に会長としての責務があるのを除けば、私の出番は最後、日曜日の14:55から2時間かけて行われるラウンド・テーブル「J.S.バッハとC.P.E.バッハ~伝承と創造的受容をめぐって」です。久保田慶一、小林義武、富田庸の3先生からもうしっかりした原稿をいただいてありますので、コーディネーターとしては気が楽。たしかに大役なのですが、日本語ですから大丈夫です(笑)。
3先生の発題要旨は学会のサイトにもあります。パネリストの議論は、富田先生が最近調査された無伴奏ヴァイオリン曲の「ウィーン筆写譜」をめぐって、父の楽譜の伝承段階における兄弟間の交渉について、晩年のバッハとエマーヌエルのかかわりについて、エマーヌエルの父作品改編の意義について、パスティッチョにおける父の作品の使用に創造性を認めうるか否かについて、などに絞り込みました。ガチンコでやりたいと思いますのでご期待ください。
テキスト解釈 ― 2008年07月20日 16時23分25秒
研究では、さまざまな状況で、テキストの解釈を行うことになります。手紙とか、上申書とか、推薦文とか。やっかいなのは、文章の表面と、書き手の意図にしばしば食い違いがあることです。「おめでとう」という手紙が残っているとしても、書き手が本当に祝っているのか、単なる外交辞令なのか、それとも皮肉でさえあるのか、さまざまに考えられます。
なぜこう言うのかといいますと。私は前々回、「洞察力を讃える」というブログを書きました。巨人軍の補強の成功に関するものです。そうしたらある方から、「巨人ファンなのですね」という感想をいただき、考え込んでしまったのですね。そう思って読まれた方、どのくらいおられるのでしょうか。
ホームページの頃からご覧の方、また、このブログを最初から読んでおられる方は、私が筋金入りのアンチ巨人であることをご存じのはずです。巨人さえ負ければどこが勝ってもいい、という明瞭なポリシーで、日々どん欲に、野球とかかわっております。
その私が、息を吹き返した巨人軍の快進撃に直面し、その原点にかき集め補強があることに切歯扼腕の思いを抱きながら、言葉遣いに細心の注意を払いつつまとめたのが、「洞察力を讃える」という文章です。もちろん、善意ではありません。「せっかく原監督がおられるのに」というくだりなどは、その後起こったピンチでの上原起用のような采配を、どんどんやってほしい、という意味を込めて書いているのです。
まあ、あの文章は、二通りに読めると思います。私がアンチ巨人であることを知っていて読まれるのと、知らずに読まれるのとでは、受け取る意味も、読む面白さも、全然違ってしまうことでしょう。これって、ほとんど教材ですよね(笑)。
独学 ― 2008年07月13日 22時54分46秒
花岡千春さんが、清瀬保二(1900-81)のピアノ独奏曲の全曲(!)録音を発表されました。ベルウッドからの2枚組です。
ぽつりぽつりと抒情を語る趣のスケッチ風小品は、どの曲もごくごく簡素、木訥。こうした小品を味わい深く演奏し、どの曲からも独特の光を引き出す花岡さんの見識に脱帽します。
リーフレットの中に、「独学とは、自分が自分の作品の批評家にならなければならないことである」という清瀬の言葉が引用されていました。はっとする言葉でした。
私自身、音楽研究は独学だという意識をもってやってきました。こう書くと、すばらしい先生方の教えを受けながらなんということを言うか、というお叱りを受けそうですが、先生方から貴重な教えを受けたということと、私の独学意識は、抵触しません。むしろ、自分自身の力で進もうと悪戦苦闘するという前提が、尊敬する先生方との出会いを導いたと言えると思っています。独学であるがゆえの弱点も、自分としてはさまざまに意識していました。
なぜこんなことを書くのかというと、今の学生さんが、自分自身の力で徹底して考えることを、あまりしないように思えるからです。多くの大学が手取り足取りの親切な教育を標榜し、マンツーマンの指導を行うようになっている。そうなると、自分自身で極限まで詰める前に、先生のところにもっていって教えてもらおう、というスタンスになってしまうのではないでしょうか。
準備した論文草稿なり、翻訳なりを読んでいて、この人は本当にこれでいいと思って持ってきているのだろうか、と思うことがあります。やはり、自分の価値観で磨けるだけ磨き、その上で先生の判定を乞わないと、本当の力はつかないと思う。演奏でもそうですよね。自分の解釈ができていないうちにレッスンにもっていっても、先生の教えを本当には吸収できないと思います。
ですから私は、自分の弟子たちも、みんな基本的には独学していると思っているのです。心配性の方のために注釈。この項目は清瀬に触発されて書いたものであり、ここしばらくの論文指導への不満から書いたものではありません(笑)。
ソノシート ― 2008年07月09日 23時52分01秒
自分の若かった頃を、今の若い人が研究している、というシチュエーションに出会うようになりました。若い人は当然文献から入るわけで、実感はもっていない。こちらは実感ありありで、そのギャップが面白いです。
そんなとき、オレはそのとき生きていたんだぞ、と威張りたくなりますが、考えてみると、どこまで時代全体を公平に知っていたか、怪しいもの。狭い環境で、自分の関心を追い求めていたに過ぎないからです。そういう意味では、しっかり研究してもらうことで、かえって時代が公平にわかる、ということがあるのかも知れない。大いに研究していただきたいと思います。
学生の発表の中に、「ソノシート」というアイテムが出てきました。学生は、昔そういうのがあったらしい、というスタンスでやっています。でもわれわれはたちまち、なつかし感覚になってしまう。安価なメディアとして急成長したが、限界も多く、長続きしなかったものです。
雑誌の付録に、よくついていたのではなかったでしょうか。私が強烈な印象にあるのは、小学生の頃、雑誌の付録についていたプレーヤー(!)を組み立てたことです。こんなおもちゃみたいなもので音が出るとは信じられず、半信半疑で鳴らしてみると、「京の五条の橋の上、大の男の弁慶が」と、歌が聞こえてくるではありませんか。そのメディアが、ソノシートでした。赤いペラペラのディスクで、いかにも安っぽかったのを思い出します。
〔付記〕意外にこれが、のちのレコード熱の第一歩だったのかもしれません。
学問とは何か、を知るために ― 2008年07月07日 23時02分08秒
尊敬する友人、関根清三さん(東大教授)が、すごい本を書きました。『旧約聖書と哲学--現代の問いのなかの一神教』(岩波書店)というものです。
関根さんは、昨今優勢な歴史学的解釈に対して哲学的解釈の復権を唱え、旧約聖書から、今日なお有効なメッセージを救い出そうとしておられます。旧約のマソラ本文や七十人訳、アリストテレスや現代各国語の哲学に及ぶ膨大なテクストの読み込みに圧倒されるのが、まず第一歩。声高な一神教批判とも真摯に向き合いつつ熟慮を重ねる誠実そのものの姿勢に、深いところから心を温められてゆくのが、第二段階。読むにつれ、これにくらべたら私など何も勉強していないなあ、という思いがわき上がってきて、下を向きます(←掛け値ない実感)。でもそう思えることが、不思議なうれしさを伴っているのです。
学問とは何か、哲学とは何か。わからなくなったら、この本を読むのがお勧めです。古今の先学に学びながら、重要な問題を批判的に、良心的に徹底して考えてゆく著者の姿勢が、その答になることでしょう。本物と偽物の違いも、わかるようになるはずです。
大学院の現況 ― 2008年06月29日 22時31分55秒
昨日の土曜日は、朝日カルチャーの新宿校から横浜校へはしご。12:00に講義が終了、12:15新宿発、12:47横浜着、13:00から講義開始、というスケジュール。新宿駅が西口から最遠の1番線だったため少々走る羽目になりましたが、案外間に合うものですね。
しかし、やっぱり疲れました。この6月は本当に仕事が立て込んでいて、神経も使いましたので、終わったあとはぐったりしてしまいました。ほとんどがうまくいったということは、7月にツケが来るこということです(ご存じ私の理論)。でも毎回できるかぎり準備して臨みましたし、運に委ねているわけではないので、あまり心配しないことにします。
金曜日には、恒例の大学院の入試説明会がありました。正式には大学のホームページを見ていただくとして、私の個人的な立場から少し補いを。
ドクターコースができて2年立ちましたが、学生は本当に恵まれていると感じます。入学者全員に対して奨学金があり、授業料が事実上免除になる。TA(ティーチング・アシスタント)という制度が機能し始め、先生の授業に協力しながら、一定の謝礼と教歴がもらえる。実技の学生も理論の学生も、大学と一体になりながら、専門的な勉強を進められるわけです。
博士論文を書くのは大きな課題ですが、それにも、マンツーマンの指導がついています。私は声楽専攻の全員と音楽学専攻の希望者を指導するのですが、声楽の入学者が多いため、目下声楽5人、音楽学1人を指導して、大忙しです。でも実践とかかわる研究が私の本領ですから、やりがいも十分あります。みなiBACHコレギウムにかかわってくれており、バッハの専攻者も、博士、修士に1人ずついます。そんなわけで、大学につとめて初めて、盛り上がりのようなものを周囲に感じている昨今です。
修士の方も新カリキュラムになり、たとえばバッハのプロジェクトを、授業として選択することができるようになりました。奨学金も、博士ほどではありませんが、かなり充実してきています。というわけで、いっしょに勉強しましょうとお勧めしても、空手形ではないと思います。来年ドクターに入られますと、最後の年まで、私が指導できます。
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