悲観主義 ― 2009年04月15日 23時40分49秒
「ツキの理論」などを述べているせいか、私の「悲観主義」を指摘なさる方が多くなりました。たしかに、冗談を言うときなど、私の心にはとっさに、悲観主義の回路が働きます。概して、悪い結果に備えようとする傾向があるようです。
私が大学生の頃に三島由紀夫に心酔していたことと、それは関係があるのかもしれません。私の心酔は、政治思想とか薔薇の花関係とかいうことではなく、三島の中にあるニヒリズムの傾向に向かっていました。真の文学とは、この世には何もないということをこれでもかこれでもかと教えてくれるものだ、と、彼の著書にあったことを覚えています。
今から振り返ると、こうしたことに象徴される「懐疑の洗礼」とでも言うべきものが、当時の私を襲っていたようです。今の私はニヒリズム信奉者では全然ないですが、「この世には何もない」と思った時期があることによって、「しかしある」もののありがたさを、深く感ずるようになったと思います。何かを信じるためには、徹底して疑う段階が、どうしても必要です。疑うだけで終わっては、もちろんだめなのですけれど。
齢23年 ― 2009年04月20日 23時39分56秒
今月から、「楽しいクラシックの会」(通称たのくら)が、23年目に入りました。毎月1回やっているクラシック音楽の講義が23年も続くというのは、われながら信じられないことです。立川駅から歩いて15分近くかかる学習館(錦町)を場所としているだけに、なおさら。場所を提供している市の支援、さまざまな役職をボランティアでこなしている会員の方々の尽力たまもので、ありがたいかぎりです。
4月から来られた新しい会員の方が、「楽しいクラシックの会」という名前にしては内容がずいぶん専門的だ、とおっしゃっいました。たしかに名称と内容のある種のギャップは、私も当初から感じていたことです。なごやかに、冗談をまじえつつ進めているという意味では「楽しい」という看板に偽りがあるわけではないのですが、話している内容は、それなりの専門性を含んでいる。皆さんに「来てよかった」と思っていただこうと思うと、どうしても、そうなってしまうのです。
音楽は、どの芸術と比べても、説明に、専門的な語彙を必要とします。それをどのぐらい使って良いか、いけないかは、執筆や放送のおりに、いつも問題になることです。全然使わなければわかりやすいが、それでは、突っ込んだ話ができない。かといって、専門用語をその都度説明するためのスペースは用意されていない。以前この欄で楽譜の使用について書いたことが、専門用語についても当てはまるわけです。
私は、できることなら「専門的なことをわかりやすく」発信したい、と念願しています。しかしそのことは困難ですので、専門用語を知らなくても何となくわかる、という前提で、知識のある人に対する情報提示も、一種の確信犯で、行うようにしています。クラシック音楽は知識を深めることで面白さが増すのが売りですから、専門用語を使わない発信には、限界がある(と思う)。わかる人にその先を、という原則があればこその23年ではないかと思うのですが、いかがでしょう。
今期も、講義あり、鑑賞あり、実演あり、旅行ありの楽しい1年でありたいと思います。
空白期間 ― 2009年04月21日 22時47分19秒
4日間、更新を休みました。心配してくださった方々がおられるようで、申し訳ありません。たしかにあまり調子はよくなかったのですが、《マタイ受難曲》のプレレクチャーをこなすなど、仕事はたくさんしていました。少しずつ、また更新したいと思います。
これだけ間が空くと、さぞかし順位が下がっただろうと思いますよね。ところが、アクセスしてみるとなんと、いままでで最高の順位ではありませんか。そこで更新したら、今度はいくつか下がりました。ここから見ると、やはり厳密な数値が出ているわけではなく、一喜一憂には値しないようです。しばらく続けていた観察への、これを結論としたいと思います。
立川駅の構内に、焼きそばの専門店が出現しました。もう日にちはかなり経ちましたが、その間、どんな時間帯に見ても、行列が出来ている。これだけ成功するお店も、珍しいんじゃないでしょうか。
ちょうど行列の短いタイミングを見つけて、入ってみました。まあ手軽で悪くないかな、という印象です。メニューは「ぶっかけオムそば」など、太麺が力強く盛られたものが中心。並ばなくて済めば、もっといいのですけれど。
こだわり ― 2009年04月22日 22時42分08秒
来週行われる新歓コンパのために、自己紹介のためのQ&Aがまわってきました。その中に、「あなたのこだわりは?」という項目があります。私は小考の末、「効率」と書きました。
効率は、私が若い頃からずっと追求してきたテーマです。本を出したり、研究を発表したりするとよく「いつなさるのですか」と尋ねられますが、その背後にはつねに、効率向上への工夫があるわけです。もちろん、スローライフの提唱にも意義を理解しますし、効率を問えない仕事(看護、介護のような)に真摯に取り組んでおられる方には頭が下がる思いをしていますが、自分自身については、効率を重視して歩んできました。
でもそれも限界に近づいたと、実感します。年齢と共にがんばりが利かなくなってきたことがひとつ。もう一つは、「何かに立ち会う」という機会が立場上たいへん増え、効率観念を取り下げなくては対応できなくなってきたことです。後者の典型として、会議があります。
会議が多すぎるのか、本当はもっとしなければならないのか。どちらにも根拠がありそうです。しかし自分の会議嫌いだけは、いかんともしがたい。興味のあることについて自分の意見を言うのはいとわないのですが、血液型のせいか興味のある範囲が大いに偏っているので、本当はこういうことも大切だ、しかし自分には興味がもてない、となることが多いのです。そのたびに自分が無責任な人間であるように思えてきて、沈んでしまいます。
どの組織でも、報告し了解を得ることは、大切な作業ですよね。会議の多くが報告を受けて承認したり了解したりする、という流れになるのは、当然でもありましょう。時間を惜しまずに協力している方々がたくさんおられますので、それを見るにつけ、自分に対して情けない気持ちになります。
名を連ねる ― 2009年04月23日 22時20分00秒
隠居老人さん、いいお話をありがとうございました。効率を求めて苦闘した日々があるからこそ、スローライフにも味が出るということですね。もって範としたいと思います。
がむしゃらに仕事をしていた若い頃にも、仕事を減らしたいとは、常に思っていました。いや、正確には、仕事を減らし、大切なことをもっとていねいにやるべきではないか、という思いがたえず去来していたのです。でも結局うまくいかなかった。引き受けられるものはほとんど引き受け、その日その日を切り抜けて、今日まで来ました。
その点については、後悔していません。たとえば私の音楽史の勉強は、事実上、レコードの解説を書くことで積み重ねられていったからです。もう1回若いときに戻っても、同じ道をたどると思います。
ただ昔と違うのは、「一員として名を連ねる」といった仕事や何かを統括するといった仕事が私に期待されるようになった、ということです。どちらも、私にはまったく向かない仕事です。私は自分に管理能力が欠けていることを熟知していますが、なぜ欠けているかを考えると、それは管理というものにそもそも関心がないからです。(謙遜ではありません。たとえば統率力なら、必要な場合に発揮するぐらいはあると思います。)
人間は建前では生きていけないなあと、つくづく思います。さしさわりがあったら申し訳ないですが、ひとつだけ例を挙げましょう。私は自治体のもつある財団の評議員をしています。そこでは文化的な活動の報告が行われたり、予算決算の数字が示されたりします。自治体の文化活動はとても大切なことですし、それをしっかり見届けて、支援しフォローすることが、評議員に求められています。
でもそれは建前。それはわかっているのです。一方で、配られるエクセルの表に私はまったく関心がもてない、という、厳然たる事実があります。かくして私は、もっと興味のある仕事に時間を使いたい、という本音をかかえながら、建前を遂行できない自分に遺憾の目を向けて座っているわけです。(もちろんこうした仕事は辞退して、別の熱心な方におまかせするべきだと思います。しかしそんな私に対してもう一期ぜひとのご指名があり、結局、建前と本音の相克から抜け出すことができずにいるのです。前述した「一員として名を連ねる」仕事の典型です。)
TA感謝 ― 2009年04月24日 22時19分35秒
後ろ向きのコメントを続けてしまいましたが、今日は授業と指導をハイテンションでこなし、充実感一杯です。人間、やはり向き不向きがありますね。
昨年の《フィガロの結婚》の授業ではTA(ティーチング・アシスタント、授業補助してくれる大学院生)の3人にたいへん助けてもらいましたが、今年度も、午前中の「(ドイツ)歌曲作品研究」に3人、午後の西洋音楽研究(音楽学専攻の演習)に2人のTAが入ってくれることになりました。授業がこれで、本当に盛り上がるのです。たとえば、戸澤史子さん(博)、浅田直樹君(修)という2人の弟子が参加してくれたことで、専攻のディスカッションがとても充実しました。私と学生(1、2年)の距離を埋めてくれるからだと思います。
歌曲のTAは声楽専攻ですから、模範演奏をしてくれます。しかもみな「くにたちiBACHコレギウム」のメンバーなので、実質初日の今日は、準備中の《マタイ受難曲》から、3つのアリアを披露してもらうことができました。みな意気込みをもって準備してくれているので楽しみです。
TAのひとり、高橋幸恵さん(メゾソプラノ)のバッハは今日初めて聴きましたが、すばらしさに感嘆しました。音感、リズム感が卓越していてセンスがよく、細かいところまで配慮が行き届いていて、品格があるのです。将来、いいバッハを歌ってくれると思うので、皆様、応援よろしく。
ミケランジェリ ― 2009年04月25日 23時28分29秒
今月から、毎日新聞のCD推薦欄に、DVDが加わりました。まずCDから選び始め、ファビオ・ルイージ指揮、ドレスデン・シュターツカペレのシュトラウス・シリーズから、《アルプス交響曲》と《4つの最後の歌》を入れることを決定。《アルプス交響曲》は、かつては映画音楽などと言われましたが、とてもいい曲だと思います。アルプスの自然の描写力は卓越したものですし、登山と人生の重ね合わせには、いつも心に響くものを感じます。それ以上にこのCDでは、アニヤ・ハルテロスの歌う《4つの最後の歌》が、「広やかに幻想を湧き上がらせて」(←自分の引用)見事です。
これと、有田正広ご夫妻の「フリードリヒ大王の宮廷音楽」(浜松市楽器博物館の「クヴァンツ・フルート」を使ってもので、さすがの味わい)を決めた上で、DVDの選考に入りました。手持ちが少なかったので、立川のショップで購入。最後に残ったのが、ベネデッティ=ミケランジェリが1962年にイタリアの放送局で録画したライヴ「ミケランジェリRAI1962」でした。
ミケランジェリというピアニストにはもともとたいへん関心がありましたが、最晩年の実演の印象は、いいものではありませんでした。閉鎖的、という一語に尽きるように思われ、周囲からは、人間性を喪った演奏だ、という批判もきこえてきました。
で、久しぶりに、画面で全盛期のミケランジェリと対面。ベートーヴェン、ショパン、ドビュッシーがまとまったアルバムで、分売もされています(デノン)。
いや、すばらしかった。最初のベートーヴェンの最後のソナタは若干違和感がありましたが、あとは、ピアノの通念をはるかに超える名演奏が並んでいます。「信じがたいほどの透明な響きで本質のみを弾くことにより、すべての作品が、端正な古典へと高められてゆく」(引用)。ベートーヴェンの巻に収められたガルッピ、スカルラッティが最高だと思いますが、ショパンの、感傷をいっさい省いたアプローチからかえって引き出される高貴な悲しみにも心を打たれました。本当の芸術家だと思います。
おお、リフキン方式! ― 2009年04月26日 23時24分36秒
昨年の学会の折、会場の売店で、《マタイ受難曲》の1742年バージョン(最終上演版)というのを買いました。しかしだいたい予想がつくので、それっきり今日まで、机の上に積み上げたまま。今日、片付けのついでに鳴らしてみて、びっくりしました。
冒頭合唱曲の前奏がほとばしるような勢いで終わると、歌い出したのは第1グループも第2グループも、さらにはコラールも、ソロではありませんか!そう、完全なるリフキン方式なのです。この指揮だれ、と思って確認すると、ジョン・バットという、一昨年の「ロ短調ミサ・シンポジウム」で活躍していた人。ファイナル・コンサートもこの人の指揮で、生気にあふれた演奏でした。
マクリーシュ盤だけじゃなかったんですね。リフキン方式の演奏は確実に増えつつありますが、ついにここまで来たかと、感慨を覚えました。6月のコンサートに、背中を押されたような気分です。このCD、歌い手のドイツ語発音など難点もありますが、なかなか面白いです。火曜日のバッハ演奏研究プロジェクトは私の講演ですから、そこでご紹介しますね。
読書法第1箇条 ― 2009年04月29日 23時42分33秒
1年生の専攻の授業で最近試みているのは、勉強法、整理術、時間管理法といったハウツー本の紹介を、持ち回りでやることです。まず私が先陣を切るわけですが、人のやり方を紹介するよりは自分のやり方を紹介すべきだと思い、礒山流「本の読み方10箇条」を披露しました。その第1箇条は、「面白い本だけを読む。つまらない本は途中でやめる」というものです。
この主張には、当然ながら、反論が出ます。自分が面白い本ばかり読んでいたのでは偏ってしまうのではないか、自分が苦手とする勉強にこそ力を入れるべきではないか、といった反論です。
しかし私は、大学生になったらもう、自分の面白い本だけを読めばいいと思う。授業などで課される最低限の「お付き合い」は別として、です。面白い本はどんどん引き込まれて次、次と進みますから、勉強が、どんどん発展します。一方、つまらない本はなかなかはかどらず、居眠りをしてしまったりして、効率がはなはだ悪い。つまらない本をがまんして1冊読むうちに、面白い本は5冊も6冊も読めますし、身につきます。
それだと狭くなるかというと、そんなことはないのです。知識が深まるにつれて、広がりも獲得されてゆくからです。たとえばバロック時代のドイツに詳しくなったとすると、その時代のフランスはどうだろう、ルネサンス時代のドイツはどうだろう、と、興味はふくらんでいきます。こうして得られた知識は、つながりのある、役に立つものになります。ばらばらに情報を手に入れても、それはさして意味をもたないのです。
ただこれだけでは足りないと考えて、新歓コンパの席上、ひとつの条件を加えました。それは、「困難に挑戦する」ということです。面白い本を次々と読むことがわかりやすい範囲を回っているだけではなく、より難しい本に挑戦するという方向へと発展すれば、有意義なこと疑いなしです。もちろんそこには、外国語の本も含まれます。
21年に1度の今日 ― 2009年04月30日 22時42分08秒
今日は私の誕生日でした。お祝いメールを下さった方々、ありがとうございます(全部でお2人です・・)。
1桁目が2桁目の半分、という年齢は、21年に1度しか訪れません。たぶん、もう来ないと思います。そこで、今日という1日を、日記として記録してみました。
木曜日は授業のない日のため、ゆっくりと起床。午前中は、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団の批評を執筆。午後はリフキン氏宛その他、十数通のメールを書き、余った時間で、ヘンデルのオラトリオ《セメレ》(クリスティ指揮)のDVDを視聴(視視ですか?)しました。夕方から大学の会議に出かけ、揚州商人のラーメンを食べて帰宅。いま家族と、クリスマス・ケーキを食べたところです。子供たちのお祝いは、現金入りでした(笑)。
というわけで、ごく平穏な1日。おかげさまで、元気に誕生日を過ごせました。次の誕生日も、かくありたいと思います。学生さんたちを初め、多くの方とよい関係で仕事ができることを嬉しく思います。
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