精神の静けさ2010年12月01日 08時46分38秒

11月31日(火)には、バッハ演奏研究プロジェクト・ピアノ部門の発表コンサートがありました。今年は《ゴルトベルク変奏曲》をテーマに勉強してきましたので、最初は、6人の選抜受講者による、リレー演奏。本番に向けて練習を積んできた成果のわかる、なかなか粒の揃った出来映えでした。

「ピアノで弾くバッハ」の研究を掲げて勉強してきたこのプロジェクト。常任の指導者は、ピアノの加藤一郎さんと、チェンバロの渡邊順生さんのお二人でした。第2部ではまず、加藤一郎さんによる、《半音階的幻想曲とフーガ》。加藤さんのまとまったピアノ演奏を客席で聴くのはじつは初めてでしたが、明晰な音色と知的な構成はたいしたもので、びっくりしました。次いで、お二人の二台チェンバロで、《ゴルトベルク変奏曲》の主題による《14のカノン》。渡邊さんの詳しい解説がつき、バッハの幾何学的世界のすごさを、どなたも実感。私は14のカノンの番号を読み上げる仕事でしたが、途中でわからなくなる危険があり、緊張しました(笑)。

最後は、渡邊さんのチェンバロによる《ゴルトベルク変奏曲》の抜粋演奏でした。渡邊さんの《ゴルトベルク》には本ブログでも何度か賛辞を捧げていますが、今回はとりわけ感動的で、チェンバロという楽器のすばらしさにあらためて目を開かれた方も多かったようです。渡邊さんはこの日身内のご不幸を乗り越えて演奏に来てくださいました。そのことも、感動の背景にあったかもしれません。三年間のよい締めくくりになりました。ありがとうございます。

チェンバロ演奏には何が必要か、はっきりわかったことがあります。それは、「精神の静けさ」です。静謐の中から繊細な響きが紡がれるときに、真の優雅さが立ち昇る。渡邊さんがそうですし、レオンハルトもそうですよね。

北と南2010年12月02日 23時49分17秒

1日と2日、いずみホールでは、パーヴォ・ヤルヴィ指揮、ドイツ・カンマーフィルのシューマン交響曲全曲のコンサートがありました。月をまたいでしまったためご案内ができず失礼しました。私は1日、第4番と第1番(+α)のコンサートを聴きました。

こんなシューマン、今まで聴いたことがありません。オーケストラの士気が高く、集中力が高くてアグレッシヴ。シャープな響きで奔流のように綴られてゆくシューマンは細部の着想も豊かで、きわめて独創性の高い演奏になっています。胸のすくような全力投球の演奏に接して、お客様たちの熱狂も、まれに見るほどのものでした。

オーケストラの本拠は、北ドイツのブレーメン。指揮者は、エストニア人です。エストニアがどういう風土か知らないのですが、私には、こういう演奏は北のプロテスタント圏でのみ生まれるもののように思われました。南ドイツ以南、カトリック圏の人たちは、長い文化の歴史がありますから、演奏にも、伝統を重んじる。これに対して北は宗教改革を受け入れた人たちで、実験や革新を重んじて、ゼロからの出発も辞さない。古楽において北が先行し、南がずっと遅れたのは、その意味でロジカルなことでした。生活習慣においても、そういう傾向があると思います。

シューマンの音楽に余情や奥ゆかしさを求めると、今回の演奏は、ちょっと違う。でもそこで革新を選ぶのが北の人たちらしいな、と思って聴いた私でした。

〔付記〕オペラの演出もそうですよね。北が前衛傾向、南が伝統傾向です。

12月のイベント2010年12月05日 23時49分22秒

表記のご案内です。

NHKFM「バロックの森」の出演は、明日から。今月はドイツ・バロックのクリスマス特集ということで、バッハの《クリスマス・オラトリオ》を毎日1部ずつ聴き、さまざまな作曲家のクリスマス音楽を組み合わせる、というプログラムを作りました。演奏は、アーノンクールです。シェーンベルク合唱団のすばらしい、円熟した演奏です。

最初のイベントは、14日(火)。バッハ演奏研究プロジェクト声楽部門のコンサートです。18:30から、国立音大小ホール。今年は、指揮者大塚直哉さんの集めた若手器楽アンサンブルが少しずつ成長し、自前でコンサートが組めるようになりました。要所にはベテランが入り、中でもガンバは、神戸愉樹美、平尾雅子の二枚看板を並べています。

作品は名作揃い。「カンタータとは何かを知りたければこれを聴いてください」と私の推奨する第179番《心せよ、お前の敬神が偽善とならぬように》と、感動あふれる最高傑作の第198番(選帝侯妃追悼カンタータ)、それにモテット《主に向かって新しい歌をうたえ》です。小泉惠子、阿部雅子、加納悦子、藤井雄介、小堀勇介、小川哲生、千葉祐也といった方々が、コンチェルティストを務めます。相当いいと思いますので、ぜひお出かけください(入場無料)。

18日(土)10:00からの「たのくら」(立川市錦町地域学習館)は、「東欧オペラの魅力」という話をします。バルトークの《青ひげ公の城》を、メインに取り上げます。

25日(土)13:00からの朝日カルチャーセンター横浜校のバッハ講座は、『魂のエヴァンゲリスト』の「若き日に死を見つめて」の章第1回です。カンタータ第106番を中心にした話になると思います。

26日(日)は、すでにご案内した、すざかバッハの会(14:00、須坂メセナホール)。モンテヴェルディの《ポッペアの戴冠》を、渡邊順生さん、平尾雅子さんらの器楽と、私の「手兵」たちのスタッフで上演します。今日ようやく、「演出ノート」を配布したところ。目下横浜の渡邊邸で、練習が進められています。温泉もあるいいところですから、観光を兼ねて、ぜひいらしてください。

「艶」2010年12月08日 13時43分25秒

まだ大学院にいた頃、先輩から「君のスケジュールは分刻みだね」と言われたことがあります。美しき誤解で全然そんなことはなかったのですが、今週は、これって分刻み?という実感。とりあえず今週を乗り切るのが目標です。今は静岡県。新幹線の中です。

昨日は、カンタータのコンサートの、ゲネプロ。本番が14日に迫っていますので、みんな集中力が高まってきました。それにしても、やるたびに大きく見えてくるのが、198番の選帝侯妃追悼カンタータです。バッハの最高傑作の地位を争う作品ですね。神戸、平尾の二枚看板を揃えたガンバがさすがに強力で、加納悦子さんの歌われるアルトのアリアの効果が倍増。薄幸のヒロインに対するイメージ作りのしやすさが、合唱にも力を与えているようです。

この作品の存在感は、まったく独特。バッハというと奥に分け入るにつれて深いというイメージがあると思いますが、この曲では創意がすべて花開くように外に表れていて、内面と外面が一体になっている。漢字一文字で表せば、「艶」という字が浮かんで来ます。こういう曲は、他にちょっと思い付きません。

別の言葉で言えば、きわめて修辞的に、効果を張り巡らせて書かれた音楽です。ソプラノ独唱の阿部雅子さんがそのことを踏まえた歌作りをしていることに、共感を覚えます。

特別な作品だと思うにつれ、バッハが主要曲をケーテン侯の葬送音楽やマルコ受難曲に転用したのは当然であるように思えてきました。一回では残念過ぎます。

存在への愛2010年12月10日 11時54分00秒

毎朝9時からやっている「オペラ史B」の授業が、あと1回を残すのみになりました。

「B」で採り上げるのはイタリア・オペラ以外の作品。1日1曲で、今日まで12曲を勉強しました。パーセルの《ディドとエネアス》、ラモーの《優雅なインドの国々》、ヘンデルの《ジュリアス・シーザー》、モーツァルトの《後宮からの誘拐》と《魔笛》、ワーグナーの《タンホイザー》と《ニュルンベルクのマイスタージンガー》、ムソルグスキーの《ボリス・ゴドゥノフ》、シュトラウスの《ばらの騎士》、バルトークの《青ひげ公の城》、ショスタコーヴィチの《ムツェンスク郡のマクベス夫人》、ガーシュウィンの《ポーギーとベス》の12曲です。

ほとんどの学生がイタリア・オペラの勉強から始めるので、知らないオペラばかり、という人もけっこういたはず。しかし皆さんは、むしろ足りない曲を、次々と思い浮かべられることでしょう。どうしてベートーヴェンの《フィデリオ》がないの?ウェーバーの《魔弾の射手》は?ヨハン・シュトラウスの《こうもり》は?オッフェンバックの《ホフマン物語》は?チャイコフスキーの《オネーギン》は?サン=サーンスの《サムソンとデリラ》は?マスネの《ウェルテル》は?ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》は?ヤナーチェクの《イェヌーファ》は?プーランクの《カルメル会修道女の対話》は?等々、きりがありません。

世界のオペラは、これほど、広い世界なのですね。指が20本あっても30本あっても、傑作の数には及ばない。今日の《ポーギーとベス》(ラトル指揮)は、昨日の下調べの段階から感動してしまい、涙ながらに資料を作成(笑)。今日また、ブルーノートに酔いしれた、という感じです。

たくさんのオペラを時代順に見てきて思うこと。作風や様式は全然曲によって違いますし、硬派な素材も、軟派な素材もある。でも名曲のすべてを貫いているのは、存在への愛、存在をいとおしむ心ではないでしょうか。それを共有できるのが、オペラの体験だと思います。

おめでとう2010年12月11日 10時29分22秒

昨日本選が行われた第21回友愛ドイツ歌曲コンクールで、私の論文弟子である小島芙美子さんが優勝、川辺茜さんが2位・聴衆賞・シュトラウス賞というニュースが入りました。おめでとうございます。

26日の《ポッペアの戴冠》にも、小島さんはドゥルジッラ、川辺さんは幸運の神+小姓で出演します。おかげさまで、公演にも箔が付きました。長野の方々、ご期待ください。

話は変わりますが、昨日研究室で「ニヒル」という概念が話題になり、「ニヒルな人」って誰だろう、とみんなで考えました。多々候補が挙がり、名簿なども繰ってみましたが、今は亡き佐藤慶のような人って、案外いないんですよね。寡黙、孤高、陰影・・・といった諸条件も検討し、かなり価値観が高いという結論になりました。皆さんの周囲にはおられますか。容易に見あたらないのは、「武士は食わねど高楊枝」「父親の威厳」といった価値観がなくなって、みんなパンダやコアラのようなお父さんになってしまったからでしょうか。

【付記】澄音愛好者さん、候補としてどうでしょう。

ニヒリズム2010年12月12日 23時48分53秒

澄音愛好者さん、さっそくありがとうございます。澄み切った音にニヒルに耳を傾けておられるご様子を、訪問者の皆さん、それぞれに思い描いているのではないでしょうか。

前話ではニヒルの条件として寡黙、孤高、陰影を挙げましたが、寂寥感というのもあるかもしれないですね。高倉健ですか(笑)。私をニヒルとはどなたも言ってくれませんが、私、ニヒリズムは強靱な精神の形成に絶対必要だと思っているのです。大人になるということは、それなりにニヒリズムを体得する、ということなのではないでしょうか。いつまでも幼児的、というのが一番いけないと思います。

過日、図書館の広報誌から、自分に一番影響を与えた本について書け、という原稿を求められました。実存的なレベルで考えると、その答えは三島由紀夫の『豊饒の海』ということになるので、四部作に関する学生時代の熱狂を綴りました。三島由紀夫の文学観は、「この世には何もない、ということを、これでもかこれでもかと教える」というものです。したがって私は、ニヒリズムに傾倒していた、ということになるわけです。

あれほど熱狂し、尊敬していた三島を、その後、まったく読まなくなりました。でもその体験は、人生にとってとても大きかったと思うのですね。人との出会いとか、人の温かさとか、世の中には感動的なものがたくさんありますが、それは、ニヒリズムの洗礼を受けているからこそ、本当に受け止められるのではないかと思うのです。ニヒルな人というのは、そのままずっとニヒリズムということなのでしょうか。それはちょっと、考えにくいのですけれど。

費用対効果2010年12月14日 09時15分35秒

藤原正彦さんの週刊誌連載を、毎回が全力投球の力作であることに驚きながら、読んでいます。

前回は、科学の将来を憂える内容のものでした。どのような研究がどのように人類に役立つかは誰にもわからないことで、研究は無駄を覚悟で幅広く行われていなければならない、しかしどの大学でも予算はどんどん削られ、これでは将来が危ぶまれる、という趣旨だったと思います。どの世界でも同じなのですね。文系の人間から見ると、理系は大きなお金が動く世界ですごいなあ、と思っていたのですが。

はっとしたのは、「費用対効果」という考え方は短期的な発想なので有害だ、と述べておられることでした。「費用対効果」の観点を自分がいろいろな局面に導入するようになっていることに気づいたからです。たしかに、何事も「費用対効果」で考えるのは、縮小、衰退に向かう発想かもしれませんね。

国にも自治体にも団体にもお金がなく、毎年予算が削られていく時代。研究や芸術にお金を、という声もあげにくい環境になりました。しかし現在われわれが享受している便宜や感動が、多数の先達の研究や努力の成果だということを、忘れるべきではないと思います。

聖書の復讐2010年12月15日 08時09分31秒

カンタータの解説をするときに、私はよく、聖書を朗読します。そして、そこにはこういう意味がある、といった話をする。最初のうちは、信仰もないのにこんなことをしていいのか、という「畏れ」を抱きつつやっていましたが、だんだん慣れてきて、畏れが薄らいできていました。

昨夜の、くにたちiBACHコレギウムのコンサート開始前。私は研究室に戻り、使う聖書に付箋をはさんで、ホールに戻りました。あと5分。さて準備をしようと控え室を探しましたが、聖書が、どこにも見当たりません。しかし、図書館に借りに行く時間はない。さあ、困りました。

でも思いつくものですね、方策を。スマートフォンが、あるじゃないか。そこにDropboxを入れているから、研究ファイルを見られるじゃないか。電池も今日は満タンじゃないか。

さっそくDropboxから0179.docというファイルをダウンロード。カンタータ第179番の情報庫です。ところが、聖句が入っていない。聖句が入っているのは、「0179詳細」という方のファイルであることを思い出しました。で、そちらをダウンロード。そうしたら、開けないのです。一太郎のファイルだったからです。さあ、困りました。

でも思いつくものですね、方策を。新共同訳のサイトに入ればいいじゃないか。それをスマートフォンを見ながら読めばいいじゃないか。高度な情報生活の立証にもなるじゃないか。

さっとくサイトに入りました。ルカ福音書のページへ。当該の「ファリサイ人と徴税人のたとえ」は第18章なので、画面の送りに時間がかかります。しかし無事、画面に出現。話しているうちにきっと電源がoffになりますから、必要な局面でもう一度、電源を入れることになりそう。そのときにふたたびその画面が出てくれるかどうか、ためして見ました。ちゃんとルカ18章に戻ります。一安心。この時点で、予定の開始時間に少し食い込んでいました。

あわててステージに出て、解説を開始。聖書を読む段になり、私は意気揚々とエクスペリアを取り出して、経緯を述べ、電源を入れ直しました。

そうしたら、なんと!検索画面に戻ってしまったのです。これだと、新共同訳のサイト→ルカ福音書のページ→第18章への送り、というプロセスをもう一度やらなくてはならない。少し試みましたが、かなり時間がかかりそう。後ろにはすでに演奏者がスタンバイしており、10秒、15秒を大切にしなくてはならないときです。私は結局聖書朗読を断念し、解説にとどめました。「お前のごとき者が人前で読んじゃいかん!」と聖書に言われたわけですよね、これは。次はせめて「畏れ」をもって臨みたいと思います。

いきなりこのような大失態で、気持ちが上ずり、トークはあまり上出来ではありませんでした。しかし演奏は、3年間の研鑽の集大成として、相当良かったのではないかと思いますが、いかがでしょう。時間が押してしまったなあと思って休憩時にスケジュール表を見ると、むしろ予定より速く進行している。これは、モテット《主に向かって新しい歌をうたえ》がいつもよりはるかに速いテンポになったからだそうです。スピリット全開の二重合唱を、すごいなあと思いながら客席で聴いていたのですが。

悔い改めのカンタータ第179番には心理を直撃されましたが、後半の第198番では気持ちに若干の余裕が出て、厳粛かつ艶麗に展開される名曲を楽しみました。コレギウムの合唱は堂々たる顔ぶれで、誰がソロを取ってもおかしくないほど。でも、ソプラノもアルトもそのほとんどが、私の論文弟子なのですね。いわば身内を中心にこのようなコンサートを開くことができたわけで、こんなにありがたいことはなく、この時間を、一生の思い出として心にとどめようと務めました。音楽のために悪いツキを背負う役割を果たせて、本望です。(聖書は、まだ出てきません。)

聖書の意思?2010年12月17日 11時47分15秒

笛吹き小僧さん、澄音愛好者さん、貴重な感想コメントありがとうございました。こちらで対応します。

お褒めにあずかった若いテノールは小堀勇介君といいまして、優秀な頭脳と温かい心をもったすばらしい歌い手です。3月30日にいずみホールの「日本の歌」に出演しますから、関西の方、ぜひ聴いてあげてください。

合唱における男声の充実はおっしゃる通りで、多くのメンバーがバッハを愛し、バッハを理解しているのが強みなのだと思います。本当はソロを歌わせたい人が、たくさんいるのです。

澄音さんの「バッハにここまでしてもらった選帝侯妃はなんと幸せな人だろうか」というご感想について。私も最初すごくそう思ったのですが、今は迷っています。だって死んでから作曲され、演奏されているわけですよね。即物的に言えば、本人は無関係。それとも、思いは天に届くのでしょうか。

スマートフォンで大失態を犯した私ですが、案外喜んでくださっている方の多いことがわかってきました。それも私に近い人ほど、人によっては手を打たんばかりに、喜んでくださっているようなのです。人様に喜んでいただくために活動しているわけですから、ありがたいことだと思います(ちょっと割り切れない)。

聖書、出てきました!私の研究室の机の上に置いてありました。付箋をつけて、そのまま置いていってしまったようです。私は聖書を取りに研究室に戻ったわけなので、それを置いて出るという可能性はきわめて考えにくいのですが、何か考え事をしていたのでしょうか。それとも、聖書に、「お前に読まれたくない」という意思があったのでしょうか。