ワーグナーはなぜ長いか2013年05月28日 09時38分32秒

先日の研究発表後の懇談のおり、ワーグナーは長くて、とおっしゃる方が何人かおられました。その折りに述べた私の「なぜ長いか論」をご紹介します。もちろん長い理由は複合的で、最終的にはワーグナーの人間性がかかわってくると思いますが、ちょっと気づきにくい(と思われる)一要因について述べました。答は、「ワーグナーが自分で台本を書いたから」というものです。

ワーグナーは、台本も音楽も自分で書きましたが、台本を作りながら作曲していったわけではありません。彼の中には台本作者と作曲家が別々に住んでいて、まず台本作者が台本を書き、その完成後に、作曲家にバトンタッチするという順序を踏んでいました。台本が完成すると、必ず朗読会をやって、新作を披露する。先に出版してしまったこともあるほどです。

こうして出来上がった台本に対して、音楽を付けていく(もちろん一からではないでしょうが)。ということは、台本が戯曲として完結している、ということです。すなわち、言葉の委曲を尽くして台本が出来上がっており、説明も遺漏なく入っている。本来、オペラの台本としては長すぎるのです。

既成の戯曲をオペラにする場合には、音楽の時間を考えて、ずっと短くするのが通例(シェークスピアに基づくボーイトの台本のように)。プロのオペラ台本作者なら、当然そこは呑み込んで作詞します。しかしワーグナーの場合にはそうした歩み寄りがなく、出来上がった修辞あふれる台本をすべて生かしていくために、長くなるのです。

しかし、よく言われるように、「長さも作品の一部」であることは確かです。《トリスタン》の第1幕は、イゾルデの恨み言がくだくだと続いていて、冗長といえば冗長。しかしだからこそ、半ば過ぎに来る毒杯の場面が、大きな感動を与えます。幕が上がってさっそく毒杯では、あの効果は生まれません。

そこまで想定して長くなっている、という可能性は大いにありますが、《リング》で前編のストーリーがたえず回想の形で入ってくるのは、さすがの私もやや過剰かな、と思うことがあります。でもスリムかつ簡潔になってしまったら、もうワーグナーではないですよね。