ゼミに学ぶ2013年05月18日 23時24分36秒

毎週木曜日の、芸大ゼミ。ゴールデンウィークの恩恵にまったく浴しませんでしたので、もう6回終了しました。3回講義形式で基礎固めをし、4回目から、学生の発表に入っています。あ、テーマは《ヨハネ受難曲》です。

このゼミが、とてもいいのです。欠席者がほとんどいないし、皆、真剣そのもの。私もコアな専門部分ですから惜しみなく指導でき、それが染み通っていくように実感しています。冒頭合唱曲が、《マタイ》との比較を入れたせいもあって手間取り、同じ発表者ペアが3回継続する形になりました。しかし毎週内容が更新され、たどたどしかったのが、目に見えて向上してくる。若さの特権ですね。

一番楽しいのは、気がつかなかったような視点を、学生に教えられることです。一例を挙げてみましょう。

《マタイ受難曲》の冒頭合唱曲を、学生が、「コラール・ファンタジー」だと説明しました。何かの文献に基づいてです。私は「二重合唱の応答の中にコラールが引用される」と説明していたので、えっと思いましたが、言われてみると、確かにそうかもしれない。そう見ることによって、いくつかのことが説明できるのです。

「コラール・ファンタジー」はオルガン曲の形式ですから、バッハは最初にオルガン曲の感覚で、形式を構想したことになる。すなわち、〈おお神の小羊よ、罪なくして〉というコラールを最初に構想し、それを行ごとに提示して、合唱曲にまとめようとした。ありうることです。そうすると二重合唱を、主役というより、コラールを導き出す前模倣に当たるものと見なすことになります。まさに、地と図の転換です。

だとすれば、バッハはその構想を伝えて、ピカンダーに冒頭合唱曲を作詞させたのかもしれない。《マタイ》の冒頭合唱曲が「ゴルゴタの道行き」というあとあとの場面を提示する異例の内容になっているのは、コラールを生かすための、ピカンダーの工夫とも考えられます。

こうした発想を裏付けるのは、ホ短調の合唱曲がホ長調で終わる、「ピカルディ終止」が採用されていることです。《ヨハネ》の冒頭合唱曲は、ト短調で始まり、ト短調で終わる。それは、ダ・カーポ形式だからです。しかしバール形式に基づいて節を連ねてゆくコラールの場合は、短調なら、長調で終止するのが伝統。《マタイ》冒頭合唱曲の長調終止は、コラールが楽曲の基礎に置かれているからだと考えれば、つじつまが、ぴたりと合います(そこに復活のイメージが重ね合わされている、という解釈は、いぜん有効だと思いますが)。

こんな経験ができるのも、ゼミという形式ならでは。これからの発展が楽しみです。