司馬遼太郎2012年02月02日 23時32分53秒

私は歴史小説というものにまったく興味を抱かず、これまで読みませんでした。ミステリーであれば結末がどうなるかわからりませんから、期待して読み進められますが、歴史が題材では、結末がわかっている。それでは面白くないように、思っていたわけです。

周囲で大の歴史好きが、渡邊順生さん。司馬遼太郎は面白い、と力説されますので、1回ぐらいは読んでみようと、駅のキオスクで『関ヶ原』を書い、読んでみました。

いや、こんなに面白いとは思いませんでした。武将たちの性格付け、心理描写、あったかもしれぬ会話の妙が、絶妙の文章になっています。しかも本当によく調べられており、けっして講談調ではなく、記述に客観性があるのですね。すばらしい。感心しました。

そのことをある会食の席で話したら、「そのお年で司馬遼太郎を読んだことがない人がいるとは信じられません」と言われてしまいました。これから読みます!私は日本史を選択しなかったので、幕末から明治にかけてのことを、よく知りません。そこで『翔ぶがごとく』を読み始めました。明治を勉強したいと思います。

ロビンソン・クルーソー2011年07月25日 23時10分47秒

新しい本ばかりでなく、ずっと昔、若い頃に読んだ本を、少しずつ再読してみたい、と思うようになりました。そこでまず選んだのが、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』。この本には、少年時代に熱中しました。無人島に暮らしたい、と本気で思い、父に一笑に付されていたことを思い出します。もちろん今では、無人島生活にもっとも不向きな人間であることを自覚しています。

再読してやはり面白く、しかし面白がり方が全然違うことを実感しました。この小説、冒険の1つ1つは要するに表面で、真髄は、18世紀の西洋文明とキリスト教文化に対する、徹底した検証にあるのですね。1から独力で築きあげる生活、原住民フライデーの教育といった設定ほど、当然と思い込んでいることを根本的に問い直すのに適したものはありません。神の摂理とはどういうものか、聖書のこの言葉はどういう意味かといった、事実上の神学的議論も随所に綴られていて、読みがいがあります。

こういう発想を、本当の意味で「啓蒙」というのだなあと思います。現代の多文化主義の先取りも、しっかり行われている。鈴木建三さんの翻訳(集英社文庫)がすごく、日本語プロパーの語彙が自在に駆使されて、翻訳とは思えません。こうした名著の再読を、ときどきやっていきたいと思います。

波長の合う文章2011年07月04日 23時36分23秒

電車の中では小説を読みたいと思うのですが、知らない著者による膨大な文庫を前に、途方にくれることもしばしば。こんなのどうかな、と思って読み始め、波長が合わないままに中断してしまうこともよくある最近で+694す。

しかし久々に、感動する小説に出会いました。笹本稜平『還るべき場所』(文春文庫)。亡くなった児玉清さんの「僕は涙し、号泣した」という推薦文がオビについています。

クライマーのK2周辺峰登攀を軸にして話が進みます。私は岩はまったくやったことがありませんが、山歩き自体はずいぶんしてきたので、ある程度、想像はつく。その極限状況の描写に、青春、人生、恋といったテーマがからんでいくのですが、文章がとても密度高く、私の感覚と「波長が合う」のです。この著者を、少し読んでみようと思います。

増えてゆくツキ2011年06月15日 23時54分19秒

羽生善治名人の著書『大局観』(角川Oneテーマ21)に、ツキの話が出ていました。羽生さんによると、ツキには2種類があるというのです。1つは、私がいつも申し上げている、「総量は一定」というツキ。しかしそのほかに、どこまでの無限に増えていくツキが存在し、大きな仕事をするときにはそれが役割を演じるのだ、というのです。しかし最終的には、ツキを超越することが大事だ、とも書かれていました。

そうかも知れませんね。神様が味方する、というイメージでしょうか。総量一定は初期分配で、事後的に神様の加減する配りがあるのかも知れません。『大局観』、予想を超えるいい本です。ぎりぎりのところで真摯に生きている方の知恵が、たくさん詰まっています。

勝負の神が帰趨を左右する、野球。広島カープは見る影もなくなってしまいましたが、今日のロッテ=巨人戦はしびれました。ロッテ岡田の、ものすごいファインプレー3つ。もうダメだと思ったところで出た、伊志嶺の逆転ホームラン。これがあるから、野球は楽しいです。ジャイアンツ、借金6だそうです(笑)。

類語辞典2011年05月16日 07時55分18秒

月曜日はカントの授業なので、決死的に早起きして、予習を済ませたところです。その過程で、ある辞書がとても役に立つことに気づきました。それは『ドイツ語類語辞典』(中條宗助編著、三修社)です。似て非なるドイツ語の語彙がいくつかずつ集められ、それがどう違うかが、十分な用例付きで説明されている辞書です。

用例は、みな、日常的な文章。なぜそれが役に立つかというと、カントは日常的に使われる語を精密に規定するところから話を始めているわけで、日本語にたとえていえば、おもしろいとおかしいはどう違うか、というような議論から入ってくる。ごく普通のドイツ語語彙の、再吟味です。しかし日本語訳で読むと、快適だの善だの享受だのということになって、いきなりむずかしい観念の世界に連れていかれてしまいます。哲学系の辞典もいいのですが、概してその世界の中で整合的な説明が行われており、文字通り、雲をつかむような思いをすることが多いものです。

上記類語辞典は、詩の味読にも役に立ちます。なぜここで、この言葉でなくこの言葉が使われているのか。一般の辞書で訳語を知り、日本語に置き換えて考えるのではなく、ひとつひとつの原語を吟味して味わう習慣を身につけると、歌曲を歌う場合にもたいへん有益なはずです。

〔付記〕ページを繰ってみると、「悲しい」系にtraurig以下8語が挙げられていますが、うち6語がuウムラウトを含んでいる。「信用する」系はtrauenなど4語ですが、すべて、auの二重母音を含む。いろいろな勉強ができそうです。

バッハの暗号!2011年01月09日 11時15分53秒

12月がたいへん忙しかったので、新年になったら、ゆっくりしたペースで、と思っていました。でも、そうではなかったですね。いろいろ遅れていることもあり、いま必死の毎日です。

必死の毎日ということは、目先の事で精一杯、ということです。それでできないことのひとつは、次々にいただく本を読めないこと。本当は、友人知人の仕事を丹念に拝見して、このブログで紹介すべきだと思うのですが、なかなかそれができません。学生時代に美学の先生が、「トイレでも読めるのだから読むべきだ」とおっしゃっていたのを思い出します。でも私は凡人なので、トイレに美学の論文を持ち込む気持ちにはなれないのです。

でも、ちょっとだけご紹介しましょう。ひとつは、『思想』12月号の、シューマン特集。論文、翻訳とも最先端の知見が凝縮されていて、感心しました。雑誌が雑誌なので、岡田暁生、椎名亮輔、吉田寛、友利修、小林聰幸、堀朋平といった著者訳者は、みな剛速球。気軽に読むわけにいかないのは、仕方ありません。

津上英輔さんの、『あじわいの構造--感性化時代の美学』。身近な素材から根源的な哲学に引きこんでゆく手腕が絶妙です。美学の先輩後輩はみんな勉強しているなあと、つくづく思います。

そして、ルース・タトロー著、森夏樹訳の『バッハの暗号』。これに興味をそそられる方も多かろうかと思います。まずタイトルに、不吉な予感。私も学者なので、「暗号」という言葉に、経験的に警戒心を覚えるのです。妄想たくましい無理筋のイメーシが、頭に浮かびます。ちなみに原題は、「バッハと数アルファベットの謎」というものです。

しかしタトローさんというのは私も面識のある人で、いい加減な人ではないのです。数象徴の権威としては、長老のジーゲレ教授と並ぶ、若手のホープです。読んでみて、数象徴研究の歴史が、スメントとヤンゼンの往復書簡なども交えて詳細に研究されているのに驚嘆。妄想に妄想を積み上げる本ではなく、妄想とされるものに、学問的な見直しを加えようとしていることがよくわかります。翻訳も立派。こんなにむずかしいものをよく訳せるなあ、と、正直思います。

というわけで貴重な労作です。ただ惜しむべきは、バッハの前提としてのカバラ研究としては情報満載ですが、バッハ自身については議論が及んでいない。続編を読みたいと思います。

古典の価値2010年10月21日 11時20分14秒

モンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》の研究を進めるためにはセネカの研究が不可欠だと思うに至り、少しずつ始めています。

立川北駅(モノレール)そばにあるオリオン書房は近郊屈指の書店で、諸分野の全集など硬派の本を、広いスペースに並べています。そこからローマ古代やルネサンスに関する本をまとめて買ってきましたが、ローマ古代の文献は主として、岩波文庫の復刻から手に入れることになります。

セネカにしろキケロにしろ、ひもといて思うのは、先達の方々の翻訳が、じつに立派なことです。古代の書物の翻訳には多大の困難が伴うに違いありませんが、それらがみな、詳細な訳注とともに、わかりやすい日本語になっている。こういう仕事をされる方々は膨大な勉強を積み重ねておられるはずですが、時流に乗る性質のものではありませんし、年月をかけた成果も、大衆的な書物の洪水の中でアップアップしている、というのが現実ではないでしょうか。

翻訳というのはこういうものをこそやらなくてはいけないのだなあと思ううち、古典が忘れられていく知の現状を憂える気持ちが生まれてきました。

ワーグナー&モンテヴェルディ2010年10月17日 10時37分09秒

16日の土曜日は、琵琶湖ホールに、《トリスタンとイゾルデ》を見に行きました(沼尻竜典指揮、大阪センチュリー交響楽団)。ロビーから直接琵琶湖の景観が得られる、すばらしいロケーションのオペラ・ハウスです。どうやら各地からワーグナー好きが集まったようで、知り合いの多さにびっくりしました(うっかり橋下知事に声をかけそうになった)。

批評の場ではないので細かいことは申し上げませんが、率直のところ第2幕までは、いろいろなことが気になって聴いていました。しかし第3幕に入り急速にまとまってきて、そうそう望めないぐらいの立派な公演になったと思います。メゾ・ソプラノからの挑戦が注目された小山由美さん、本当のソプラノの声が出ていましたし、持ち前の品格で、堂々たるイゾルデ。松位浩さん(マルケ王)の朗々とした低音、加納悦子さん(ブランゲーネ)の密度高い歌唱もたいしたものでした。

このところまったく時間がなく、モンテヴェルディの研究が進められなかったものですから、エレン・ローザンドの本を携行して、道中読み進めました。後期オペラに関するきわめて詳細な研究で、参考になります。1ヶ月ぐらい休みが欲しいなあ、というのが実感。

モンテヴェルディ研究と言えば、ありな書房の「オペラのイコノロジー」シリーズに入っている山西龍郎さんの《オルフェオ》に関する著作はすばらしいですね。音楽はもちろん美術、楽器に関する知識が満載され、文明論的な切り口もあざやかで、すっかり感心しました。こんなに立派な研究を今まで知らずにいて、申し訳ないと思います。

史実は大切2010年09月03日 23時48分50秒

職業柄、本当には知り得ないことをいかにも見てきたように書いてある本には不信感を抱きます。「これは推測だが」とでも断りがあれば、もちろんOK。後世の創作なのに同時代の証言を騙るなどというのは、まったく賛成できません。

念頭にあるのは、『アンナ・マクダレーナ・バッハの思い出』という本。学生の頃感激して読み、だまされました。「小説」とでも銘打ってくれていれば何でもないのですが、訳者からも、何の断りもありませんでした。じつに不誠実(当時)。今はもう、そんなことはないのでしょうが。

あらためてこのことを書くのは、マリーア・ヒューブナー編『アンナ・マグダレーナ・バッハ 資料が語る生涯』(春秋社)という本を手に入れて、喜んでいるからです。この本には、資料の上から本当はどこまでのことがわかるかが、最新の研究に基づいて、正確に、精密に書いてある。伊藤はに子さんの訳も第一級のものです。

当然、内容は地味です。脚色してあった方が面白い、という見方もあるかもしれません。しかし、わかることを基礎に書けることだけを書き、推測を推測として加え、あとは読者の想像力に委ねるH-J.シュルツェのエッセイは、まことにみごと。これが学問というものです。

【付記】『思い出』(1925)の作者はエスタ-・メイネルという英国女流作家だそうです(本著より)。

思考力を育てたい2010年02月18日 23時37分33秒

週刊誌で読む藤原正彦さんのエッセイがすばらしいので、単行本を買いました。『数学者の休憩時間』という、新潮文庫です。共感しつつ読み進めていますが、しばしば説かれているのが、論理的思考力の大切さです。

たしかに、これは大切。論文を書くような学生にはとりわけ大切で、今の受験教育、客観テストの教育では、育てることがむずかしいものです。では、どうやって育てたらいいでしょうか。

思考力は、自分で考えることを積み重ねなければ、育ちません。つまり、教師は学生に、自分で考えさせなくてはならない。考えさせ、待ち、議論し、修正するのが理想。これは、教えすぎてはいけない、ということを意味します。

ところが、同業者と話してみると、学生が考えなくて済むように手伝ってあげるのが親切、と考える方が、案外よくおられるのですね。たとえば、いまは十分な思考力をもたない子が大学に入ってくるから、手引きを十分に与えて、それを見ながらできるように、と考える方がおられて、驚いてしまいます。もちろん学生からしてみれば、親切な、いい先生です。しかし私は、この点に関しては、自分の考えを貫いていきたいと思います。

などといいながら、つい手伝ってしまうこともある、現実。先日ある学生が、訳詞を見て欲しい、と言ってきました。力のある学生だったので、ここを再考しろ、というメモを何カ所かにつけて送り返したところ、今日、見事に直った改訂稿が送られてきて、感心。嬉しい出来事でした。