タバコ衰退(Ver.2) ― 2008年04月17日 23時43分54秒
自分の若い頃と昨今の環境や風俗の違いに詠嘆を覚えることが、よくあります。そのひとつが、喫煙。昔は、男がタバコを吸うのは当たり前で、私のように、タバコを吸ったことがない、という人はほとんどいませんでした。当然、会議や飲食の際には皆スパスパと吸って、誰も悪びれません。徹夜麻雀の際にはずいぶんいぶされましたが、吸わない自分が悪い、ぐらいに思っていました。
そんな記憶があるものですから、タバコを吸う人がいかにも肩身が狭そうな昨今の状況を見ると、多少の憐憫を感じます。しかも吸える場が、日々狭くなる。私の大学では建物内が禁煙なので、吸う人は建物前の特定箇所に出てきて吸っています。いつも同じ人ですから、目立つことこの上なし(笑)。
こうした状況なので、タバコの臭いに対する感覚が、前より鋭くなりました。もう以前のことになりましたが、タクシーに乗ると臭うことが、よくあった。道中吸えない愛煙家の方がタクシーに駆け込み、吸っていたようなのです。喫茶店も同様で、自由に吸える店はえらくタバコ臭い、という現状があるように思います。
神奈川県で、公的な場での全面禁煙条例が提案されたそうですね。飲食業界や雀荘は、こぞって反対しているとか。タバコを吸ってくつろぐお客さんも多いでしょうから無理もありませんが、反対に、タバコが辛いからそうした場を避ける人も、いるだろうと思います。個人的な体験では、灰皿に吸いかけのタバコが乗っていて、その煙jがこちらに来る、というのが最悪です・・・と書きながら、弱いものいじめをしているような感覚を覚えるのが、昔と違うところ。
森博嗣の『笑わない数学者』というミステリーを最近読みましたが、主人公のタバコを吸いたがる様子が、ライトモチーフのように綴られていました。その都度、かなりの抵抗を感じたのが不思議です。
入力装置 ― 2008年04月19日 22時06分28秒
大学の帰りには立川のビックカメラに、聖路加病院の帰りには秋葉原のヨドバシカメラに、よく立ち寄ります。最近、あるコーナーに張り付き、商品を比較検討してはそのまま帰宅、という行為を続けている。それは、キーボードとマウスのコーナーです。
気分転換にそれらを買い換えることは、たま~にしていました。コードレスに換え、トラブるのでコード付きに戻したりしたのが、もうだいぶ前。新しいのを買って、今使っているのを大学にもっていくことを検討しています。
逡巡しているのは、高い製品を買う意味があるのかどうか、確信がもてないから。ものの本を読むと、キーボードやマウスは日常的に使うものだから思い切って投資すべき。全然違いますよ、などと書いてある。でも、普通のでも十分な気もするわけです。今使っている製品に、不満は感じていません。
高額製品を多数提供しているのは、マイクロソフト。いろいろなキーが付いて便利そうですが、私はブラウザもメールも別メーカーのを使っていますから、宝の持ち腐れになってしまう。高機能を自分なりにカスタマイズして使えたら、などとも考えます。投資価値があるか否か、お教えください。
不可解な先発 ― 2008年04月20日 22時08分29秒
今日は最初から野球の話、いっちゃいます。興味のない方、ごめんなさい。
今日の広島・巨人戦で、上原投手が中4日でスクランブル登板し、打ち込まれて敗戦投手になりました。過日YM先生に、上原も先発復帰で楽しみですねえ、とお世辞を申し上げたら、いや、抑えじゃなきゃ絶対だめだ、とおっしゃったことを思い出します。
しかし、毎度打ち込まれている球威のない投手を、満を持してならともかく、間隔をおかずに強行先発させる理由が、まったく理解できません。けっして若くない投手なのだから、なおさらです。中継ではエースに1勝してもらうことが大事だから、と言っていましたが、だとしたら、広島をなめているのではありませんか。開幕試合の対ヤクルトと、同じパターンです。エースというのは、そんなに偉いのでしょうか。そして上原は、今のチームで、そんなに傑出したエースなのでしょうか。
こんなことを書くからといって、私は監督を責めているわけではありません。いつまでも、巨人の監督であってもらいたい、あの率直な表情で楽しませてもらいたい、と思っています。私がこのことを気にするのは、音楽の世界でも、もしかすると同じようなことがあるのではないか、と思ったからです。中心的な人のメンツを重んじることは大切だし、私も、気の付く範囲ではそうしています。でもそうしてはいけない場合のあることが、今日の広島球場でわかったように思うわけです。
毎年スターを抜かれるのに、広島、がんばりますね。若々しい、いいチームです。超ファインプレーをした天谷外野手は、福井商で甲子園に出場したときから、妙に印象に残っていました。
〔付記〕今日、「見ての通り」というコメントがあったようです。
本を読まなくちゃ ― 2008年04月21日 22時28分53秒
最近本を読まなくなったなあ、と反省しているのですが、本を読まない人間となど付き合う必要はない、とキッパリ書いてある本に出会いました。マイクロソフトの社長をされていた成毛眞さんの『本は10冊同時に読め!』(知的生き方文庫)です。読書の効用、人生の楽しみ方、無駄を徹底して省く方法などが、切り捨て御免の痛快な文章で綴られている。こんな凄い人だとは知りませんでした。
これだけ煽られると、こちらも腰を上げます。ある授業で、いろんな読書法をみんなで持ち寄り、ディスカッションをすることにしました。勝間和代さんの『効率が10倍アップする新・知的生産術~自分をグーグル化する方法』(ダイヤモンド社)というのも良かったなあ。あ、これ、帯状疱疹で休養している間に、時間を無駄にすまいと読んだ本の1つです(笑)。みんな、こういう時代でも、本当に本を読むんですね。
もう1冊。野村克也監督の『巨人軍論』。野球は個人技では勝てない、組織作り、人間作り、データ収集による高度の理論化が必要、ということが、(本人の文章ではないようですが)説得力をもって整然と述べられています。初版が出たのが、2006年の2月。2008年の4月に読むと、しみじみと価値がわかります(笑)。
桜つぼみ ― 2008年04月23日 21時38分05秒
「4月のイベント」(3)でご紹介した「童謡、この尊きもの!」のコンサートが、無事終わりました。楽しみな度合いも、緊張する度合いもいつもより大きかった私ですが、それはこのコンサートが、私の期待する新進作曲家、加藤昌則さんのいずみホール・デビューにあたっていたからです。
で、私は彼に、どういう出番を用意したか。それは、コンサートを締める役割です。大正中期(運動勃興期)の童謡、大正後期(運動全盛期)の童謡、昭和初期(レコードの普及による変質期)の童謡を並べた前半が終わり、童謡運動の精神に根ざす山田耕筰の名曲が7曲演奏されたあとに、加藤さんの新作3曲が披露される、という風に配列しました。これって、やる側にはとてもプレッシャーがかかると思われませんか?
それまでの曲はみな、お客様の血となり肉となっているなつかしの作品。そのあとに、誰も知らないできたばかりの曲を聴いて、どこまで楽しめるものでしょうか。山田耕筰の直後ともなれば、なおさらです。でも、今の若い作曲家に、忘れられた童謡の精神と最後に向き合ってもらうという構想が捨てがたく、それをなしうるのは加藤さんだというのが、私のこだわりでした。
山田耕筰の芸術性はさすがに桁違いで、松田昌恵、畑儀文、花岡千春お三方の演奏にも一段と熱が入ってきます。それを受けた最後のコーナーが失敗したのでは、コンサート全体が崩れてしまう。司会者としても、細心の注意を払って進行させなくてはなりません。
私は加藤さんをステージに呼び、3つの新作の発想や狙いなどを伺いながら、曲を紹介することにしました。最初の2曲は、大正11年の『金の星』(『金の船』が改題)に載っている詩(若山牧水の「浮坊主」と人見東明の「楡の花」)に付曲したもので、いわば初期の童謡精神との、直接対決。腕白な男の子をユーモラスに扱った前者、亡き母の星と対話する女の子を情緒豊かに描いた後者の詩を私が朗読し、加藤さんの作曲を聴きました。
しかし童謡の精神を本当に自分のものとするためには、やはり新しい詩が必要だというのが、加藤さんの結論でした。そこで作られたのが、バリトン歌手宮本益光さんの詩による「桜つぼみ」全4節です。これは、ソプラノとテノールのお二人で歌われました。
ト長調、8分の6拍子の、流れるような調べ。子供でもすぐ覚えられるほどの、平易なメロディ。でもそれが何とも大らかで、洒落ていて、心温まるのです。春の風の呼びかけで桜のつぼみがふくらみ、目覚めるまでが、風とつぼみの対話もまじえて、のどかに綴られている。会場の方々も一体になってこの歌を楽しまれ、コンサートは暖かい盛り上がりのうちに終わりました。良かった!
音楽は結局心だなあ、と思って幸福になっていた私ですが、きっと私はそのとき、童謡の精神のすぐそばにいたのだろうと思います。
腹を決めて ― 2008年04月25日 16時14分11秒
最近、新聞批評の対象に恵まれていました。いい公演だと、このすばらしさと何としても伝えようと考えて、気合いが入る。必然的に、心のこもった批評が書けます。喜んでくださった方も、おられると思います。
しかし、いいことばかりは続きません。久しぶりに、これはダメだ、というものに当たりました。それどころではない。公演の方向性にがまんができず、激怒の状態。もちろんメジャーな、注目度の高い公演です。きっと、面白がる人も多かったことでしょう。さて、これをどう書くべきか。
そこでわかりました。批評の真価は、こうしたネガティヴな場合にこそ発揮される、と。どこまでを、どのように書くべきか。あいまいな形では自分の良心が許さないが、時代や流行にあらがって酷評に踏み込む自分は、果たして正しいだろうか。ずいぶん困り、ずいぶん考えました。
授業の間を縫ってぎりぎりまで作業し、完成稿を送りました。はっきり書き、責任は自分で取る、という道を選びました。掲載は来週初めかと思います。
木曽川 ― 2008年04月26日 23時20分14秒
列車の旅をする方には、この線に乗るならここは見落とせない、というスポットがあると思います。東海道新幹線ならば、皆さんは、どこでしょうか。私は、名古屋の先で渡る木曽川です。とにかく水量が多く、雨で増水しているときなど、こわいぐらい。堂々たる大河川ですね。
そのことが心にとまるのは、私が長野県育ちであるからかもしれません。上流の木曽川は、山の迫る深く暗い渓谷を、狭そうに流れている。これに対して天竜川は、諏訪湖を水源とし、伊那谷を広々と、開放的に流れています。「ハアー、天竜下れば~」(この歌、ご存じですか)ということが可能になるわけです。
ところが、天竜川がそのままあっけなく太平洋に出てしまうのに対し、木曽川は濃尾平野を流れるうちにどんどん成長し、数倍の貫禄を身につけます。ですからその下流を渡るとき、サクセス・ストーリーを見るような感慨を覚えるのです。
昨夜、今夜と2回木曽川を渡りました。でもどちらも夜だったので、本を読んでいるうち気づかずに過ぎてしまいました。残念。
むしろシルバーウィーク ― 2008年04月28日 21時52分00秒
ゴールデンウィークは、一説によれば、先週の土曜日から。異論のない始まりは、明日の29日(火)でしょう。私の大学では今まで、29日から5月5日ないし6日まで、連休になっていました。
しかしもうそんなことが許されないのは、言うまでもありません。今年は、29日が授業日となり、30日(←私の誕生日)から5月2日までは暦通り、となってしまいました。まったく様変わりした、この1週間です。ゴールデンがシルバーとなった、という印象でしょうか。
だいたい判明した、前期の1週間。月曜日は、大学院の音楽美学と持ち回り発表のゼミ(隔週)、博士の個人指導2人と、1つ~3つの会議。火曜日は弦楽器の作品研究と修士の個人指導8人、博士1人、放課後はバッハ研究のプロジェクト(またご案内します)。水曜日は理事会(隔週)。木曜日は休みで、ときどき病院。金曜日は歌曲作品研究と西洋音楽研究の演習2つ(1年生、2年生)、博士の個人指導1人。土曜日はカルチャー、市民講座、学会。
充実しているとも言えますが、以前と比べて、自由裁量がしにくくなりました。おかげさまで体調がいいので、がんばれています。
新読書法実践中 ― 2008年04月29日 22時15分01秒
成毛眞さんの『本は10冊同時に読め!』(4月21日参照)に触発されて、3冊の本を平行して読み進めることにしました。これ、案外いい方法ですよ。
3冊は同時購入するのがよく、その場合、すべて別ジャンルから選びます。私はミステリーを読み始めるとミステリーばかりになり、無名の友人、齋藤正穂君などに比べて知識が狭いきらいがありましたから、必ず別ジャンル、というノルマ設定は有効。読み始めたら、どんなに面白くても、1章ごとに別の本に移るようにします。そうすると緊張感が持続し、結果的に、速く読めるのです。
先週末の3冊は、羽生善治『決断力』(角川)、夏樹静子『光る崖』(光文社)、中川右介『カラヤン帝国興亡史』(幻冬舎新書)でした。松本清張を読み尽くした今、以前からファンだった夏樹静子に回帰していますが、『光る崖』、続いて手に取っている『白愁のとき』、どちらもたいへんいい。丁寧に、綿密に仕上げられていて、女性の心理描写など、心に迫るものがあります。夏木さんのミステリーは、最後にどんでん返しが(場合によっては二重に)あるものが多く、こちらもそれを想定して読み進めるのですが、『光る崖』では話が完全に終息に入っているのになお多くのページが残されており、これでどうなるのかと、興味津々。要するに、大きな年譜がついているのでした(笑)。
カラヤンのも面白かったですね。膨大な情報をもとに簡潔かつスピーディーに記述されていて、事柄そのものに語らせる手腕が巧み。私にとってはもはやまったく過去の存在であるカラヤンですが、自分のクラシック体験史(基本的にアンチ)を振り返りながら読みました。
誕生日の心境 ― 2008年04月30日 21時38分54秒
今日誕生日を迎え、62歳になりました。
父がこの年齢の頃は、かなり衰えていたのではないかと思います。今はこの年でもそれなりに仕事ができるのですから、ありがたいですね。60代なんて、以前は想像もつきませんでした。しかし別の人生に入るような変化は、どうやらないようです。学生さんたちとの距離も、思ったほど遠くなった感じはしません。むしろ、対人関係は、楽になったように思います。
野心や欲は、前以上になくなってきました。好きなことを好きなようにやりたい、しかしやる以上は、自分に恥じない仕事をしていきたい、という心境です。できるだけ、正直でありたいと思います。
「腹を決めて」で触れた批評は、月曜日(28日)の毎日新聞夕刊に出ました。対象をぼかしていましたが、ザルツブルク音楽祭制作のオペラ《フィガロの結婚》です。ドイツ人演出家、クラウス・グートの演出は私にとって絶対に受け入れることのできないものでしたので、そのことをはっきり書き、理由を示しました。受け取り方はさまざまでしょうが、私自身は、さっぱりした気持ちです。ちなみにデスクの付けたタイトルは、「自らの着想に惚れ込む演出」というものでした。
そのことをここで再び論じることはいたしませんが、批評の最後の文章は私の信念に相当する部分なので、引用させて下さい。「こうした演出はたしかに、いま世界で脚光を浴びている。だが流行は、かならず古くなる。いつまでも新しいのは、ささやかであっても、まじめに本質を追究する営みである。そのようにモーツァルトに向かっている人は、私の周囲にもたくさんいる。」
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