図書館のあり方2011年10月17日 15時52分20秒

かつて大学の図書館長をつとめていた時に、図書館の発行している「ぱるらんど」という雑誌に、「館長室だより」というエッセイを寄稿していました。先日、図書館が順番となった読売新聞との共催講座のさい、私がかつて書いたものが、参考資料として配布されました。読んでみると、今でも使えそうな話題なので、許可をいただき、アーカイヴとして公開することにします。どうぞよろしく。

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「その先の勉強」のために

 高価な学術書を出版された方から、「個人でお買いいただくのは心苦しいので、図書館にお薦め下さい」という手紙をいただいた。個人向けというより図書館を念頭に置いた出版は、専門書、貴重書、豪華本などの形で、昔から広く行われている。音楽の世界では、全集楽譜や自筆譜ファクシミリも、そのうちに含まれるだろう。こうした出版物は、単価が高く、発行部数は少ないのが普通である。

 だがおそらくどの図書館も、そのように出版されても困る、今は財政難なのだから、と言うに違いない。専門分野が多様化し、買うべきものが増えているだけに、なおのことである。むしろ、高価な出版物はその分野の専門家に個人的に集めていただき、図書館は一般的な文献を多数収集する方が合理的だ、という考え方も強くなっている。

 モーツァルトの歌劇《ドン・ジョヴァンニ》を例にとれば、貴重なファクシミリ楽譜を一点買うのと、実用的なヴォーカル・スコアを何冊も備えるのと、どちらがいいか。限られた人しか読めない(しかし価値の高い)研究書を一冊買うのと、手引きや入門書を数冊揃えるのと、どちらがいいか。大学図書館は学生さんの納めるお金で運用されているだけに、こうした選択がむずかしいのである。

 私は、「その先の勉強」のために備えをすることが図書館の使命だと思っている。町の本屋さんが日常的なニーズを満たすためにあるとすれば、図書館は、「その先の勉強」を求める人に対して、信頼の置ける有益な情報を提供できなくてはならない。社会の文化的水準を維持し、向上させるという究極的な目的のためには、それがどうしても必要である。だから、専門的な本や高価な本に対して、手抜きはできないのである。でも、お金が・・・(初めに戻る)。

コメント

_ T.K. ― 2011年10月19日 00時00分25秒

その昔、港区麻布台(だったか?)に遠山音楽図書館という、素晴らしい図書館がありました。
言わずと知れた遠山一行先生が、私財を投じて貴重な資料や楽譜を揃え、利用を許して下さった図書館で、今でも‘図書館のあるべき姿’として、当時の遠山音楽図書館のことを想い起こします。

一学生には入手困難な資料や楽譜を豊富に揃え、閲覧やコピーを許して下さった度量の大きさと深さ。
I教授が学生時代に手書きで訳されたという「完全なる楽長」の原書に初めてお目にかかったのも、この遠山音楽図書館でした。

一般の利用者の利便性も大切ですが、蔵書の中に、限られた予算の中で、貴重な資料を揃えて下さる図書館スタッフの方たちの‘目利きのレベル’を窺い知るのは、私だけではないでしょう。

時々、地方の街を訪れて、その街の図書館で時間をつぶさせて頂くことがあります。その街の図書館の蔵書に、センスというか民度というものを窺うことがあります。

自分が住んでいる自治体の図書館に新書の購入願いを出したのに、却下されてガッカリすることもあります。
その自治体の‘限界’を見た思いがするのです。

そういえば、遠山音楽図書館の蔵書が、そっくりK大学の図書館に‘御嫁入’した時には、かなりショックでした。恋い焦がれた女性が、手の届かない世界に行ってしまうような寂しさを感じたものです。

あの得難い素晴らしい蔵書の数々が、今でも音楽研究者の方たちの御役に立っていることを願わずにはいられません。

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