考えさせられたこと2012年08月01日 22時59分40秒

さて、オペラ《白虎》についてです。ダヴィデヒデさんにコメントで「批評記事を楽しみにしている」と先手を打たれてしまいましたが、私は当談話室を基本的に、批評の場とは考えておりません。私は新聞批評という場をもっていますので、価値の厳格な詮索はそちらで行うこととし、当欄では、私が本当にいいと思ったものを、世間的にはマイナーなものも含めてご紹介することにしています。ですから、聴いたものを全部書いているわけではありません。

客観的に見れば、成功した公演だったと思います。名歌手を揃え、すぐれた指揮者と演出家のもとで周到に準備された熱のある公演で、福島県自慢の合唱も、大きな役割を演じました。劇的な盛り上がりも十分あり、地域からの立派な発信と理解しました。

私が満たされなかったのは、ただ一点です。私には、この作品が何を言いたいのか、最後までわからなかったのです。それには、私なりの事情があります。

先日新聞で、編集委員の方が署名されているコラムを読みました。その趣旨は、戦争から逃げ帰っても生きていれば人生は先につながる。そういう生き方を是認する価値観を作るべきではないか、というものでした。要するに、この世で生きることを唯一最上の価値とする、という考え方です。

これには相当考えさせられました。だとすると、「命がけで」とか「死を賭して」という言葉は死語になり、武士道も自己犠牲も否定されてしまう。バッハの安息もワーグナーの救済も、無意味なものになります。もっと言えば、宗教も芸術も不要になる。それらは、この世を超えた価値がある、ということを前提としているからです。

そういう考え方が力をもつ「現代」というものを考え続けていましたので、白虎隊がどのように扱われるかに、私的にとても関心があった。生き残りが主人公となり、結びの言葉が「私は生きる」というものになると聞いていましたので、そうした台本において武士道の価値がどのように救い出されるのか、あるいは救い出されないのかに、興味をもっていたのです。

その意味では、問題提起こそあれ、結果的にははぐらかされてしまった、と言わざるを得ません。それを今回求めるのは酷であるような気もしてきていますが、少なくとも、武士道精神に殉じて自刃する西郷千恵子の場面が、腰越満美さんの熱唱もあってとりわけ感動的であったことの意味は、考えてみたいと思います。

コメント

_ ダヴィデヒデ ― 2012年08月02日 14時15分51秒

オペラを見ておりませんので何をか意見できる立場には無いのですが、ただ一点今我々日本人に徹底的に欠けていると思うのが生きたままでの反省と良い方向へ向ける為の「責任追及」では無く、各人が生きたまま可能な出来る範囲の自己犠牲を賭して、和して先に進む事だと思うのです。「それに気付け!」と言われている気がしてなりません。無論私の様に無学な者は、車に乗らないとかクーラー停めて汗をかく位しか出来ないのが情けないですが、どうすれば横一列に並んでゴミを拾い集めて行く様な、和して共に進む風潮を生み出す事が可能なんでしょうか!?

_ レーズンサンド ― 2012年08月02日 17時43分48秒

少なくともタンホイザーがエリーザベトの傍らにくずおれることなく、ヴェヌスベルクに飛んでってどんちゃん騒ぎするのは見たくありませんね・・・。
実は私は僧侶でして、教授のおっしゃる「現代」の問題を痛切に感じます。某哲学者が「現代西欧人」という言葉で表現した、人生の目標を仕事とお金儲けのみに見出すという価値観は、かろうじて生き残っていた芸術の中の「永遠」までも葬り去ってしまうのでしょうか。
先日大河ドラマでは、平治の乱の後の裁定で、清盛が頼朝にこのような言葉を発する場面がありました。「ワシ(平清盛)は嫌でもまだこの世を生きなければならぬのだ。お前(源頼朝)を殺してなどやらぬ。平家の繁栄を指をくわえて見て居れ(大意)」。このニヒリズムの臭いは、やはり現代のもので、現代において表現するということは、このような軸足になってしまうのかもしれません。その自覚がないと、表現が中途半端なものになってしまうということでしょうか。
ところで、その某新聞のコラムをぜひ読んでみたいのですが、さしつかえなかったらお教えいただけないでしょうか。

_ Tenor1966 ― 2012年08月02日 18時54分43秒

私は3年ほど前に受洗したクリスチャンです。
受洗してすぐにそのようになったというわけではないのですが、この世で生きていることや死ぬことに対して以前よりもこだわらなくなりました。
自分の生きる意味や目的は神さまの栄光を表すことだと感じており、それは死においても同じような感覚です。
一般的に武士道として理解されている「命がけで」とか「死を賭して」というような感覚とはちょっと異なるかもしれませんが、生きることにおいても死ぬことにおいても神さまが作られた世界の調和を表現したり実現したりしたいと願っています。
その意味では、この世を超えた価値があるということを前提として生きており、また自分の命をかけたり死を賭す価値があると感じられるものに対してはそのようにしようと思っています。
大切なのは、生きるにしても死ぬにしても、それらが「何のために」ということなのではと思います。
そして、生き続けることでそれを見つけることが出来る可能性が増えると思いますので、この世で生きることを唯一最上の価値とすることは、暫定的にはあり得るとも思います。

_ I招聘教授 ― 2012年08月03日 00時57分58秒

3つのご意見、本当に嬉しく拝読しました。「某新聞」コラムの考え方は、一見人にやさしいようでいて、じつは虚無的であるように思います(出典はメールで)。《タンホイザー》に、そうした演出があったのでしょうか。芸術家の夢に演出家が虚無をもって報いるステージはよく見ますが、退廃的な現象と言わざるを得ません。《白虎》は幸い、そういう舞台ではありませんでした。

_ マッキー ― 2012年08月03日 13時48分19秒

この様な話題、人生観・世界観・宗教観に関わる話題には、
あっという間にコメントがつくのですね。ある程度歳を重
ねると、こう言ったことが気になって仕方がないわけでし
ょうから。音楽関連のブログなのですが、私もひと言二言。

私は、僧侶でもクリスチャンでもありません。日本人です
ので、多分に仏教的な影響があるので、例えば、天国や地
獄は死後の世界にあるのではなく、現実世界で起こりうる
心(いのち)の状態と考えています。

ひと言:漢字から信仰と信心を考えてみた・・・

「信」を、人編(ニンベン)に、作りの言(ゲン)と考えると、
人の言葉、と言う意味のようだ。すると、
信仰は、人の言葉を仰ぎみる、
信心は、人の言葉を心する、
となろうかと。
前者は、神の言葉、外を観ているイメージがあり、西洋的、
後者は、仏の言葉、内を観ているイメージがあり、東洋的。

こう考えると、
神の言葉は、人の言葉を権威・神聖化したもの、
仏の言葉は、人の言葉に悟りを啓(ひら)くもの、
と思ってしまう次第です。

古来より日本では、山の神、海の神・・・と自然の中のい
たる所に神々が棲んでいるとされ、山岳信仰とか民俗信仰
などと、信仰と言う言葉を用いるが、これは、人の言葉で
はないようだ。

話は少し変わるが・・・
なぜ、神なるものが、天地と人を創造したと言う宗教が生
まれたのだろうか。精神性を説く宗教がなぜ、物質世界と
生物世界の生成にまで踏み込んで言及したのだろうか。


二言:随分前、某珈琲店での常連客の問答

A氏曰く-->「オウムは、なぜ間違ったのか?」
B氏答えて曰く、二つあると-->
 「命、人の命より大切なものがあると考えた、云々」
 「社会から遊離し、籠ってしまった、云々」

私は聞いていて、明快だなぁ、なるほどと思い、今でもこ
の二つの言説を記憶しているのです。

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