仮説2012年10月19日 00時40分48秒

ノーベル賞・山中先生は、若い人に、どんどん失敗しなさい、と指導されているそうですね。これは、まず仮説を立て、それが一般化できるかどうか実験を重ねていく、という理系の研究現場において、ぴったりとはまるご指導だと思います。もちろん文系にも、応用できる考え方です。

音楽研究の場合、論文を書くためには、事例の研究を行います。方法は、分析、データ収集、フィールドワーク、文献読解など、さまざまです。その過程で論文がまとめられることもままありますが、本当は、次のプロセスまで進んでいなくてはなりません。情報が羅列されているだけでは「何を言いたいのかわからない」ものになってしまうからです。論文には、使うデータや情報の評価や意味づけを欠かすことができない。この段階で、仮説が必要になってきます。

このこととこのこととは、こういう関係があるのではないか。このことは一般にはこうとらえられているが、本当はこう理解するべきではないか--仮説がひらめくと、論文執筆はモチベーションを得て、はかどります。しかし文系といえども一定の論証は必要ですから、さらなる情報収集と検証作業が必要であることは、いうまでもありません。

ここで必要となるのが、良心というか、客観的な真理探究の精神です。いけるのではないか、と思える自分の仮説に対して、どこまで批判的になれるかが重要なのです。なんとかこの仮説を成功させたいという気持ちが先になると、その人は必ず、自分に都合のいい情報だけを集めようとします。そのようにして書かれた論文、著作は筋が通っていてインパクトもあるわけですが、その実態は、見る人が見れば一面的で脆弱です。でも、こうした傾向のものを、なんと多く経験することでしょう。

文化事象はきわめて複雑であるのが常ですから、どんな主張にも、不都合な事例や反対の主張が存在します。それをオミットせず、そうしたものが存在することを認め、それをどう考えるかを記述することによって、仮説の提唱は、格段に重みを増してきます。少なくとも、多様な見方が存在することを明示するために注を活用することを、若い方々にはお勧めします。いずれにしろ、一面的な主張よりも手厚い価値観に、信頼は寄せられるものです。