ヨーロッパ通信2014(8)/ベルギーを歩く2014年04月17日 14時49分05秒

私は光栄「大航海時代」の、熱烈なプレーヤーでした。船を買って各国の港を周り、貿易をしたり、酒場に行ったりするのが大好き。世界の港の名前もずいぶんそれで覚え、地図の感覚も身につけることができました。

ですから、電脳空間でしばしば立ち寄ったアントヴェルペンの土を踏めたのは、嬉しさひとしお。内陸ですが、大きな川を、船が上ってくるのですね。美術館に行くと船の絵が多くあり、当時の帆船の精緻さに驚かされます。街は整然としていて、教会、とくに大聖堂に、抜きん出た印象がありました。外観は壮麗、中に入ればルーベンスの祭壇画というのですから、ドイツの教会はとてもかないません。ちなみに撮った写真は、デジカメの中に入っております。

ひと通り散策を終えて、ヘントへ。予約したホテルの情報がメールの中にあり、地図で場所を確認できません。仕方がないので駅からタクシーに乗り、旧市街にあるホテルに到着しました。

歩いてみてびっくり。市の中心部は、天を突くような聖堂、鐘楼、市庁舎が密集して偉容を競い、異次元の空間を作り出しているのです。ぜひ、写真を御覧ください。 

あれ、デジカメをなくしたんじゃなかったのか、ですって?確かになくしました。やむなく、スマホで撮ることにしたのです。今まで、スマホでは写真の撮り方がよくわからず、何より、ファイルをアウトプットする方法がわかりませんでした。でもやってみるとできるし、デジカメなしで済むという利点がある。解像度も、ネット用には十分です。なくして、かえって良かったのかもしれません--あれ、これって、ツキの理論そのものじゃありませんか。

ヨーロッパ通信2014(9)/フランデレンからワロンへ2014年04月18日 14時45分32秒

朝食後はたいてい、しばらくベッドに倒れています。消化器手術の後遺症のある私は、食後気分が悪くなることがしばしばなのです。乳製品たっぷりのオランダやフランス料理に近いベルギーは、危険大の地域。選んで食べているつもりの朝食がとくにそうなるのは、なぜなのでしょうか。

ヘントのベッドで目覚めた15日(火)も回復まで手間取り、出発の時間が遅れてしまいました。その日はベルギー縦断の強行日程を組んでいたため、なるべく早発ちしたかったのです。

昔の商館の立ち並ぶ河岸を歩いてフランドル伯居城に達したのが、ちょうど10時。そうしたら、待っていたように門が開くではありませんか。絶好のタイミングで入場、砦に登り、古都の眺望を楽しみました。これって、まさにツキの理論ですよね。


旧市街から駅に行くトラムに乗りました。しかし、経由は確認しておいたはずなのに、方角がどんどん駅から離れていきます。南に行かなくてはならないのに、北へ北へと行ってしまう。これはどうjしてもおかしいと思って、途中下車。しかし降りたところがどこか、わかりません。結局もとの線に乗りなおして事なきを得ましたが、こうしたこともヘントを知る一部だと思えば、楽しいものです。


その日は東のワロン地域に入って、ナミュールに泊まるよう決めていました。昼間ひとつ街を稼ぎたいと思い、西のブルージュに行くか、東のブリュッセルを順路で探索するか、迷いました。結局ブルージュにしたのは、ブリュッセルにはまた立ち寄れると思ったからです。

ブルージュは観光地的色彩が強く、人であふれていました。もちろん悪くはないが、ヘントの重量感には及ばない、というのが、私の感想です。ブリュッセルでは乗り継ぎの時間があったので、大広場と大聖堂を、大急ぎで観光。まだ明るい夜7時過ぎに、ナミュールに着きました。

ナミュールを選んだのは、最近ここの古楽アンサンブルが台頭しているので、どんなところか見ておきたかったからです。小さな街をさっと見て、8時半にホテルのレストランに入ったところ、もう食べ物は終わった、とのこと。どこかで食べられないか尋ねると、近くのレストランの名前を挙げ、そこも終わっていたらマクドナルドだ、と言うのですね(笑)。なんとか食事にありつき、翌日を楽しみに就寝しました。


ヨーロッパ通信2014(10)/ワロン地方を満喫2014年04月21日 23時52分24秒

4月16日(水)。ナミュールの朝は、快晴で明けました。ワロン地方を横断してドイツに入るのが、今日の予定。まず、ナミュール市街の南に聳える城塞に登ります。山登りの好きな私には、ぜひ訪れてみたいコースでした。

運動神経がまるでなく、身体を動かすことも怠りがちな私にとって、山登りをやっていたのは、とても大きなことでした。なにしろ今でも、上り下りがまったく苦にならないのです。高いところがあると上がってみたいメンタリティも、相変わらずです。

朝、人訪れもまれな自然公園を登ってゆきます。小鳥の声がたくさん聞こえますが、旋律性が豊かでびっくり。メシアンは、こういう鳥の声を聴いていたのですね。


「地球の歩き方」には、城塞には乗り物に乗らず、徒歩で登って欲しい、ナミュールの市街の展望は感動的だから、という投稿が載っていました。登ってゆく背中に、ナミュールの街があります。だから、登るごとに、後ろを振り返っていました。ところが、一番高い展望台に着くと、そこには砦の反対側の光景が広がっていたのです。ここもナミュールではあるのでしょうが、ムーズ河の本流に沿った地域。その向こうに、ワロン地方の豊かな自然がえんえんと。




今回の旅行で一番幸福を感じたのが、ここからの展望でした。しばらく尾根を歩き、疲れた頃小さな遊園地があったので入場料を払って入り、ハイネッケンのビールを一杯。再度強調しますが、ハイネッケンは日本で飲むより数段おいしく、すばらしいです。駅に戻り、ワロン地方の中心都市、リエージュへと向かいました。

ガイドブックでリエージュについて読み、どことなく惹かれたのが、訪問の理由。《展覧会の絵》のところじゃん、と思いましたが、気がつくと、あれはリモージュ(笑)。日本の観光客の、とても少ないところなのではないでしょうか。

でも、ここがすばらしかった。到着した駅の、とんでもなく現代的なホームには面食らいましたが(笑)。


旧市街の王宮周辺は、伝統と現代の混在する、活気にあふれたところです。女性も洗練されています。オペラ・ハウスの近くでカフェに入って昼食をしましたが、スカンピのオイル焼きのおいしさは抜群で、よく言われるベルギー料理の優秀さを実感しました。皆さん、ぜひリエージュをプランにお加えください。お薦めします。


リエージュから東へ国境を越えて、アーヘン(ドイツ)に入りました。列車待ちの時間に駅前でビールを飲んだら、女主人の怖い顔に仰天。私をにらみつけて、にこりともしません。「ダンケ」というと、噛みつくように「ビッテ」という。このあたりから、旅行が下降線に入ったようです。すぐ飛び出し、大急ぎで大聖堂を往復して、ケルン経由、フランクフルトに入りました。かつてコインロッカー事件の起こった、因縁の都会です(汗)。

ヨーロッパ通信2014(11)/図書館にて2014年04月22日 23時28分43秒

フランクフルトのホテルは、アメリカ資本の、陽気な空間。お目当てのドイツ国立図書館と、同じ地下鉄(事実上トラム)の路線にあります。

図書館ではまず入館証を作ってもらい、資料を依頼。入館証の写真をお見せしようかと思いましたが、サインの公開は問題もありそうなので、やめておきます。使用料は、2日使える1日パスで、6ユーロです。

ドイツの図書館というと敷居が高いと思われるでしょうが(私にもそういう気持ちはありましたが)、じっさいには利用者本位に、親切に対応してもらえます。私の対象はDVDに所蔵されている文献なので、ネット検索のような手続きで閲覧することができました。読んだのは、バッハ時代のトーマス学校長で高名な神学者だったエルネスティに関する博士論文です。

一通り目を通し、私の期待したような内容はないことを確認しましたが、どんなことをこれから調べてゆくべきかのヒントは得ました。研究にはやはり、継続が大切です。

2日間かけるつもりが1日で済んでしまいました。夜はもうひとつ都市を稼ごうと思い、近距離列車で行けるダルムシュタットを訪れました。貧乏性のなせる業です。

ダルムシュタットは戦争で破壊され、旧市街をもたない都市。訪れたのは、現代音楽つながりというより、バッハの同時代人、グラウプナーの本拠地の空気を吸いたかったからでした。想像通り、見るところはあまりなく、関心は、レストランの物色に向かいます。ちょっと洒落たイタリアンがあったので、入ってみました。

ドイツにはたくさんのイタリア料理店がありますが、その経営には、辛いものがあると思えてなりません。経営者がイタリア人でも、ドイツ人の味覚に合わせた料理を出さなくてはならないからです。結果として私は、ドイツで食べたイタリア料理を、おいしいと思ったことがありません。入ったお店はいかにもイタリア風の雰囲気作りだったので、同情心をもちつつ、注文しました。嬉しかったのは、大好きなモンテプルチアーノの赤ワインが置かれていたことです。

注文を取りに来たのは、ドイツ語もおぼつかない、イタリア人のママさん。良さそうな人です。そこで生ハムとメロン、カラマリという定番の注文をしたところ、どちらもない、とのこと。そこでミネストローネを注文しました。すると、サラダはどうか、スパゲッティはどうか、と尋ねてきます。どうやら、このお客は払う、と思ったようなのですね。

なかなかおいしかったので、思いつくイタリア語で賛辞を連ね、支払いへ。当然チップを払うつもりでしたし、事実払ったのですが、10ユーロ札であるべきおつりに5ユーロ札を出してきたのにはびっくりしました。もちろん指摘し、あ、うっかりしました、ということにはなりましたが・・。

かつて学習したイタリア語会話の最初の方に、おつりを誤魔化すという章があったことを思い出しました。いいお店では、あったのですけれど。

ヨーロッパ通信2014(12)/旅行も大詰め2014年04月23日 23時04分33秒

図書館での調査が早く済んだため、金曜日が一日空きました。土曜日のお昼にアムステルダムにいるには、どう行動したら適切かを、いろいろ考えました。

できればハンブルクに泊まり、北ドイツを歩きたかったのですが、朝6時に出るようなスケジュールは危ないと判断。なるべく空港に近づいておこうと、ユトレヒト(オランダ)まで移動することにしました。これはまことに正しい判断であったことが、のちに判明します。高いなと思いつつ駅前のホテルを予約したことも、のちに重要な意味をもちました。そう決めましたので、金曜日は、本屋めぐりをして文献を買い集めることにしました。

旅行も、大詰めです。今回の私の旅行を、皆さんはどう受け止めておられるでしょうか。いただいたコメントを読みますと、2つの異なった見方があります。ひとつは、「CAの《ロ短調ミサ曲》で運を使い果たした教授が無事で済むわけはない。単独旅行になったら、かならず何かが起こる」とおっしゃる、Tさんの見方。もうひとつは、教授はツキの容量が大きく、旅行も無事完遂されるだろう、というKさんの見方です。

私はもちろんKさんの見方を実現するべく行動しているわけですが、私の人生訓を反映しているのは、Tさんの方です。なぜなら、「ツキの総量はどの人にも一定」というのが、雀聖・阿佐田哲也さんから学んだ、私の貴重な人生訓であるからです。

このどちらが正しいかを判定するのは、残る金曜日、ということになります。その金曜日に何があったか、あるいはなかったかは、次の更新でお話しします。

ヨーロッパ通信2014(13)/「ツキの理論」が立証されました2014年04月24日 23時20分53秒

5泊の個人旅行に、私は機内持ち込み用のバッグをもって出発しました。必要なものをこれに詰め込み、その他の荷物はトランクに入れて、空港の大きなコインロッカーに預けたのです。観光のさいには、バッグを駅のコインロッカーへ。預かり証をなくさないよう、大いに神経を使いました。

18日(金)。早く準備が整ったので、チェックアウト。もちろんカードで支払うのですが、オランダやベルギーのホテルでは必要だったピンコードの操作が、ドイツでは必要ないのでびっくり(自動販売機で鉄道の切符を購入するさいも同様でした)。そのことでちょっとホテルマンとやりとりし、「さよなら」と言ってバッグを取ろうとしたら、バッグがないではありませんか。足の前、足とデスクの間に置いていたはずなのです。

そういえば素速い影が通り過ぎたように思い、庭に出てみましたが、誰もいません。これは盗難だ!ということになり、調べてもらうと、ホテルの監視カメラに、お客を装った男が近寄り、バッグを取って逃走する様子が、動画並みの解像度で写っているのです。まもなく、男女2人の警官がやってきました。

19歳の時に初めて渡欧してから半世紀近く経ちますが、盗難にあったのは初めて。油断がありました。手口があまりにも鮮やかだったためか、意外に腹は立ちません。すぐ感じたことは2つです。1つは、これでブログの読者にいいオチを提供できるな、という、奇妙な安堵感。もうひとつは、無事に帰れるだろうかという不安感でした。

警察の検証を待っている間、手荷物なしでどう行動できるか、考えました。不幸中の幸いは、3点あります。第1に、事件が旅行の終わり近くで起こったこと。第2に、言葉に不自由しないドイツで起こったこと。第3に、パスポートと、ユーロおよびカード類の入った財布が手元に残されたことです。スマホも残りましたが、ルーターと充電器がバッグの中なので、たいして役に立ちません。

こうして私の「ツキの理論」は立証されたわけですが、肝要なのは、ツカない時にどう切り抜けるかということです。手ぶらの私がその後どうしたかも、読んでくださいね。

ヨーロッパ通信2014(14)/手ぶらと空腹2014年04月27日 09時09分17秒

事後処理をすませて、ホテルを出発。2時間ほどロスが生じました。手ぶらの旅行は、楽ですね。「珍道中」(N市のNさん)というには、気勢が上がりませんが・・。

円は鞄の中、ユーロは財布の中と分けていて、円の方が多かった。でもユーロも残りがありましたので、ケルンで、音楽と神学の文献を少し探そうと思いました。フランクフルトからケルンはICEで一駅。でも値段は高いです。ケルンでまず昼食、ビールでも飲んで頭を冷やそう、という計画を立てました。

ケルン着。国際列車は本数も少なく案外混んでいます。用意のいい私はまず指定券を確保しようと、自動販売機へ。次便は夕方になってしまいますが、文献探しにはちょうどいいか、と思いつつ、チケットを手にしました。

ところがよく見ると、発車は5分後。自動販売機の操作を間違えたようなのです。窓口で変更してもらう手もありましたが、もう行ってしまえという気になり、列車を探しました。停車中の列車は、今フランクフルトから乗ってきたICE。なんだ、停車中に切符を買い直しただけか。

ノドが渇き、眼が血走っていたかどうかわかりませんが、お腹は空いています。一等車では女性の車掌さんが食べ物を配っていましたので、ソーセージとビールを注文。腹が減っては、戦ができません。

しかし、待てど暮らせど来ないのですね。乗車が12時20分、オランダに入ってユトレヒト着が15:00でしたが、ついに配達がありませんでした。これって、怒っていいと思いません?

「泣き面に蜂」とか「水に落ちた犬は叩け」とかいう成句も浮かぶ状況でしたが、ケルンでの資料探しを割愛したのは、結局正解でした。ユトレヒトに着いたその足で、スキポール空港に行くゆとりが生まれたからです。

盗まれたバッグの中の最重要品目のひとつは航空券でしたが、これはパスポートで、無事再発行してもらうことができました。次いで、預けたままのトランクを出しに、コインロッカーへ。なにしろ前科があるのでコインロッカーにはいつも緊張しますが、これも無事に落掌。ようやくハイネッケン・ビールとサンドイッチで、昼食を摂りました。17:00近くです。

荷物と共に、再びユトレヒトへ。この日最後の懸念は、自分が泊まるホテルを探し当てられるかどうか、ということでした。言葉の問題ではありません。調べるすべがないのです。

ヨーロッパ通信2014(15)/楽々と出国2014年04月28日 22時44分37秒

予約したホテルの名前は、なかなか覚えられないもの。直前にメールチェックをして確認するのが、いつものことでした。しかし18日(金)の場合、チェックするすべがありません。「駅前」に取ったはずだ、というのが唯一のヒントでした。

トランクをもって降り立ったユトレヒト駅。東口は長大な駅ビルになっていて、出たところに、簡易なホテルがいくつかあります。対して西口は、広々した再開発地域になっている。離れたところに、ホテルがぽつぽつ。順番に聞いていくつもりでしたが、幸い2軒目が、私の選択したホテルでした。

駅周辺はいたるところ工事中で、風の強い日だったせいか、寒々した印象。美しい街という印象は受けませんでした。一応、大聖堂とその塔の写真を掲載します。通信できないスマホの、最後のバッテリーで撮ったものです。



19日(土)。飛行機は14:40発ですが、もう観光のしようがありませんので、早々と空港に行きました。でも、空港に早く行くのはいいことですね。なにより安心。セキュリティ・チェックも、あっという間に済んでしまいました。手荷物がないのだから、当然です。でも楽ですよ!

早々と出国を済ませ、KLMのラウンジに行きました。はい、エコノミーの方は、入れてもらえないところです。厳重なチェックを要望します。

広々と静かなスペースが用意され、セルフサービスで、ハイネッケンのビールも、ワインもシャンパンも、自由に飲むことができる。飛行機で寝るためにはなるべく飲んでおこうという気持ちが働き、けっこう、たくさん飲んでしまいました。時間に合わせて動いたのでは、ここまで楽しむことはできません。次は、出発の時も、早く着きたいと思います。

買い物もしませんでしたから、行きよりもかなり少ない荷物で帰ってきました。成田でトランクを送れば、あとは手ぶらです。紛失したルーターは、案外高くつきました。まあ、いい勉強がです。帰った日本は、じつに清潔で美しいと思いました。

次は、旅行の総括をさせてください。

ヨーロッパ通信2014(16)/総括2014年04月29日 23時55分30秒

自分の概念を広げてくれる、すばらしい旅行でした。ベネルクスに対する認識が乏しく、オランダとベルギーとの区別もろくについていなかったのは、恥ずかしいかぎりです。オランダとベルギーはどちらも古楽のメッカですが、じっさいにはまったく異なる世界ですね。私の見るところ、観光価値には大差があります。ベルギーが、圧倒的に上だと思います(私見です)。

なぜか。オランダは、新しい国です。17世紀に海洋国家として世界に雄飛し、みごとな市民文化を生み出した。レンブラントの宗教画、ロイスダールの風景画、ホントホルストの風俗画、ハルスの人物画・・・すばらしい美術が目白押しです。18世紀にはもう、衰えてしまったのですけれど。

でも、中世がないのです。近世の文化というのは、人間の所産として、ある程度想像がつく。しかしベルギーに行って中世の大伽藍に接すると、これは桁違いだ、と思わざるを得ません。思えばベルギーにはトゥルネー、クレルヴォといった由緒ある町があり、ルネサンス初期には、フランドル楽派の作曲家たちを輩出したわけですよね。やがて絵画には、ブリューゲル、ルーベンスが出てくる。この厚みは、行ってみて初めて実感したことです。

古い文化というのは、本当に大きな価値です。観光に訪れるわれわれは、町を訪れると何はともあれ、旧市街を目指す。そこに文化があるからです。ですから文化作りには古いものを尊重にする心がなにより大切だと、つくづく思いました。日本人も、変えよう、リセットしようとばかりしていると、将来には何も残らないことになりかねません。伝統に、伝統芸術に、敬意をもちたいと思います(画像は、リエージュ聖パウロ教会の礼拝堂)。


復活祭前のこととて、教会の祭壇画には、十字架降下、ピエタといった遺骸取り下ろしの画像が多数使われていました。オランダでも、ベルギーでもそうでした。遺骸の傷ついた足をいとおしむマグダラのマリアの姿などを見ていると、イエスの刑死がどれほどの悲嘆を周囲の人に呼び起こしたかに、思いを致さずにはいられません。

ああこれか、バッハの受難曲を貫いているものは、と思いました。こういう思いの深さから受難芸術は生まれている。ですから、受難にしっかり向き合わずしては、受難曲の感動は生まれないのです。それは洗礼を受けているかどうかの問題ではなく、想像力の問題、普遍的な宗教性の問題であると思われます。


私の鬼門フランクフルトも、中央広場のあたりはいいところです(汗)。