代名詞もむずかしい ― 2008年01月29日 22時27分21秒
翻訳のむずかしさの続き。劣らず問題なのが、3人称の代名詞です。ドイツ語ではしきりに「彼にihm」「彼らにihnen」と言った言葉が出てきますが、これらは明治時代に翻訳語として使い始められた言葉だそうで、今でも、あまり日本語的ではありませんよね。よく使う、という人は、少ないと思う。訳文では、どうしたらいいでしょう。
第106番という、有名なカンタータがあります。最近私も入念に研究して、コンサートをやったばかりです。
この曲の歌詞は「神の時は最良の時Gotteszeit ist die allerbeste Zeit」と始まります。しかし「神」という言葉は後半のアルト・アリアまで出ず、この先はずっと、代名詞で受けているのです。直訳すると「彼において私たちは生き、動き,存在する、彼の意図されるかぎり。彼において私たちはしかるべき時に死ぬ、彼の意図される時に」となります。
でも、神を「彼」って、おかしいですよね。「あのお方」というのもわざとらしいので、代名詞をやめ、全部「神」としてしまうと、一応すっきりする。しかしバッハは、初め一度(ソプラノだけ二度)「神Gott」の語を歌わせるだけで、あとは、意図的にやめているのです。「彼ihm」はいくらでも反復するのに、です。バッハはこのように「神」という言葉を敬い、温存して、テノールのアリオーソからは、「主Herr」という言葉を投入する。そして、劇的な四重唱のあとのアルト・アリアで、「主よ、まことなる神よ」と歌わせ、神の認識に立ち戻ります。こうしたすばらしい趣向が、日本語らしい訳文を作る感覚と、衝突してしまうのです。
言葉の反復の仕方は、バッハの言葉と音楽の関係を見ていく上で、大切でわかりやすい指標になります。興味のある方は、調べてみてください。
むずかしい二人称 ― 2008年01月28日 23時34分31秒
高島さんの本に、「日本語に二人称なし」という項がありました。日本語には二人称がなく、あらわすには、ほかの言葉を使う。知らない人や目上の人をあらわす二人称がないことでは、不自由する場合もある、と書いてありました。
なるほど。メールでも、目上の人に「貴兄」じゃおかしいし、さほど親しくない女性に「貴女」じゃなれなれしいし・・。それ以上に考え込んだのは、カンタータや受難曲、あるいはドイツ歌曲の歌詞を訳すとき、この問題でいつも困っていた、と思い当たったからです。
話をバッハのドイツ語歌詞に限りましょう。歌詞のように、少ない言葉で一語一語の意味をもたせている場合、意訳には限度があります。日本語の流れに持ち込んでしまえばわかりやすいことは確かですが、もとの単語が音楽によって生かされている場合などには、ピントがぼけてしまう。かといって単語対応を丹念に生かすと、文意が取りにくくなりますし、読む人が読むと、「こんなものが日本語か」と感じることになりかねません。
最重要単語の1つ、Gott。呼びかけの場合、敬語の発達した日本語で、「神」ということはまずないでしょう。「神様」です。Jesus。「イエスは彼に言った」とはいわず、「イエス様は彼におっしゃった」ですよね(「彼」も変ですが、ここはがまんしてください)。でもドイツ語は Jesus sprach zu ihm で、どちらも同じです。
"mein Gott"、"mein Jesu(s)"というのも、よく出てくる。この場合はどうでしょう。単語対応させれば「私の神」「私のイエス」ですが、日本語ではまず、そう言わない。「私の」を付けない方が自然です。「私の」であることが前後から明瞭な場合には、付けるべきでないと、会話や説明的な文章の場合には、言うことができる。妻を紹介するとき、向こうなら「マイ・ワイフ」(マイネ・フラウ)ですが、日本で「私の」と付けたら、変ですよね。
ところが、この"mein"に気持ちがこもっていることが、歌詞ではよくあるのです。”Mein Jesu, gute Nacht!"は、「イエスよ、おやすみなさい」と自然に訳すか(一般化されるので「気持ち」は出なくなる)、「私のイエスよ、おやすみなさい」として気持ちを出すか、むずかしいところです(「イエス様、おやすみなさいませ」というのもありでしょうか)。パーセンテージのかなりを占める所有形容詞を、訳すか訳さないか。いつも迷い、そのときの判断でどちらもありにしている、というのが正直なところです。
ロ短調学会(11) ― 2008年01月25日 17時04分31秒
「ロ短調学会」への補遺です。
《ロ短調ミサ曲》をめぐる問題のひとつは、この作品をどこまでルター派プロテスタント的なものとみるか、あるいはカトリック的なものとみるかということでした(この問題については、小林義武先生の『バッハ--伝承の謎を追う』(春秋社)に、詳しく論じられています)。もちろんそれが問題になるのは、ルター派の教会音楽家であったバッハが、カトリック的な相貌をもつミサ曲をカトリックの領主に捧げたという、特殊な事情があるからです。曲が畢生の大作であるだけに、ここをどう考えるかは、バッハ像の根本にかかわるわけです。
近年、バッハとドレスデン宮廷の密接な関係が認識されるにつれ、《ロ短調ミサ曲》をカトリック的なものと認める、という考え方が強くなってきていました。この曲の楽譜は、息子C.P.E.バッハの遺産目録に「大カトリック・ミサ曲die grosse catholische Messe」として出てくるのですが、この名称をそのまま使う人もかなり増えている状況でした。
「ロ短調学会」では、ロビン・リーバー氏が《ロ短調ミサ曲》のルター派的性格を改めて述べ、「大カトリック・ミサ曲」という呼称にある「カトリック」とは文字通り「普遍性をもつ」という意味で、ローマ・カトリックを指していない、と強調しました。ヴォルフ氏も同じ見解を述べていましたが、その「カトリック」を「ローマ・カトリック」と峻別することにはやや無理があるのではないか(つまり相当まで重なっているのではないか)と、私は思いました。
バッハの「宮廷作曲家」称号請願の意図や請願書の文章を、バッハが同じ年(1733年)に購入した『カーロフ聖書』から解釈する発表もありました(M.D.グリーア)。総じて、バッハ研究の世界ではプロテスタント系の発想がなお強いようです。この問題に関する私自身の考えについては、稿をあらためて。
ロ短調学会(7) ― 2008年01月09日 12時26分31秒
その詳細については機会を改めて報告することにし、先を急ぎましょう。11月3日は、終日、発表と討論が続きました。最初に「神学」のセッション(ロビン・リーバー他)、続いて「作曲と意味(2):数比」(ウルリヒ・ジーゲレ他)、「作曲と意味(1):美学」(ジョージ・スタウファー他)。そして「資料とエディション」(ハンス=ヨアヒム・シュルツェ他)。クリストフ・ヴォルフ氏のキーノート・ペーパー(作品研究の歴史と現状、諸問題に関する要領のよいまとめ)で夕食休憩となり、そのあとはレセプションとなりました。楽しい談笑の写真が公式ホームページに紹介されていますが、私は翌日の発表原稿が不十分だったのでホテルに戻り、改良に精を出しました。深夜、富田さんが訪ねてくださり、疲れもみせずに協力してくださったのには感謝。富田さんの献身的な働きへの賞賛と感謝は、すべての参加者の口に満ちあふれていました。
疾風のように、英語の飛び交う学会です。みんな、ものすごいスピードでしゃべる。指揮者のアンドルー・パロットさんなんか、超特急。不安になった私が長老のジーゲレ先生に「英語ができないので心配です」と申し上げると、「私もですよ」というお返事。たしかにドイツ系の先生には、英語は苦手とお見受けする方が案外おられました。それでも、質問の内容は的確にとらえて、最低限の対応をする。やはり、ヒアリングが一定のレベルにあることが、重要なようです。
(写真は、配布された資料。発表論文を集めた冊子、既存の研究を集めた冊子、プログラムとレジュメ集、諸外国の演奏記録を集めた冊子。)
ロ短調学会(2) ― 2008年01月04日 09時04分13秒
しかし、これを英語にしなくてはならない。口頭発表のためにも、英語の準備は肝要です。急に上手になれるはずはないが、何か、いい方法はないだろうか。私が選んだのは、英文の作成をネイティブの方にお願いし、それを暗記して発表に臨む、というやり方でした。
外国語の勉強は丸暗記に限る、というのはかねてからの持論ですが、昔読んだ外国語勉強法の本に、海外の学会に行くたびにその言葉の論文を1つ暗記する、という方法が紹介されていることを思い出しました。そこで、日本語にして40枚ほどの論文を、歩きながら、お風呂に入りながらetc暗記し、ほとんどすらすら言えるまでにしました。この方法は絶対お薦めです。自分の論文にかかわる語彙が頭に入りますし、種々のイディオムも、自分の発想に即して覚えることができるからです。日常会話の暗記も少しやりましたが、力のほとんどは、論文の暗記の方に注ぎました。
もちろんその程度では、全然足りません。日が迫るにつれ、気が重くなってきました。主催者側の準備はすばらしく進行しています。発表される論文を集めた冊子が作成されて、ネット上で配布されました。参加者に事前に読んでもらい、ディス火ションを充実させよう、という趣向です。書き手には有名な人が揃っていますし、感心するほどの力作揃い。なにしろ、注が100以上(!)付いた論文が2つあるのです。私は人にプレッシャーをかけるのが好きだとよく言われますが、その報いがしっかり来たようでした。(続)
ロ短調学会(1) ― 2008年01月03日 14時43分24秒
世界中のバッハ学者が一堂に会し、《ロ短調ミサ曲》について3日間論じ合う--こういう壮大な企画を立ち上げられたのは、ベルファスト大学教授の富田庸さんです。なぜ《マタイ受難曲》ではなくて《ロ短調ミサ曲》であるかといいますと、《ロ短調ミサ曲》には解明されていない謎が多く、この曲を基本的にどうとらえるかということについてさえ、学者間に大きな意見の相違があるためです。また、近年のバッハ研究の進展が、この作品を考えなおす上でのさまざまなきっかけを与えつつあることも確かです。私自身は、目下ザクセン選帝侯慶祝のための世俗カンタータを研究しているため、目的や背景の重なり合う《ロ短調ミサ曲》を採り上げるシンポジウムは、たいへん魅力的に映りました。
富田さんから参加の打診をいただいたのは、2006年の11月でした。すばらしい企画だとは思ったものの、おいそれとは引き受けられません。なぜなら私は、大学をドイツ語で受験したことからもわかるように、英語は苦手で(とくに会話)、これまで、まともに使ったことがなかったからです。この歳でそんなリスクを冒さなくてもいいのではないか、とも思いました。それでも結局参加を決心したのは、内容的なことに加えて、次のような理由があったからです。ひとつは、国際的に活躍されている好漢、富田さんを、日本の研究者としてできるだけ応援したい、ということ。もうひとつは、この時点で日本音楽学会の第9代会長に就任することが決まっており(2007年4月から着任)、国際的な仕事は率先してやらなければならない、と思ったことです。
シンポジウムでは、世界諸地域での受容がセッションの1つになるということでした。そこで研究発表は「《ロ短調ミサ曲》と日本人--〈普遍性〉という難題」というテーマで行うことにしました。《ロ短調ミサ曲》のすぐれた特徴として語られる「普遍性」は日本人にとって案外受け入れにくいものなのではないかと思っていましたので、そのあたりを日本人がどう考えてきたかを調べてみよう、と思ったのです。
この段階で、それまであまり気に留めていなかったひとつの事実が、大きな意味をもって浮かび上がってきました。それは、私の勤務する国立音楽大学が昭和6(1931)年に、大学の教職員・学生によって《ロ短調ミサ曲》を日本初演した、という事実です。この初演は、クラウス・プリングスハイムが芸大関係者を指揮して《マタイ受難曲》を初演する6年も前に行われました(《ヨハネ受難曲》は、同じプリングスハイムの指揮で昭和18(1943)年に初演)。私は思わぬ形で、自分の大学の歴史と出会ったわけです。(続く)
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