オペラの解説 ― 2012年03月27日 09時49分02秒
25日(日)は、立川アミューでモーツァルトのレクチャー・コンサート。国立音大のメンバーとの、最後のオフィシャル・コンサートでした。その様子については、前話へのコメントでルビーさんが書いてくださっていますので、それをもって代えさせていただきます。
《魔笛》の解説は、寸劇入りのナレーションとしました。第1幕のフィナーレは長く、しかも入り組んでいますので、起こる事件、登場する人物、交わされる会話をなるべくよく理解していただかなくてはなりません。そこで、推敲を重ねた原稿を手に持って進めました。
しかしふと思ったのですが、これが小説であれば、また演劇であっても、事前に結果を明らかにしておくことはしませんよね。「どうなるのか」という関心が先へと引っ張っる原動力ですから、種明かしをしてしまっては、興ざめです。しかしオペラだと、むしろストーリーがわかっていることで、音楽を楽しめるのではないでしょうか。外国語だから、という理由だけではないように思うのです。
終演後、理事長、学長も臨席の上で、私を中心とする打ち上げを開いていただきました。ご出演いただいた先生方と懇談し、みなさんがさまざまな夢をお持ちであることを実感。話に加わりながら、これまでご一緒できたことの喜びと、最後になることの(一抹の)寂しさを感じました。ずいぶんたくさんやったのですよね。演奏の先生方が私を「音楽家」だと言ってくださったことが、嬉しい餞別でした。二次会で日本酒を飲み、それでも午後のうちに帰宅。肩書は31日までありますが、もう大学に行くことはなさそうです。
《魔笛》の解説は、寸劇入りのナレーションとしました。第1幕のフィナーレは長く、しかも入り組んでいますので、起こる事件、登場する人物、交わされる会話をなるべくよく理解していただかなくてはなりません。そこで、推敲を重ねた原稿を手に持って進めました。
しかしふと思ったのですが、これが小説であれば、また演劇であっても、事前に結果を明らかにしておくことはしませんよね。「どうなるのか」という関心が先へと引っ張っる原動力ですから、種明かしをしてしまっては、興ざめです。しかしオペラだと、むしろストーリーがわかっていることで、音楽を楽しめるのではないでしょうか。外国語だから、という理由だけではないように思うのです。
終演後、理事長、学長も臨席の上で、私を中心とする打ち上げを開いていただきました。ご出演いただいた先生方と懇談し、みなさんがさまざまな夢をお持ちであることを実感。話に加わりながら、これまでご一緒できたことの喜びと、最後になることの(一抹の)寂しさを感じました。ずいぶんたくさんやったのですよね。演奏の先生方が私を「音楽家」だと言ってくださったことが、嬉しい餞別でした。二次会で日本酒を飲み、それでも午後のうちに帰宅。肩書は31日までありますが、もう大学に行くことはなさそうです。
日比谷公会堂 ― 2012年03月04日 23時51分25秒
今日は、「日露修好ショスタコーヴィチ・プロジェクト2012」というイベントのために、日比谷公会堂に行きました。何年ぶりだろう、ここ。若い頃に通ったのに違いはないのですが、私は容れ物に執着するたちではないので、なつかしの涙、という感じにはなりません。冬の日比谷公園は、日曜日でもがらんとしていました。私は霞が関から行きましたが、すぐそばに、内幸町の地下鉄駅があるのですね。
15:00という招待券をもっていったところ、コンサートはもう始まっていて、14:30からの間違いだった、とのこと。帰り際主催者から謝罪されましたが、この種の間違いはほとんど謝罪する側なので、かえって恐縮してしまいます。
シチェドリンの《カルメン組曲》が響く中、階段をいくつも登って、2階最後尾の席に案内してもらいました。斜め下に会堂の全容を望める、高いところです。びっくりしたのは、音がいいこと。アンサンブル金沢の響きがまとまって、くっきりと、シャープに聴こえてきます。あれ、こんなにいいのにこのホール使わないの?と、まず思いました。
そうしたら、演奏を終えた井上道義さんが客席に向かって、今日は空席があるから、2階の一番上に行ってください、音がいいですよ、と話されたのです。まさに、私の座っているところ。それでも席を移動する人がほとんどいなかったのは、日本人の規律正しさですね。30分の間違いから、ホールの良さを知る幸運を味わいました。
メインは、ショスタコーヴィチの交響曲第14番。晦渋な作品で、演奏者の健闘にもかかわらず、もうひとつ理解がおよびませんでした。わかりたい音楽が、まだたくさんあります。
15:00という招待券をもっていったところ、コンサートはもう始まっていて、14:30からの間違いだった、とのこと。帰り際主催者から謝罪されましたが、この種の間違いはほとんど謝罪する側なので、かえって恐縮してしまいます。
シチェドリンの《カルメン組曲》が響く中、階段をいくつも登って、2階最後尾の席に案内してもらいました。斜め下に会堂の全容を望める、高いところです。びっくりしたのは、音がいいこと。アンサンブル金沢の響きがまとまって、くっきりと、シャープに聴こえてきます。あれ、こんなにいいのにこのホール使わないの?と、まず思いました。
そうしたら、演奏を終えた井上道義さんが客席に向かって、今日は空席があるから、2階の一番上に行ってください、音がいいですよ、と話されたのです。まさに、私の座っているところ。それでも席を移動する人がほとんどいなかったのは、日本人の規律正しさですね。30分の間違いから、ホールの良さを知る幸運を味わいました。
メインは、ショスタコーヴィチの交響曲第14番。晦渋な作品で、演奏者の健闘にもかかわらず、もうひとつ理解がおよびませんでした。わかりたい音楽が、まだたくさんあります。
千里眼のバッハ ― 2012年02月13日 08時05分57秒
日曜日は朝早く出て、松本へ。こんなに天気のいい日はありません。大月から甲府へ向かう途中、トンネルを抜けたところに、甲府盆地を一望できるところがあります。この日は白銀の南アルプスが甲斐駒から赤石岳までずらりと連なり、すばらしい眺め。冬晴れた日の中央本線の眺望は、一等地を抜いているいと思います。北アルプスも全部見えました。それでいて、暖かい。非の打ち所のない前提で、不吉な予感がしてきました。
道中、慣れない楽譜ソフトの作業を継続。つながってしまっている音符を分けたり、小節を削除したりする作業を覚え、やっとファイルを完成させて、松本に着きました。でもこれで疲れてしまった。相当の疲労を覚えつつ、「わかると楽しい《フーガの技法》」というレクチャーを開始しました。もちろん、そんなにすぐわかるものではないのですが。
分析に入り、作った音源を鳴らしてみると、2つのフーガで、まったく調子が狂っている。これには気が動転してしまいました。いろいろな楽器を指定してみようとした結果、うっかり移調楽器を含めてしまっていたのです。ちゃんとチェックしておかなくてはダメですね。
そこで昼の部のコンサートは前半を休み、打ち込み直し。ますます疲労してしまいました。昼の部終了後には対談が入り、二度目のレクチャーもありましたので(今度はちゃんと鳴りました)、やっと音楽に打ち込めたのは、夜の部も後半になってからです。
曲が《フーガの技法》ともなると、演奏者もたいへんです。演奏効果を発揮できるところがまったくなく、終始、張り詰めた正確な演奏を求められるからです。ですからみな、真剣そのもの。先般の《ロ短調ミサ曲》は若々しい情熱がほとばしる演奏でしたが、今回の《フーガの技法》は、思索的・静観的で、小林道夫先生の千里眼がバッハ晩年の世界を見通すような趣がありました。桐山さんの編曲も卓抜。最後の〈私はいま御座の前に〉のコラール定旋律が、木管の重ねによりオルガンそのもののように響いたのにはびっくりしました。
こういうコンサートを成立させ、ザ・ハーモニー・ホールの小ホールを一杯にしたスタッフ、中澤秀行さんの情熱はすごいです。終了後松本バッハの会の方々と二次会、三次会を過ごし、時と共に疲労が癒されていきました。佳きかな、友人。
道中、慣れない楽譜ソフトの作業を継続。つながってしまっている音符を分けたり、小節を削除したりする作業を覚え、やっとファイルを完成させて、松本に着きました。でもこれで疲れてしまった。相当の疲労を覚えつつ、「わかると楽しい《フーガの技法》」というレクチャーを開始しました。もちろん、そんなにすぐわかるものではないのですが。
分析に入り、作った音源を鳴らしてみると、2つのフーガで、まったく調子が狂っている。これには気が動転してしまいました。いろいろな楽器を指定してみようとした結果、うっかり移調楽器を含めてしまっていたのです。ちゃんとチェックしておかなくてはダメですね。
そこで昼の部のコンサートは前半を休み、打ち込み直し。ますます疲労してしまいました。昼の部終了後には対談が入り、二度目のレクチャーもありましたので(今度はちゃんと鳴りました)、やっと音楽に打ち込めたのは、夜の部も後半になってからです。
曲が《フーガの技法》ともなると、演奏者もたいへんです。演奏効果を発揮できるところがまったくなく、終始、張り詰めた正確な演奏を求められるからです。ですからみな、真剣そのもの。先般の《ロ短調ミサ曲》は若々しい情熱がほとばしる演奏でしたが、今回の《フーガの技法》は、思索的・静観的で、小林道夫先生の千里眼がバッハ晩年の世界を見通すような趣がありました。桐山さんの編曲も卓抜。最後の〈私はいま御座の前に〉のコラール定旋律が、木管の重ねによりオルガンそのもののように響いたのにはびっくりしました。
こういうコンサートを成立させ、ザ・ハーモニー・ホールの小ホールを一杯にしたスタッフ、中澤秀行さんの情熱はすごいです。終了後松本バッハの会の方々と二次会、三次会を過ごし、時と共に疲労が癒されていきました。佳きかな、友人。
ガラ・コンサートを最前列で ― 2012年02月04日 23時57分26秒
今日(土曜日)は午前中朝日カルチャー新宿校で、現代音楽論。時間が来ましたので、次回は音楽とは何かの話をします、とアナウンスして終了しました。すると受講生の方が、「今日で終わりですよ」とおっしゃるのですね。てっきり、3月もあるものと思っていました。予定にも書きこんであるんだけどなあ・・・。
午後はNHKホールに、日本音楽コンクールの80周年ガラ・コンサートを聴きに行きました。いただいた席についてみると、なんと、最前列の中央なのです。同列の方々の中で、明らかに私は浮いています(汗)。よく知っている方もステージに出てくるのですし、困りました。嬉しく思う人はいないことが、わかっているからです。最後、清水和音さんのラヴェルの協奏曲のときには、ピアノの向こう側に客席に向けたカメラが置かれ、その方向に、まさに私がいるのです。皆さん、放送は見ないでください(と言ったら、営業妨害になっちゃいますね)。
でもオーケストラの演奏が内声に至るまでよくわかり、面白くもある席でした。N響、さすが。
6人の、世代もさまざまなアーティストが出演されました。今年の声楽1位、テノールの西村悟さんの歌うカヴァラドッシとカラフに、まず圧倒されましたね。コメンテーターの池辺さんが「甘さと男らしさを兼ね備えた」とおっしゃっていましたが、まさにその通り。すばらしい高音と、容姿を兼ね備えた方です。
ヴィオレッタを歌われた澤畑恵美さんの芸術性には、いつもながらうっとり。言葉の表現が、本当にしっかりしているのです(大喝采)。若手ヴァイオリニストの成田達輝さんの明澄な美意識にも感心しました。そして、司会の黒柳徹子さん。プロとしか言いようのない、若々しいエネルギーを発散しておられました。明日は、須坂に行きます。
午後はNHKホールに、日本音楽コンクールの80周年ガラ・コンサートを聴きに行きました。いただいた席についてみると、なんと、最前列の中央なのです。同列の方々の中で、明らかに私は浮いています(汗)。よく知っている方もステージに出てくるのですし、困りました。嬉しく思う人はいないことが、わかっているからです。最後、清水和音さんのラヴェルの協奏曲のときには、ピアノの向こう側に客席に向けたカメラが置かれ、その方向に、まさに私がいるのです。皆さん、放送は見ないでください(と言ったら、営業妨害になっちゃいますね)。
でもオーケストラの演奏が内声に至るまでよくわかり、面白くもある席でした。N響、さすが。
6人の、世代もさまざまなアーティストが出演されました。今年の声楽1位、テノールの西村悟さんの歌うカヴァラドッシとカラフに、まず圧倒されましたね。コメンテーターの池辺さんが「甘さと男らしさを兼ね備えた」とおっしゃっていましたが、まさにその通り。すばらしい高音と、容姿を兼ね備えた方です。
ヴィオレッタを歌われた澤畑恵美さんの芸術性には、いつもながらうっとり。言葉の表現が、本当にしっかりしているのです(大喝采)。若手ヴァイオリニストの成田達輝さんの明澄な美意識にも感心しました。そして、司会の黒柳徹子さん。プロとしか言いようのない、若々しいエネルギーを発散しておられました。明日は、須坂に行きます。
音楽批評 ― 2011年12月14日 10時10分01秒
「音楽美学概論」の授業で、音楽批評について取り上げました。その困難さやあるべき姿を、自分の経験をお話ししつつ考える、という趣旨です。授業の進行中新聞に発表し、配布して読んでいただいた批評が3つありました。ウィーン・フィル、ベルリン・フィル、パドモア/フェルナーの《冬の旅》です。
興味を示された聴講生の方が、授業の最後に、これからも読みたいのでブログに載せてくれないか、とおっしゃいました。かつてホームページをやっていた頃は、行ったコンサートのほとんどに少しずつ感想を書いていたのですが、今は控えていて、とくに良かったものの中から、ぜひ知っていただきたいものの一部をご紹介しています。職業柄不用意な価値判断はできませんし、コンサート通いの詳細を公表するのも良し悪しだ、という思いがあるからです。
上記3つのうちでは、《冬の旅》が断然良かったです。12日の毎日新聞に掲載された批評、許可をいただきましたので次に引用しておきます。タイトルは、新聞社によるものです。
従来イメージ吹き飛ばす名演
イギリスのテノール、マーク・パドモアが、ピアノのティル・フェルナーと、シューベルトの三大歌曲集を共演。トッパンホールの「歌曲の森」に含まれる企画で、私は12月4日の《冬の旅》を聴いた。テノールが《冬の旅》を歌うということは、曲が作曲者の指定したオリジナルの調で再現されることを意味する。その効果はやはり大きく、バリトンやバスで積み重ねられてきた従来のイメージが、一気に吹き飛んでしまった。冬を旅するのは悟りきった老人ではなく、これから生きなくてはならぬ、血の通った青年のはずだからだ。
すっきりと明晰な声。すみずみまで聞き取れるドイツ語。枢要な言葉にわずかな余情を彫り込みつつ、端正に重ねられる語り。パドモアの発声は広い音域にわたってゆるみなくコントロールされ、音程の正確さに加えて、楽譜への反応が針を穿つように鋭敏だ。《最後の希(のぞ)み》における声とピアノの掛け合いは現代の器楽曲さながらで、思わず息を呑んだ。
古楽が専門というイメージから連想するひ弱さは、まったくない。歌唱は芯の強い毅然としたスタンスで運ばれ、劇的な振幅も豊か。疲れた主人公を時に幻覚が襲う後半でも、パドモアは分岐の〈道しるべ〉をしたたかに見据え、墓地という〈宿〉を前に、すっくと背筋を伸ばす。こうして蓄えられた〈勇気〉に促されて、青年は未踏の旅を続けるのだ。
ウィーンのピアニスト、フェルナーの貢献を特筆しておきたい。《冬の旅》のピアノ・パートには一見単調な持続がいたるところにあらわれるが、フェルナーは和音の構成に配慮し、変転する明暗をみごとに弾き分けて、パドモアを支えた。大切な音をわずかのタッチできらめかせる間合いと集中に効果があり、鬼火の描写も絶妙だった。
歌い手とピアニストの紡ぐ純度の高い楽の音が、ひとえにシューベルトのみをめざしてホールに湧く。そんなひとときに居合わせるのは、なんとすばらしい体験だろう。
興味を示された聴講生の方が、授業の最後に、これからも読みたいのでブログに載せてくれないか、とおっしゃいました。かつてホームページをやっていた頃は、行ったコンサートのほとんどに少しずつ感想を書いていたのですが、今は控えていて、とくに良かったものの中から、ぜひ知っていただきたいものの一部をご紹介しています。職業柄不用意な価値判断はできませんし、コンサート通いの詳細を公表するのも良し悪しだ、という思いがあるからです。
上記3つのうちでは、《冬の旅》が断然良かったです。12日の毎日新聞に掲載された批評、許可をいただきましたので次に引用しておきます。タイトルは、新聞社によるものです。
従来イメージ吹き飛ばす名演
イギリスのテノール、マーク・パドモアが、ピアノのティル・フェルナーと、シューベルトの三大歌曲集を共演。トッパンホールの「歌曲の森」に含まれる企画で、私は12月4日の《冬の旅》を聴いた。テノールが《冬の旅》を歌うということは、曲が作曲者の指定したオリジナルの調で再現されることを意味する。その効果はやはり大きく、バリトンやバスで積み重ねられてきた従来のイメージが、一気に吹き飛んでしまった。冬を旅するのは悟りきった老人ではなく、これから生きなくてはならぬ、血の通った青年のはずだからだ。
すっきりと明晰な声。すみずみまで聞き取れるドイツ語。枢要な言葉にわずかな余情を彫り込みつつ、端正に重ねられる語り。パドモアの発声は広い音域にわたってゆるみなくコントロールされ、音程の正確さに加えて、楽譜への反応が針を穿つように鋭敏だ。《最後の希(のぞ)み》における声とピアノの掛け合いは現代の器楽曲さながらで、思わず息を呑んだ。
古楽が専門というイメージから連想するひ弱さは、まったくない。歌唱は芯の強い毅然としたスタンスで運ばれ、劇的な振幅も豊か。疲れた主人公を時に幻覚が襲う後半でも、パドモアは分岐の〈道しるべ〉をしたたかに見据え、墓地という〈宿〉を前に、すっくと背筋を伸ばす。こうして蓄えられた〈勇気〉に促されて、青年は未踏の旅を続けるのだ。
ウィーンのピアニスト、フェルナーの貢献を特筆しておきたい。《冬の旅》のピアノ・パートには一見単調な持続がいたるところにあらわれるが、フェルナーは和音の構成に配慮し、変転する明暗をみごとに弾き分けて、パドモアを支えた。大切な音をわずかのタッチできらめかせる間合いと集中に効果があり、鬼火の描写も絶妙だった。
歌い手とピアニストの紡ぐ純度の高い楽の音が、ひとえにシューベルトのみをめざしてホールに湧く。そんなひとときに居合わせるのは、なんとすばらしい体験だろう。
進化した《ポッペアの戴冠》 ― 2011年11月28日 06時13分40秒
11月27日(日)、一橋大学(国立市)の由緒ある兼松講堂で、渡邊順生指揮、ザ・バロック・バンドによるモンテヴェルディ《ポッペアの戴冠》が上演されました。私が仕切った2つの公演(須坂、国分寺)の延長線上にあるものですが、今回私は直接関与せず渡邊さんにおまかせし、プレ講演2回と字幕、そして当日の解説のみを担当しました。
準備を覗いたのも、ゲネプロの第3幕だけ。したがって当日の気分にも一定の距離感があり、客観性をもって鑑賞したつもりです。しかしそんな眼で見ても、公演はすばらしかったですね。終演のステージに呼んでいただき、スタンディング・オベーションというものを初めて目の当たりにしました。一橋大学OBの力をお借りして今回大きな発展があり、ささやかな試みのように始まったものが、外に出せる成果に達したと思います。
発展の内容は、3つ。1つは従来省略してきたナンバーがかなり復元されて、ストーリーの生起を切れ目なくたどれる、全曲に近い形になったこと。とくに、アルナルタ(押見朋子)、ヌトリーチェ(布施奈緒子)の2人の乳母が喜劇的な彩りを添えたことが、オペラの世界をバランスよく広げたと思います。第2は、若手演出家の舘亜里沙さんが起用されそのスタッフが参加したことで、舞台面が引き締められ、効率的に進行したこと。もう1つは、器楽がずっと拡充され、2本ずつのコルネットとリコーダー、バロック・ハープ、3台の鍵盤楽器、ガンバに加えてのチェロの参加によって、初期バロックにふさわしい多彩な響きが実現できたことです。楽器のレベル向上は、本当に隔世の感があります。
iBACHの歌い手たち(阿部雅子、内之倉勝哉、高橋織子、湯川亜也子、安田祥子、葛西賢治、狩野賢一。あ、押見さんもiBACHです)も3度目ですから、習熟度が格段に高くなり、みな見事でした。加うるに、セネカに起用されたバス歌手、小田川哲也さんの歌唱が圧巻。この役柄の重要性がいかんなく示されました。初参加の櫻田智子さん、長尾譲さん、西村有希子さんもそれぞれ適役でした。
みんなが燃えたのは、つまるところ、作品がすばらしいからです。上演するごとに発見されるそのすばらしさには、ただ感嘆するのみです。
準備を覗いたのも、ゲネプロの第3幕だけ。したがって当日の気分にも一定の距離感があり、客観性をもって鑑賞したつもりです。しかしそんな眼で見ても、公演はすばらしかったですね。終演のステージに呼んでいただき、スタンディング・オベーションというものを初めて目の当たりにしました。一橋大学OBの力をお借りして今回大きな発展があり、ささやかな試みのように始まったものが、外に出せる成果に達したと思います。
発展の内容は、3つ。1つは従来省略してきたナンバーがかなり復元されて、ストーリーの生起を切れ目なくたどれる、全曲に近い形になったこと。とくに、アルナルタ(押見朋子)、ヌトリーチェ(布施奈緒子)の2人の乳母が喜劇的な彩りを添えたことが、オペラの世界をバランスよく広げたと思います。第2は、若手演出家の舘亜里沙さんが起用されそのスタッフが参加したことで、舞台面が引き締められ、効率的に進行したこと。もう1つは、器楽がずっと拡充され、2本ずつのコルネットとリコーダー、バロック・ハープ、3台の鍵盤楽器、ガンバに加えてのチェロの参加によって、初期バロックにふさわしい多彩な響きが実現できたことです。楽器のレベル向上は、本当に隔世の感があります。
iBACHの歌い手たち(阿部雅子、内之倉勝哉、高橋織子、湯川亜也子、安田祥子、葛西賢治、狩野賢一。あ、押見さんもiBACHです)も3度目ですから、習熟度が格段に高くなり、みな見事でした。加うるに、セネカに起用されたバス歌手、小田川哲也さんの歌唱が圧巻。この役柄の重要性がいかんなく示されました。初参加の櫻田智子さん、長尾譲さん、西村有希子さんもそれぞれ適役でした。
みんなが燃えたのは、つまるところ、作品がすばらしいからです。上演するごとに発見されるそのすばらしさには、ただ感嘆するのみです。
ボローニャの《カルメン》 ― 2011年09月16日 23時18分34秒
元気を回復して、高能率で仕事。とてもできないだろうと思っていたゲラの直しを完了して、今日、出版社に戻しました。どうやら、10月20日出版の線で行けそうです。
仕事の間を縫って、昨日、今日と、コンサートに行きました。昨日は、異能の歌い手、松平敬さんの、超個性的な無伴奏(!)リサイタル。今日は、ボローニャ歌劇場の《カルメン》です。
ボローニャ歌劇場は、売りだった主役の6人がキャンセル(ひとりは死亡)。病名をそれぞれに公表するなど、謝罪に大わらわです。プログラムが来ない人たちの華麗なインタビューで埋まっていたのはあらあらという感じですが、代役は、しっかり立っているのではないでしょうか。《カルメン》では、ホセもエスカミーリョもミカエラもなんと交代したのですが、代役は悪くありませんでした。アルバレス(ホセ、カウフマンから交代)の第4幕など、迫真の演唱。しかしこういう人は、何かをキャンセルして来日するわけですよね。どういう理由を付けているのか、気になります。
《カルメン》はやっぱり、曲がいいですね。エキゾチックなところもいいが、私は第2幕の5重唱や第3幕の6重唱のようなスケルツァンドな曲もすてきだと思います。音楽的には、転調が個性的で、面白い。いずれにしろ、誰にでも楽しめる音楽です。
最初のうちは、イタリア人がフランス・オペラをやると曲線が全部直線になるな、などと思って聴いていたのですが、徐々に引きこまれました。場面は1990年代のキューバ、エスカミーリョはボクサー。こうした設定を私はけっして喜びませんが(演出家はラトヴィア人)、しかし押さえるところは押さえた舞台なので、許容範囲ではあります。
驚くほどスタイルのいいカルメン(ニーナ・スルグラーゼ)に、巨体のミカエラ(ヴァレンティーナ・コッラデッティ)。肉付きのいいカルメンに清楚なミカエラという先入観があったのでびっくりしましたが、リアリティからすればこれはこれでありかな、と納得。NHK児童合唱団は、のびのびしていて、とても良かったと思います。
毅然としたカルメンに、情けないホセ(第4幕)。当初は斬新な設定だったのでしょうが、いまはよくある、むしろありすぎる光景なのかもしれませんね。というわけで、なかなか楽しめました。来週は《清教徒》に行きます。
仕事の間を縫って、昨日、今日と、コンサートに行きました。昨日は、異能の歌い手、松平敬さんの、超個性的な無伴奏(!)リサイタル。今日は、ボローニャ歌劇場の《カルメン》です。
ボローニャ歌劇場は、売りだった主役の6人がキャンセル(ひとりは死亡)。病名をそれぞれに公表するなど、謝罪に大わらわです。プログラムが来ない人たちの華麗なインタビューで埋まっていたのはあらあらという感じですが、代役は、しっかり立っているのではないでしょうか。《カルメン》では、ホセもエスカミーリョもミカエラもなんと交代したのですが、代役は悪くありませんでした。アルバレス(ホセ、カウフマンから交代)の第4幕など、迫真の演唱。しかしこういう人は、何かをキャンセルして来日するわけですよね。どういう理由を付けているのか、気になります。
《カルメン》はやっぱり、曲がいいですね。エキゾチックなところもいいが、私は第2幕の5重唱や第3幕の6重唱のようなスケルツァンドな曲もすてきだと思います。音楽的には、転調が個性的で、面白い。いずれにしろ、誰にでも楽しめる音楽です。
最初のうちは、イタリア人がフランス・オペラをやると曲線が全部直線になるな、などと思って聴いていたのですが、徐々に引きこまれました。場面は1990年代のキューバ、エスカミーリョはボクサー。こうした設定を私はけっして喜びませんが(演出家はラトヴィア人)、しかし押さえるところは押さえた舞台なので、許容範囲ではあります。
驚くほどスタイルのいいカルメン(ニーナ・スルグラーゼ)に、巨体のミカエラ(ヴァレンティーナ・コッラデッティ)。肉付きのいいカルメンに清楚なミカエラという先入観があったのでびっくりしましたが、リアリティからすればこれはこれでありかな、と納得。NHK児童合唱団は、のびのびしていて、とても良かったと思います。
毅然としたカルメンに、情けないホセ(第4幕)。当初は斬新な設定だったのでしょうが、いまはよくある、むしろありすぎる光景なのかもしれませんね。というわけで、なかなか楽しめました。来週は《清教徒》に行きます。
「3」で斬る《ドン・ジョヴァンニ》 ― 2011年08月23日 13時08分12秒
コンサートの後半は、例年のごとく、管楽アンサンブル伴奏によるオペラのハイライトです(足本憲治さん編曲)。「3」という数をもとにモーツァルトのオペラにどうアプローチできるか、考えました。
三重唱を並べるだけでは、コンサートになりません。《魔笛》には3が活躍しますが、3が単位になるのは、脇役ですよね。そこで気づいたのが、《ドン・ジョヴァンニ》です。このオペラには、三重唱場面が複数あるのみならず、アリアや二重唱に、「事実上の三重唱」になるものがある。ドンナ・エルヴィーラのアリアには脇からジョヴァンニとレポレッロがからみますし、墓場でのジョヴァンニとレポレッロの二重唱には、石像の返事が入ります。そこで、アリアは2曲のみとし、あとは広義の三重唱を並べて、次のようなプログラムを作りました。
騎士長の死の場面→エルヴィーラのアリア→〈カタログの歌〉→〈シャンパンの歌〉→エルヴィーラ、ジョヴァンニ、レポレッロの三重唱(私のいちばん好きな曲)→墓場の二重唱→フィナーレ(ジョヴァンニとレポレッロの食事の場面ですが、途中でエルヴィーラが入り、彼女と入れ替わりに石像が入る)。要するに、男声三重唱によって始まり、男声三重唱によって終わることになります。
マニアックといえばその一語に尽きるでしょうが、3人のバスがまったく違うイメージで使われていることがよくわかり、この角度から眺める《ドン・ジョヴァンニ》もとても面白いと思いました。なにしろキャストが、黒田博(ドン・ジョヴァンニ)、久保田真澄(レポレッロ)、長谷川顯(騎士長/石像)プラス澤畑恵美(ドンナ・エルヴィーラ)という、日本を代表する顔ぶれ。管楽器にも教授陣をはじめとする名手がずらりと揃っており、こんな顔ぶれでレクチャーコンサートができるなんて、ありがたいかぎりです。
というわけで、圧倒的な盛り上がりとなった福岡のコンサートですが、第1部で登場した地元の在学生・卒業生の演奏がレベルも集中度もたいへん高かったことも、貢献として忘れることができません。中でも、在学中親しかった方が立派に歌われたシュトラウスの《万霊節》には、涙を禁じ得ませんでした。6年間に、いろいろな思い出を作った同調会コンサート。これで終わりです。ご協力いただいたすべての方々に感謝申し上げます。
三重唱を並べるだけでは、コンサートになりません。《魔笛》には3が活躍しますが、3が単位になるのは、脇役ですよね。そこで気づいたのが、《ドン・ジョヴァンニ》です。このオペラには、三重唱場面が複数あるのみならず、アリアや二重唱に、「事実上の三重唱」になるものがある。ドンナ・エルヴィーラのアリアには脇からジョヴァンニとレポレッロがからみますし、墓場でのジョヴァンニとレポレッロの二重唱には、石像の返事が入ります。そこで、アリアは2曲のみとし、あとは広義の三重唱を並べて、次のようなプログラムを作りました。
騎士長の死の場面→エルヴィーラのアリア→〈カタログの歌〉→〈シャンパンの歌〉→エルヴィーラ、ジョヴァンニ、レポレッロの三重唱(私のいちばん好きな曲)→墓場の二重唱→フィナーレ(ジョヴァンニとレポレッロの食事の場面ですが、途中でエルヴィーラが入り、彼女と入れ替わりに石像が入る)。要するに、男声三重唱によって始まり、男声三重唱によって終わることになります。
マニアックといえばその一語に尽きるでしょうが、3人のバスがまったく違うイメージで使われていることがよくわかり、この角度から眺める《ドン・ジョヴァンニ》もとても面白いと思いました。なにしろキャストが、黒田博(ドン・ジョヴァンニ)、久保田真澄(レポレッロ)、長谷川顯(騎士長/石像)プラス澤畑恵美(ドンナ・エルヴィーラ)という、日本を代表する顔ぶれ。管楽器にも教授陣をはじめとする名手がずらりと揃っており、こんな顔ぶれでレクチャーコンサートができるなんて、ありがたいかぎりです。
というわけで、圧倒的な盛り上がりとなった福岡のコンサートですが、第1部で登場した地元の在学生・卒業生の演奏がレベルも集中度もたいへん高かったことも、貢献として忘れることができません。中でも、在学中親しかった方が立派に歌われたシュトラウスの《万霊節》には、涙を禁じ得ませんでした。6年間に、いろいろな思い出を作った同調会コンサート。これで終わりです。ご協力いただいたすべての方々に感謝申し上げます。
「3」の自由さ ― 2011年08月21日 22時32分05秒
福岡で、レクチャーコンサートをしてきました。ここ6年間続けてきた、国立音楽大学と同調会(卒業生の組織)の共催によるコンサートで、「モーツァルトの美意識」というタイトルのもとに、私が企画立案をさせていただいてきたシリーズです。
さまざまな制約のもとに考えるテーマがだんだん行き詰まり、今回は、「モーツァルトにとって”3”とは?」という、一風変わったテーマにしました。バッハならば、3は神の数としていたるところを支配しており、そのプログラミングも容易。しかしモーツァルトの音楽は、神学と関係付けて説明するわけにはいかず、3と結びつけて考えたことはありませんでした(《魔笛》の「3」は、フリーメーソンとの関係によるので、ちょっと特別です)。
このテーマを思いついたのは、一つには、変ホ長調K.563のすばらしいディヴェルティメントを演奏したいと思ったから。全6楽章の大曲ですがそこから3つの楽章を選び、弦の三重奏によるこの曲と、ピアノ、クラリネット、ヴィオラによる《ケーゲルシュタット・トリオ》を組み合わせる形で、前半器楽の部を構想しました。
変ホ長調のディヴェルティメントの、秋空をどこまでも昇るような飛翔感、究極の軽やかさは、かねてから私の愛してやまないところだったのですが、じっさいにやってみて実感するのは、やはりこれはトリオ編成だからこそありうる音楽だ、ということ。弦楽四重奏になったのでは、多少とも重くなり、しっかりして、あの融通無碍な感じからは遠ざかることがよくわかりました。
《ケーゲルシュタット》も同じ。ステージでインタビューさせていただいた久元祐子さんが「3には遊びがある」とおっしゃったことが、すべてを言い表しています。2(たとえばヴァイオリン・ソナタ)だと相手と向きあうスタンスになり、4だと枠組みがしっかり出来上がる感じになる。その点、3は自由に遊び合える音楽だというのです。企画して初めて気づく、一つの本質ではありました。
大関博明さんのチームによるディヴェルティメント、久元さん、武田忠善さんの絶妙ペアにヴィオラの民谷可奈子さんを加えた《ケーゲルシュタット》、どちらも本当にいい演奏で、モーツァルトの「3」を、かけがえないものとして楽しみました。後半のオペラについては、次話で。
福岡、いいですね!数知れぬほどの食べ物屋、飲み屋があり、どこも温かく人懐こい雰囲気で、お客さんを待っています。何日でも楽しく滞在できるところだと思いますが、こんなにたくさんお店があってやっていけるのかどうか、いつもながら心配でなりません。
さまざまな制約のもとに考えるテーマがだんだん行き詰まり、今回は、「モーツァルトにとって”3”とは?」という、一風変わったテーマにしました。バッハならば、3は神の数としていたるところを支配しており、そのプログラミングも容易。しかしモーツァルトの音楽は、神学と関係付けて説明するわけにはいかず、3と結びつけて考えたことはありませんでした(《魔笛》の「3」は、フリーメーソンとの関係によるので、ちょっと特別です)。
このテーマを思いついたのは、一つには、変ホ長調K.563のすばらしいディヴェルティメントを演奏したいと思ったから。全6楽章の大曲ですがそこから3つの楽章を選び、弦の三重奏によるこの曲と、ピアノ、クラリネット、ヴィオラによる《ケーゲルシュタット・トリオ》を組み合わせる形で、前半器楽の部を構想しました。
変ホ長調のディヴェルティメントの、秋空をどこまでも昇るような飛翔感、究極の軽やかさは、かねてから私の愛してやまないところだったのですが、じっさいにやってみて実感するのは、やはりこれはトリオ編成だからこそありうる音楽だ、ということ。弦楽四重奏になったのでは、多少とも重くなり、しっかりして、あの融通無碍な感じからは遠ざかることがよくわかりました。
《ケーゲルシュタット》も同じ。ステージでインタビューさせていただいた久元祐子さんが「3には遊びがある」とおっしゃったことが、すべてを言い表しています。2(たとえばヴァイオリン・ソナタ)だと相手と向きあうスタンスになり、4だと枠組みがしっかり出来上がる感じになる。その点、3は自由に遊び合える音楽だというのです。企画して初めて気づく、一つの本質ではありました。
大関博明さんのチームによるディヴェルティメント、久元さん、武田忠善さんの絶妙ペアにヴィオラの民谷可奈子さんを加えた《ケーゲルシュタット》、どちらも本当にいい演奏で、モーツァルトの「3」を、かけがえないものとして楽しみました。後半のオペラについては、次話で。
福岡、いいですね!数知れぬほどの食べ物屋、飲み屋があり、どこも温かく人懐こい雰囲気で、お客さんを待っています。何日でも楽しく滞在できるところだと思いますが、こんなにたくさんお店があってやっていけるのかどうか、いつもながら心配でなりません。
大盛況のオルガン・シリーズ ― 2011年08月06日 23時45分31秒
朝6時に家を出て、大阪へ。降り立つとカッと明るい夏の天気で、空気が澄んでいます。気持ちのいい朝。いずみホールの周辺は、蝉の大合唱でした。本日のオルガニスト、エリクソン氏もこれには驚き、何の音だ、と言われたそうです。
ライプツィヒとの提携によるバッハ・オルガン作品演奏会シリーズの好調についてはおりおりにご報告してきましたが、そう長続きするものではない、という気持ちももっていました。シリーズというのは先細りするものですし、出演者も、このところ一般には知られていない人が続いているからです。最近4回の出演者は、ジェイムズ・デイヴィッド・クリスティ、ハンス・ファギウス、ヴォルフガング・ツェーラー、ハンス=オラ・エリクソンですが、そのうち、ご存知の方は何人いますか?複数いたら、相当のオルガン通であると思います。
ところが今回はとりわけ券売が好調で、ほぼ満席とか。ほっと安堵しました。しかし、コンサートにお客様を集めることがどれほどむずかしいかを経験し続けてきた身としては、とても不思議にも感じます。オルガン曲は地味ですし、このシリーズを始めるまでは、ずいぶん継続に苦労もしていたからです。
分析はいろいろしてみたいと思いますが、間違いなくあるのは、芸術監督クリストフ・ヴォルフ先生の人選の確かさと、選ばれたオルガニストたちが最高の演奏でつないでくれているところから生まれる、信頼性。コンサート前から次回の予約に大勢の方が並ばれるというのは、それなくしてはあり得ないと思います。私自身、次々と登場する世界的オルガニストたちの力量に、驚いてしまっているのです。
エリクソンさんの演奏も、すぐれた造形感覚と時間を大きくとらえる発想をもつ卓越したものでした。とりわけ、難曲《天にましますわれらの父よ》の明晰な表現と、《パッサカリア》の凝集力が圧巻。《パッサカリア》はご承知の通り、ループする低音の上にゴシック教会のように荘厳な空間を築いてゆく作品ですが、やがて主題が低音から解放され、各声部に振りまかれますよね。フーガになるところです。その部分が、教会空間から重い扉を空けて自然の中に踏み出したような開放感を伴っていて、印象に残りました。
演奏そのものに劣らず印象深かったのが、プログラム作りの見事さでした。いいプログラムだと思ってはいましたが、リハーサルを聴いているときにその狙いがわかり、電気に打たれたようになりました。バッハの音楽と同様、それ自身幾何学を内包していると思われるようなその見事なプログラムについては、長くなりますので明日書くことにします。
ライプツィヒとの提携によるバッハ・オルガン作品演奏会シリーズの好調についてはおりおりにご報告してきましたが、そう長続きするものではない、という気持ちももっていました。シリーズというのは先細りするものですし、出演者も、このところ一般には知られていない人が続いているからです。最近4回の出演者は、ジェイムズ・デイヴィッド・クリスティ、ハンス・ファギウス、ヴォルフガング・ツェーラー、ハンス=オラ・エリクソンですが、そのうち、ご存知の方は何人いますか?複数いたら、相当のオルガン通であると思います。
ところが今回はとりわけ券売が好調で、ほぼ満席とか。ほっと安堵しました。しかし、コンサートにお客様を集めることがどれほどむずかしいかを経験し続けてきた身としては、とても不思議にも感じます。オルガン曲は地味ですし、このシリーズを始めるまでは、ずいぶん継続に苦労もしていたからです。
分析はいろいろしてみたいと思いますが、間違いなくあるのは、芸術監督クリストフ・ヴォルフ先生の人選の確かさと、選ばれたオルガニストたちが最高の演奏でつないでくれているところから生まれる、信頼性。コンサート前から次回の予約に大勢の方が並ばれるというのは、それなくしてはあり得ないと思います。私自身、次々と登場する世界的オルガニストたちの力量に、驚いてしまっているのです。
エリクソンさんの演奏も、すぐれた造形感覚と時間を大きくとらえる発想をもつ卓越したものでした。とりわけ、難曲《天にましますわれらの父よ》の明晰な表現と、《パッサカリア》の凝集力が圧巻。《パッサカリア》はご承知の通り、ループする低音の上にゴシック教会のように荘厳な空間を築いてゆく作品ですが、やがて主題が低音から解放され、各声部に振りまかれますよね。フーガになるところです。その部分が、教会空間から重い扉を空けて自然の中に踏み出したような開放感を伴っていて、印象に残りました。
演奏そのものに劣らず印象深かったのが、プログラム作りの見事さでした。いいプログラムだと思ってはいましたが、リハーサルを聴いているときにその狙いがわかり、電気に打たれたようになりました。バッハの音楽と同様、それ自身幾何学を内包していると思われるようなその見事なプログラムについては、長くなりますので明日書くことにします。
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