四戸さんのファミリー・コンサート2012年09月21日 22時40分25秒

地球は回りますから、世代交代は世の常です。でも、尊敬するクラリネット奏者、四戸世紀さんが読響を辞められたと聴いたときは(去年)、まだ青年のように気高く清潔な演奏をされるこの方が後進に道を譲るとはもったいないなあ、と思ったものです。

その四戸さんがこのたび、下北沢のアレイホールで、ファミリーコンサートを開かれました(9月15日)。参加されたのはご本人と、帰国された奥様の正子さん(ヴァイオリン)、お姉様のシャンソン歌手、麻生ミエさん、ピアノ協力が岡田知子さんと加藤のりこさん。さらに義姉の四戸美津子さんが、階下のギャラリーで美術参加されました。

こうした企画はコンサートとしてのまとまりを作りにくいものですし、プログラムも軽い方向に流れることが多いものです。この日もその傾向はなしとしなかったのですが、雰囲気がとても温かで、行って良かったと思いました。私にとってとくに印象深かったのは、四戸さんのクラリネットが芸術好きの家庭にしっかりとはぐくまれたものであること、すばらしいシャンソンを歌われるお姉様を含めて、探究心の基礎が、大の音楽愛好家であるお兄様の影響で形作られていると知ったことでした。戦後早い頃からクラシックの本格的なレコードを集めて聴き、熱心に芸術を語るアマチュアの存在がこうしたプロの誕生に影響を与え得るという事実に、勇気づけられました。

ちなみにこのお兄様、四戸康一さんは、「たのくら」を長いこと支えてくださっている方のひとりです。その人間的な魅力に、いつも教えられています。

大物です2012年08月24日 01時43分18秒

今日も暑かったですね。夜コンサートが予定されていましたが、軽装で出かけました。NHKの録音を済ませ、早めの夕食を摂ろうと、新宿西口方面を散策。「蒙古タンメン中本」という店に入りました。過去何度か入ろうとしていつも入れずにいたお店で(行列)、今日は幸い滑り込めました。

人気店ですね。次々とお客が入ってきて、景気がいい。ただ、すべて若い人で、年配者は、私しかいないのです。とりあえず穏やかにと注文した「蒙古タンメン」も、相当なボリューム。右側を見ると、ごく普通の体型の若い人が、ライス大盛りの丼を横にして食べています。信じられません。大らかな味わいでおいしかったですが、「自分場違い」という気持ちも少し残りました。

汗をかきかき、オペラシティへ。今日は、出光音楽賞の受賞記念コンサートなのです。一応ネクタイをして、会場に入りました。「題名のない音楽会」の収録を兼ねていますから、満員です。将来性のある若手を選ぶこの音楽賞、今年の受賞者は2人のピアニスト(金子三勇士さん、萩原麻未さん)と1人のマリンバ奏者(塚越慎子さん)。私のお目当ては、国音のホープ、塚越さんでした。音楽学に在籍されたお姉様(←皇族のような方)のご紹介で、バッハ関係のアドバイスをさせていただいています。

いや、大物です!直接お話ししているとホンワカした感じの方なのですが(天然、といったら失礼かな)、ステージに上がると堂々たる風格で、演奏に集中したときのオーラがすごい。奥行きのある、広々した音楽作りをされます。12月に「たのくら」のコンサートに出演されるのですが、楽しみです。またご案内しますね。

レセプションにも出席しました。ところが予想に反して、上着を着ないでいったのが、ほとんど私だけ。皆さん、盛装なのです。こういう時って、本当にいたたまれない思いをします。上着をもっていくべきでした。

考えさせられたこと2012年08月01日 22時59分40秒

さて、オペラ《白虎》についてです。ダヴィデヒデさんにコメントで「批評記事を楽しみにしている」と先手を打たれてしまいましたが、私は当談話室を基本的に、批評の場とは考えておりません。私は新聞批評という場をもっていますので、価値の厳格な詮索はそちらで行うこととし、当欄では、私が本当にいいと思ったものを、世間的にはマイナーなものも含めてご紹介することにしています。ですから、聴いたものを全部書いているわけではありません。

客観的に見れば、成功した公演だったと思います。名歌手を揃え、すぐれた指揮者と演出家のもとで周到に準備された熱のある公演で、福島県自慢の合唱も、大きな役割を演じました。劇的な盛り上がりも十分あり、地域からの立派な発信と理解しました。

私が満たされなかったのは、ただ一点です。私には、この作品が何を言いたいのか、最後までわからなかったのです。それには、私なりの事情があります。

先日新聞で、編集委員の方が署名されているコラムを読みました。その趣旨は、戦争から逃げ帰っても生きていれば人生は先につながる。そういう生き方を是認する価値観を作るべきではないか、というものでした。要するに、この世で生きることを唯一最上の価値とする、という考え方です。

これには相当考えさせられました。だとすると、「命がけで」とか「死を賭して」という言葉は死語になり、武士道も自己犠牲も否定されてしまう。バッハの安息もワーグナーの救済も、無意味なものになります。もっと言えば、宗教も芸術も不要になる。それらは、この世を超えた価値がある、ということを前提としているからです。

そういう考え方が力をもつ「現代」というものを考え続けていましたので、白虎隊がどのように扱われるかに、私的にとても関心があった。生き残りが主人公となり、結びの言葉が「私は生きる」というものになると聞いていましたので、そうした台本において武士道の価値がどのように救い出されるのか、あるいは救い出されないのかに、興味をもっていたのです。

その意味では、問題提起こそあれ、結果的にははぐらかされてしまった、と言わざるを得ません。それを今回求めるのは酷であるような気もしてきていますが、少なくとも、武士道精神に殉じて自刃する西郷千恵子の場面が、腰越満美さんの熱唱もあってとりわけ感動的であったことの意味は、考えてみたいと思います。

続・宮崎のキャサリン妃2012年07月23日 23時56分26秒

プログラムは《月光》ソナタ、バッハ=ブラームスの《シャコンヌ》、《展覧会の絵》というものでした。《シャコンヌ》は、最初のリサイタルで採り上げて以来、シムウェルさんのレパートリーになっています。今回、ブゾーニ編曲に挑戦しようかと思ったが、ブラームスの方がずっといいのでブラームスにした、とのお話。同感です。

《シャコンヌ》の原曲は、無伴奏ヴァイオリンです。すなわち、本来は不可能な手段で、オルガン顔負けのポリフォニーを構築しているのがこの曲。聴き手の想像力に訴える分だけ、深いわけです。これに対しブゾーニの編曲は、グランドピアノを駆使して、ヴァイオリンのできないところを全部顕在化しようとしている。華々しいが、奥行きがありません。一方ブラームスは、左手に限定しているためにヴァイオリンの譜面からあまり離れておらず、手段の制約、想像力に訴えるという本質的な部分を残しています。はるかに、バッハを聴いた気持ちがするわけです。

あまり聴く機会のないブラームス編曲ですが、よく弾き込まれていて、起伏と盛り上がりのある、見事な演奏でした。後半、《展覧会の絵》の演奏も、修士論文で取り組まれただけあって、曲想をよくとらえた、絢爛たるもの。ほっそりしたお姿からは考えられないほど思い切りがよく、めりはりが利いているのです。度胸、という言葉を使いたくなりましたが、どちらもリハーサルに比べて格段にテンポが速かったことからしますと、超ハイ・テンションであられたのかもしれません。

というわけですっかり感心し、どうしてこうしたことが可能であるのかを思い巡らせました。想像するに、次のようなことではないかなあ、と。女性は家庭を持つと時間も労力も大幅に割かれ、音楽に集中できない場合が現実には多いと思います。それは音楽にとってマイナスとしか普通には思われないのですが、その安定感がプラスとなって、音楽的に成長するということがあるのではないか。もちろんいつもそううまくはいかないでしょうが、家庭は単なるマイナスではない、という実例が、ここにあるのではないか。恩師の先生(女性)にそう申し上げたところ、自分もそう思う、とおっしゃいました。世の女性を勇気づけることではないか、と思った次第です。

宮崎のキャサリン妃2012年07月22日 23時44分51秒

宮崎と鈴鹿で仕事をする2日間。かなりの強行日程です。飛行機は羽田発10時だったのですが(ソラシド航空)、あやうく乗り遅れるところで冷や汗をかきました。それは、谷保→川崎→京浜川崎のコースでアプローチしながら、京浜蒲田での乗り換えをうっかりし、品川まで行ってしまったからです。これで40分もロス。でもこのように始まる日の仕事は概してうまくいくというのが、私の理論です。

リサイタルを開かれるシムウェル(大薗)英華さんは、仲間内では有名な方で、ファンが大勢おられます。近況を知りたい方も多かろうと思いますので、少し詳しくレポートしますね。

コンサートは、宮崎市の市庁舎に接した市民プラザの、オルブライト・ホールで行われました。500席の、使いやすいホールです。備え付けのスタインウェイのピアノは最初とても気になりましたが、弾き込むにつれてよくなり、最終的には調律師の方の調整で、十分に効果を発揮しました。あ、リハーサル中に計画停電があったのには驚きました。

個人リサイタルでトークをするのは、むずかしい面があります。下手をすると、とってつけたようになってしまう。聴衆はほとんど初対面の方々ですから、最初のトークで、できるだけの一体感を作る必要があります。いらしているのはシムウェルさんのファンの方々なので、彼女に対するキャッチフレーズを献上するところから始めたいと思いました。そこで考えたのが、タイトルにつけた「宮崎のキャサリン妃」というものです。いかがでしょう。なにしろ、ご主人がイギリス人。たいへん美しく気品がある方という点でも共通です(似てはいません)。うまく考えたつもりですが、だめでしょうか(笑)。

学生の頃とまったく変わっておられないのは信じられないことですが、華麗なテクニックが健在で、音楽的に相当の進歩が感じられたことには、もっと驚きました。恩師の先生も進歩を認めておられたので、私だけの印象ではないと思います。ご家族の世話をし、4歳のお嬢さん(←お人形そのもの)を育て、2つの学校で教え、という多忙な日常を知っていましたので、どうしてこういうことがありうるのか、考えこんでしまいました。(続く)

圧巻のモンテヴェルディ2012年07月17日 23時56分28秒

梅雨明け猛暑の17日(火)。聖心女子大の前期最後の授業を済ませた私は、タクシーを拾って、サントリーホールへ。今日は渡邊順生さんのサントリー音楽賞受賞記念コンサート(モンテヴェルディ《聖母マリアの夕べの祈り》)があるのです。私は公演自体には関与していませんが、解説と字幕の担当。リハーサルで、字幕をチェックしておかなくてはなりません。

なにぶん失敗の許されないコンサートなので、期待と心配が半ばしていました。なあんだ、となったら最悪です。リハーサルを聴くうちに心配は募り、これで本当に大丈夫だろうか、といぶかしみつつ、本番を迎えました。広い会場に、思いがけず多くのお客様が詰めかけておられます。

しかし本番は、全然違ったのです。声楽、器楽ともに細部までみごとな様式感で仕上げられ、まとまりも気迫も十分。安堵の思いはたちまち、この大傑作への感嘆へと転化しました。詩篇もいいが、はさまれるモテットがすばらしいですね。〈私は黒いNigra sum〉以降は、涙を抑えかねる状況。櫻田亮、谷口洋介のテノール2枚が強力で、両者でかわされるエコーが、随所で作品を引き立てます。ソプラノのセリーヌ・シェーンさんも、パルランドに個性を感じさせる歌でした。でも誰がどうということではありません。みなが一体となって、作品に向かっているのです。

休憩時間に、また終了後にいろいろな方とお話しし、展開される至純の美に心洗われたのは私だけではないとわかりました。渡邊さんの受賞に華を添えたのみならず、サントリーにとっても私にとっても嬉しい、熱い盛り上がりのあるコンサートでした。またモンテヴェルディ病が再発しそうです。

ドイツ旅行記(5)--教会のコンサート良し悪し2012年06月21日 23時21分23秒

10日(日)、ブルックナーと昼食で満腹した私は、またまた汽車に乗り、ライプツィヒへ。17:00から聖トーマス教会で、マーカス・クリード指揮、ヴォーカル・コンソート・ベルリンによる、モテットの演奏会があるのです。古楽様式による透明な、小編成の合唱です。

プログラムの構成が、卓抜でした。「バロックの埋葬音楽」と題され、聖書から「われらの人生は70年」「死者は幸いである」「涙をもって刈り取る者は」といったテキストが選ばれて進んでいきます。作曲家は、シャイン、シュッツ、ヨハン・ミヒャエル・バッハ、シェレ、そしてバッハ。コンサートが佳境に入ると、「来たれ、イエスよ、来たれ」の歌詞によるシェレとバッハのモテットの、また「イエスよ、わが喜び」の歌詞によるミヒャエル・バッハとバッハのモテットの比較が行われました。このあたりを好きな人間にとっては、たまらないプログラムです。

演奏がまた、じつに良かった。静かで地味な、なんの見栄も張らない淡々とした演奏ですが、曲に込められた思いが、じわじわと伝わってくるのです。そのことは聴衆にしっかり伝わり、バッハのモテットが終わった後には、(もちろんたっぷりした余韻を置いてですが)深いところから湧き上がるような、長い拍手がありました。今回もっとも感動したのが、このコンサートでした。

終了後、献身的にサポートしてくださったバッハ・アルヒーフの高野さん、同僚研究者の富田さん、現地に留学中の越懸澤さんと食事。その後20:00から始まる《ゴルトベルク変奏曲》のコンサートに向かいました。こちらは裁判所の一室を借りて行われるのです。

演奏者はイアリアのチェンバリスト、ルーカ・グリエルミ。大局観に欠け、乱れもある演奏で、あまり感心できませんでした。華やかな演奏効果と数学的な構成の結合がこの作品の本質なので、前者に傾くと、いい結果はまず得られないように思います。

さて、教会でコンサートを聴くことの長所短所について考えたことを書かせてください。バッハの活動していたあの教会で、という付加価値は除いて考えます。

由緒ある教会で聴いて絶対にいいのは、オルガンです。石の壁に幾重にも反射して届くオルガンの響きはとてもやわらかく、コンサートホールで聴くナマなパイプの響きとは大きく異なります。しかし合唱、合奏となりますと、短所も無視できないように思われます。

BCJの《マタイ受難曲》は、バッハの時代そのままに、2階の合唱席で演奏されました。これですと、1階中央の聴き手は祭壇を向いていますから、演奏者を見ることができずに、背後から聴くことになります。これはこれで、宗教音楽を聴くためにはいい形であると思います。私は2階席で聴きましたが、演奏者の全部ないし一部を距離をおかずに見ることができる反面、印象がリアルになり、教会の「ありがたみ」は後退するように思います。

前述したモテットのコンサートは、1階の祭壇側に演奏者が立って行われました。コープマンのカンタータも同様です。これも悪くはないのですが、構造上演奏者を見にくく(前にいるのでつい見たくなります)、音も散りがちて、かならずしも十分な量感で届いてきません。コンサートホールがいかに演奏を「見ながら聴く」ことに便利にできているかが、逆に実感されます。プログラムを見る配慮もおそらくあって、教会は、いつになく明るく照明されています。そうなると、教会特有の神秘感もまた、減退するわけです。というわけで、「教会音楽は教会で聴かなければ」とは、必ずしも言えないように思いました。1日3コンサートの強行軍。ドレスデン帰還はこの日も最終列車になりました。

ドイツ旅行記(4)--2つのコンサート2012年06月20日 23時00分58秒

ライプツィヒ・バッハ祭6月9日のハイライトは、聖ニコライ教会で20:00から始まるコンサートでした。ニコライ教会は《ヨハネ受難曲》を初演したところで、バッハのカンタータ演奏においてはトーマス教会以上の重要性をもっていた教会です。


コープマンの出演が人気を呼び、チケットは発売と同時に売り切れたそうですが、私は、一抹の不安を感じていました。コープマンはいま一番活躍しているバッハ演奏家ですが、とにかく出来不出来がある。私が日本で聴いたコンサートは、あいにく全部不出来でした。優秀なオーケストラと合唱団を擁していますから、鍵盤のソロはともかく、指揮ならばそうなるはずはないのですが。

しかしこの日は、登場から闘志満々。さすがハイレベルの、生気にあふれた演奏でした。曲目は管弦楽組曲第1番ハ長調、カンタータの第51番、第199番、第202番というものでした。えっ、ソプラノのソロ・カンタータが3曲?と思われますよね。その通りで、3つの難曲をすべて、ドイツのソプラノ、ドロテー・ミールツが歌ったのです。若々しい魅力的な女性で、歌唱も輝きにあふれて完璧。こうしたプログラムで起用されるだけのことはあります。51番のトランペットも、たいしたもの。沸きに沸く会場をあとに、終電車でドレスデンに帰還。

翌10日は日曜日。午前中にゼンパー・オーパーで、ドレスデン・シュターツカペレのコンサートが組まれていました。大統領(←ドイツでは儀礼的な役割のために存在している)の主宰するチャリティで、国歌の吹奏、大統領とザクセン州知事のスピーチのある、晴れがましいコンサートです。曲目はブルックナーの第8交響曲で、指揮はクリスティアン・ティーレマン。じつに幸運なタイミングで、このコンサートに飛び込めました。


壮麗な演奏でしたね。ホルン、ワーグナー・チューバ、トロンボーンなど金管陣の厚みはすばらしく、ブルックナー・サウンドがホールを包んで圧巻。最後、各楽章の主題が同時的に結合されるクライマックスが訪れますよね。響き終わったあと、私は大きな拍手とブラボーの嵐が来ると思っていました。

ところが、演奏の余韻を噛みしめる静寂が、私の感覚では15秒ほど、訪れたのです。さすが熟した聴衆と、私は本当に感心しました。taiseiさんがヴィンシャーマンのコンサートに対して同じ感想を書かれていますが、やはりコンサートはこうあるべきいう確信を新たにしました。すぐ拍手したのではその時点で日常に戻ってしまいますが、余韻を楽しむ時間をもつことにより、すばらしい演奏を聴いた体験を、心に深く刻むことができるのです。皆さん、ぜひそうしていきませんか。

超満員2012年05月06日 13時31分28秒

連休のさなか、東京文化会館小ホールで、「松本」と名のつく団体による、バッハ《ブランデンブルク協奏曲》の全曲コンサート。入場者はどのぐらい、と読むのが普通でしょうか。チケットを売る苦労をしたことのある人であれば、厳しく読むのが普通でしょう。私も、そう思っていました。

ところが。満員札止めで補助席の出る盛況というのは、近過去には記憶がありません。いろいろな努力があったのだろうと思いますが、これはやはり、小林道夫先生の長年のお仕事に対して培われた信頼と尊敬のたまものでしょう。すごいですね。

プレトークをやる立場からすれば、これはとてもありがたいこと。なにしろ自由席なので、トークを始める時刻、すなわち開演の45分前には、会場があらかた埋まっていたのです。そうなると高揚するというのは、演奏家の方々と同じ。ただスクリーンに限界があり、映しだす自筆譜の見にくい席がずいぶんできてしまったのは、申し訳ありませんでした。

控え室が、先生と同室になりました。久しぶりにお話しましたが、爽やかで配慮にあふれたお人柄に、まったく老いが感じられません。君も本当にいい仕事をするのはこれからだ、というお言葉をいただいて恐縮。14年後にこういう風である自信は、まったくありませんよ。

こういう先生がチェンバロに座っているので、コンサートではとりわけ第5番が心にしみました。今回はコンサートマスターの桐山建志さんがかなり主導権を分担されていましたが、そんな形で、長く続けられればいいですね。それにしても桐山さんは、演奏、教育からこうしたコンサートのプロデュースに至る膨大なお仕事を、いつなさるのでしょうか。高貴な演奏に一点の曇もないだけに、不思議でなりません。

定期訪問は錦糸町から2012年04月14日 23時52分51秒

定年になったら心がけようと思っていたのは、コンサートを増やすことです。そろそろ始めようと思い、オーケストラの定期演奏会にひとわたり足を運ぶ、という計画を立てました。場所はさまざまですから、周囲のおいしいお店を探しながら、という楽しみを、自分にプラスしました。そのためには、余裕をもって家を出る必要があります。

今日は、錦糸町の新日フィル定期へ。でも結局、ゆっくり食べる時間がなくなってしまうのが、私のダメなところ。皆さんは、時間のないときに、何を食べられますか?思うに、一番いいのは回転寿司です。食べるものがすでに目の前にあり、時間を見ながら皿数を調節できる。駅からの通路にあるお店は行列でしたが、トリフォニーホールの向かいにあるお店は雨のせいか空いていて、味も悪くありませんでした。

いただいた席は1階の中央列、端寄り。オーケストラの響きを俯瞰するためには絶好で、とてもいい音響なのです。当日のプログラムは、スークの《おとぎ話》、ドヴォルジャークのヴァイオリン協奏曲、ヤナーチェクの《イェヌーファ組曲》という、指揮者アルミンク好みの、筋の通ったものでした。

本当に楽しめるコンサートで、感心しきりです。新日フィルは響きがしっくりとまとまっていて、どの曲からも、ロマン的な幻想が広がってくるのです。ヴァイオリン・ソロはマティアス・ヴォロング(ドレスデン・シュターツカペレとバイロイトのコンマスだそうです)という人でしたが、実質のしっかりした、構成力のあるヴァイオリン。アンコールのバッハ《ガヴォット》も、すばらしい演奏でした。またぜひ、訪問したいと思います。