逆戻り ― 2008年05月06日 22時35分42秒
昔、「喜び」と「ぬか喜び」の違いについて、書いたことがあります。「集める」と「かき集める」の違いを考察したことも。今頭を悩ませているのは、「逆戻り」という表現についてです。
この言葉、ずいぶんくどくありませんか。「巨人、5割に戻る」と言えば済むところを、かならずスポーツ新聞は、「巨人、5割に逆戻り」と書きますね。あ、まだ5割行ってないですか。「巨人、借金2に逆戻り」でもいいですけど。
「逆戻り」という言い方には、行動者にとって心外な状況を、冷やかすというニュアンスがあるようです。「時計の針が逆戻りする」という言い方もある。この場合は、心外な状況に対する憤慨が、少し入っているようです。
こう書いていて気がつきました。「逆戻り」とは言うが、「戻り」とは言わないですね。また、「戻る」とは言うが、「逆戻る」とは言わない。どうやら、動詞表現すると「戻る」、名詞表現すると「逆戻り」になるようです。
では動詞で揃えるとして、「戻る」と「逆戻りする」は、強調の違いだけでしょうか。「しばらくモーツァルト研究をやっていたが、本業であるバッハの研究に戻った」というような場合は、「逆戻り」ではありませんね。オデュッセウスが長い放浪の末に故郷に戻った、という場合も「逆戻り」ではない。別のルートをたどる戻りは逆戻りではなく、そこにはポジティヴな意味合いも、添えることができるようです。
上原がもし巨人の抑えとして復活したら、それは戻ったのでしょうか、逆戻りしたのでしょうか。こういうことを考えていると、時間を食います。
「さ」は必要? ― 2008年03月10日 23時20分11秒
皆様、ブログを「きちっと」読んでくださっていますか。当欄で書いて以降も注意していますが、「きちっと」がやはり優勢ですね。トレンドはこちらのようです。私は使えませんが・・。
言葉の用法というのは、当然ながら自分の誤用は気づかず、人様のものばかりが気になる、という性質のものです。私の誤用も、恥をかかないうちにぜひご指摘ください。「的を得た」(射たの誤用)というのも、ご指摘いただくまで気がつきませんでしたから。
という前提で、私がたいへん気になる、しかも数多い用法について。それは、「やらさせていただく」「行かさせていただく」「書かさせていただく」という言い方です。(変換していたら、ATOKが「さ入れ表現」と指摘しました。ひとつのカテゴリーなんですね。)私には、「やらせていただく」「行かせていただく」「書かせていただく」でなければおかしい、という感覚が、身体に染みこんでいる。でも「さ」を入れる方は相当に多く、職場でもよく出会います。年長者にもおられるので、地域がかかわっているのかな、とも思いますがどうなんでしょうか。
もうひとつは、「昨日長野に行ってきました」「そうでいらっしゃいますか」というパターン。女性によくあります。でも、「そうですか」でないと、長野に行くことを尊敬することになってしまうと思うのですが、いかがでしょう。それとも、上位の丁寧表現として、これまた定着しつつあるのでしょうか。
悩んでしまうと ― 2008年02月09日 22時41分08秒
政治をテーマとする討論番組を、わりによく見ます。こうした番組の中でもっとも頻繁に、もっとも力をこめて使われる言葉のひとつが、「きちっと」。福島瑞穂さんなどは顕著に使われ、一度統計をとってみたい、と思うほどです。
でも、何かひっかかる。最初はイデオロギーの問題かと思っていましたが、そうではないようです。気がついてみると、私は生まれてこのかた、「きちっと」という言葉を、一度も使ったことがないのです。
私は、そう、「きちんと」と言います。福田首相も、「きちんと」。でも政治家は、「きちっと」派が多いですね。皆さんはいかがでしょう。
この問題に悩むようになって、ある会議でびっくり。発言される方が何度も、「きっちり」とおっしゃるではありませんか。う~ん、それもあったか。「きっちり」は、上記の2つでは、「きちっと」に近いように思えます。
「きちんと」と「きちっと」。ニュアンスは、かなり違いますよね。「きちっと」の方が強く、攻撃的な感じがする。私が知りたいのは、これを使い分ける方がいらっしゃるかどうかです。どんな風に使い分けるものか、コメントで教えていただけると幸いです。悩んでしまうと、穏便には済ませないのです。
代名詞もむずかしい ― 2008年01月29日 22時27分21秒
翻訳のむずかしさの続き。劣らず問題なのが、3人称の代名詞です。ドイツ語ではしきりに「彼にihm」「彼らにihnen」と言った言葉が出てきますが、これらは明治時代に翻訳語として使い始められた言葉だそうで、今でも、あまり日本語的ではありませんよね。よく使う、という人は、少ないと思う。訳文では、どうしたらいいでしょう。
第106番という、有名なカンタータがあります。最近私も入念に研究して、コンサートをやったばかりです。
この曲の歌詞は「神の時は最良の時Gotteszeit ist die allerbeste Zeit」と始まります。しかし「神」という言葉は後半のアルト・アリアまで出ず、この先はずっと、代名詞で受けているのです。直訳すると「彼において私たちは生き、動き,存在する、彼の意図されるかぎり。彼において私たちはしかるべき時に死ぬ、彼の意図される時に」となります。
でも、神を「彼」って、おかしいですよね。「あのお方」というのもわざとらしいので、代名詞をやめ、全部「神」としてしまうと、一応すっきりする。しかしバッハは、初め一度(ソプラノだけ二度)「神Gott」の語を歌わせるだけで、あとは、意図的にやめているのです。「彼ihm」はいくらでも反復するのに、です。バッハはこのように「神」という言葉を敬い、温存して、テノールのアリオーソからは、「主Herr」という言葉を投入する。そして、劇的な四重唱のあとのアルト・アリアで、「主よ、まことなる神よ」と歌わせ、神の認識に立ち戻ります。こうしたすばらしい趣向が、日本語らしい訳文を作る感覚と、衝突してしまうのです。
言葉の反復の仕方は、バッハの言葉と音楽の関係を見ていく上で、大切でわかりやすい指標になります。興味のある方は、調べてみてください。
むずかしい二人称 ― 2008年01月28日 23時34分31秒
高島さんの本に、「日本語に二人称なし」という項がありました。日本語には二人称がなく、あらわすには、ほかの言葉を使う。知らない人や目上の人をあらわす二人称がないことでは、不自由する場合もある、と書いてありました。
なるほど。メールでも、目上の人に「貴兄」じゃおかしいし、さほど親しくない女性に「貴女」じゃなれなれしいし・・。それ以上に考え込んだのは、カンタータや受難曲、あるいはドイツ歌曲の歌詞を訳すとき、この問題でいつも困っていた、と思い当たったからです。
話をバッハのドイツ語歌詞に限りましょう。歌詞のように、少ない言葉で一語一語の意味をもたせている場合、意訳には限度があります。日本語の流れに持ち込んでしまえばわかりやすいことは確かですが、もとの単語が音楽によって生かされている場合などには、ピントがぼけてしまう。かといって単語対応を丹念に生かすと、文意が取りにくくなりますし、読む人が読むと、「こんなものが日本語か」と感じることになりかねません。
最重要単語の1つ、Gott。呼びかけの場合、敬語の発達した日本語で、「神」ということはまずないでしょう。「神様」です。Jesus。「イエスは彼に言った」とはいわず、「イエス様は彼におっしゃった」ですよね(「彼」も変ですが、ここはがまんしてください)。でもドイツ語は Jesus sprach zu ihm で、どちらも同じです。
"mein Gott"、"mein Jesu(s)"というのも、よく出てくる。この場合はどうでしょう。単語対応させれば「私の神」「私のイエス」ですが、日本語ではまず、そう言わない。「私の」を付けない方が自然です。「私の」であることが前後から明瞭な場合には、付けるべきでないと、会話や説明的な文章の場合には、言うことができる。妻を紹介するとき、向こうなら「マイ・ワイフ」(マイネ・フラウ)ですが、日本で「私の」と付けたら、変ですよね。
ところが、この"mein"に気持ちがこもっていることが、歌詞ではよくあるのです。”Mein Jesu, gute Nacht!"は、「イエスよ、おやすみなさい」と自然に訳すか(一般化されるので「気持ち」は出なくなる)、「私のイエスよ、おやすみなさい」として気持ちを出すか、むずかしいところです(「イエス様、おやすみなさいませ」というのもありでしょうか)。パーセンテージのかなりを占める所有形容詞を、訳すか訳さないか。いつも迷い、そのときの判断でどちらもありにしている、というのが正直なところです。
名勝負 ― 2008年01月27日 23時38分35秒
今日の白鵬VS朝青龍戦、すばらしかったですね。両者の風格といい、にらみ合いといい、四つ相撲の力戦といい、往年の大横綱の一番に劣らない、みごとな勝負でした。今日国技館で観戦した人は、一生記憶に残ることでしょう。
こんな日には、無類の相撲好きだった父親のことを思い出します。もう30年前に亡くなりましたが、相撲を見るときは、テレビの前で力が入り、前のめりになったり、うなり声を出したりしていました。初代若乃花の大ファンで、負けたときは本当に、がっかりしてしまう。あまりそれが純粋なので、私は一生懸命、栃錦を応援していました(笑)。父が生きていたら、今日はどっちを応援しましたかね。ちなみに私は、白鵬を応援しました。
最近読んで面白かったのが、高島俊男さんの『お言葉ですが・・』という本(文春文庫)。週刊文春の連載が終わってしまい、残念だったので、文庫シリーズの1冊目から読み始めました。マスコミで気づいた言葉の誤用・濫用をきっかけに、正しい日本語、美しい日本語について、歴史をさかのぼりながら考えるという本です。その中に「年寄名は歌ことば」という項があり、相撲の年寄名には、よりぬきの美しい日本語が揃っている、という。なるほどそうですね。「高砂親方」その他、放送に名前が出てきたとき、純粋に言葉を考えてみてください。
相撲、上昇機運ですね。悪いツキを使い果たした効用です。評判の悪かった私の「ツキの理論」が立証されました。
(付言)先日の「たのくら」コンサート、写真を公開します。「コンサート」のカテゴリからお入りください。
母音の「あ」 ― 2008年01月26日 23時14分44秒
「すざかバッハの会」に通っているので、長野新幹線によく乗ります。あるとき、ふと気がついたことがある。それが、とても面白くなりました。何かというと、この線の地名・駅名には、母音が「あ」になるところが、すごく多いということです。
「熊谷」「高崎」は、4母音のうち3つが「あ」。須坂の近くには、「湯田中」というのもあります。「軽井沢」「佐久平」は5つのうち3つ。私の育った沿線の「上山田」は、5分の4。「長野」「須坂」「中野」は3分の2。「安中榛名」に到っては、7分の5。ずいぶん多いと思われませんか?日本語がそもそもそうできているのか、この地域の特徴なのか、単なる偶然なのか、興味があります。
名前はどうだろう。私は「いそやまただし」で、7分の4。学会の前任者である金沢正剛先生は、なんと8分の8。皆川達夫先生は、私と同じで7分の4。キャスターの赤江珠緒さんは6分の4--関係ないか。
占いで、母音を手がかりにするものがあるかないか、わかりません。しかし、「あ」の占める率が高い土地は将来性があるとか、率が高い人は明朗快活であるとか、何か因果関係があるのではないかと、考え始めたところです。
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