!!!! ― 2009年03月09日 22時12分27秒
37位だの28位だの、悪魔がうるさいですねえ(笑)。 1日間を置いてアクセスしたら、50位に下がっていました。その吹き出しが、「ブログの女王、目指してるでしょ!?」。目指してないって!!!
いま3つもびっくりマークを付けちゃいましたが、今の若い人のメールには、びっくりマークが多いですねえ。すべての文章の最後がびっくりマークという人、びっくり3つ、びっくり4つをさかんに使う人。私のところにもよく届きます。メールという媒体だとそう不自然ではないのですが、本当の文章を書くためには、よくないインフレですよね。まあ、内館牧子さんが死んでも使わないとおっしゃる「(笑)」を、私も使っているわけですが(笑)。
面接終了後10日を経て、明日、ドクターコースの合格発表があります。身近な人々による激戦だったので、明日の悲喜こもごもに、若干の緊張を覚えます。
記憶の使い方 ― 2009年02月27日 22時28分37秒
皆さん、書き込みありがとうございます。
なるほど、「口が軽い」というのがありますか(国語辞典さん)。しかし「口が堅い」というのもありますね。これはいい意味ですが、しかし口の使用を避ける、という意味が含まれているとすれば、悪い意味を出発点にしている、と言えるかも知れません。「口ばっかり」とか(笑)。
今日、ドクターコースの入試の空き時間、「永久に決別」の話を自慢したのですが、学長も同僚も一笑に付して、まったく信じません。紙の手帳にしたって、記入するのが同じ人間なら変わりない、というのです。くやしい。
わかったことは、私が犯したダブルブッキングの話を、みんなじつに良く覚えている、ということです。静岡に1週間間違えて行き、何かを食べて帰ってきたという話があるのですが、そのときに私が「うなぎを食べた」と皆さんが言う。私は外でうなぎを食べることは滅多にないので、「お寿司ではないか」と反論したのですが、みなさん、「いや、うなぎだ」と断定されます。くやしい。
人間の記憶って、そんなことに使っていいものでしょうか。諸事多難なこの時期に、です。
永久の別れ ― 2009年02月26日 23時21分05秒
不肖私、「4月始まり 能率手帳 EXCEL Casual1」というものを購入しました。これにより私は、これまでの人生に何度かあったダブルブッキングやっすっぽかしに、永久に別れを告げることになりました。何年かするとそうした記憶さえ失われ、「へえ、私もダブルブッキングしたことあるの」などと言うようになるものと思われます。これまでご迷惑をおかけした方々にも、これでお返しができることになりました。ご報告申し上げます。
前話で、「巧言令色少なし仁」と「文は人なり」の対比を申し上げました。その後気がつきましたが、「文章がうまい」というのは褒め言葉ですが、「口がうまい」というのはそうではありませんね。なぜ違うんだろう。
文章力 ― 2009年02月25日 22時57分19秒
私の専攻の入学試験には、小論文があります。明日から始まる博士課程の入試には、領域を超えて、小論文が課せられている。後者には修士課程で作成した修論や研究報告の提出も義務づけられていますから、結局のところ、文章力がものを言います。
文章力と学力や将来性は、等価ではありません。しかし現実には、勉強の成果はかなりの程度まで、文章力で計られてしまいます。きれいな文章で整然と書かれた文章は説得力があり、よみにくい文章よりはるかにいい印象を、読み手に与えるからです。とくに学習過程の論文について、そのことが言えるでしょう。
しゃべる力、弁論術に比べたらどうでしょうか。「巧言令色少なし仁」と言いますね。話がうまいのは長所ですが、疑惑もつきまとう。これに対して文章は、「文は人なり」というぐらいで、信頼性が高そうです。
いずれにせよ、文章力の養成は、これから勉強をしてゆく若い人にとって、避けることができません。昨日の談話とのつながりで言えば、言葉を大事にするスタンスを通じて、いい文章は養われていくと思います。
話すことと書くこと(続) ― 2009年01月17日 22時35分13秒
書き言葉を強引に読み上げる方式の発表を聞き慣れることも、研究者のひとつの技術かもしれません。しかし発表する側からすると、こういうやり方は、たいへん損です。ベーシックな部分の難易度を無意味に上げてしまうと、聞き手が疲れてしまい、大事なところをしっかりと聞いてくれなくなるからです。私はそれを、「聞き手の記憶メモリを無駄に使わせるな」という形で表現し、学生を指導しています。
「私は、ドイツ旅行をしたときの経験に基づいてこの曲の第2楽章の風景描写が現実を対象として描いたものではない、という礒山雅氏の説に疑問を感じています」という文章があるとします。作為的な例で恐縮ですが、こういう文章を書く学生は、案外いるものです。
この文章は、書き言葉ならまあまあわかるが、話し言葉としては最悪です。まず聞き手は、「私は」という主語を頭に入れ、「私がどうしたのか」という問題意識をメモリに保持しながらついてくる。しかし回答が与えられるのは、やっと「疑問を感じる」というところにたどりついてからです。
また、「私は、ドイツ旅行をしたとき云々」という文章を読むと誰でも、私がドイツ旅行をしたのか、と聞いています。それを後から修正するために払う労力は大きく、愉快ではありません。そもそも、「経験に基づいて云々」という情報は、「礒山雅氏の説」といういまだ見えざる概念に対してかかっているわけですから、聞き手はそこまで、目的のはっきりしないまま記憶をメモリに保持しなくてはならない。こういう「頭の重い」文章は、極力避けるべきです。余計なメモリを使わないすっきりした文章を基本にすることで、聞き手は肝心の部分の論証が緻密で入り組んでいても、ついてきてくれるものなのです。
こう書いていて、なんと言う当たり前のことを自分は書いているのか、読んでくださる方に申し訳ない、という気がしてきました。こういう文章をどうしても書きたくなる日常生活があるということで、ご容赦ください。
〔付記〕話し言葉の原稿を準備するときには、書いたものを自分で読み上げながら自分で聞き、もっと平易に、もっと流れよく、という要求を課しつつ修正していくのがよいと思います。話し言葉で書いているつもりでも、やはり何割かは、硬い書き言葉になっているものですので。
話すことと書くこと ― 2009年01月14日 22時31分01秒
学生に対して、発表する場合は原稿を作れ、と指導している大学って、どのぐらいあるのでしょう。私の学生時代は、必ず作れ、と指導されましたから、作るのを当たり前と考えるようになりました。教員になってからは、すべての機会に対して作らせることは遠慮していますが、主要なゼミや学会の場合は作らせるようにしています。
発表は時間が限られていますから、原稿を作っておいて、決まった時間に最大限の情報量を伝達することが必要です。そうでないと雑談風になったり、無駄や繰り返しが多くなる。しばらく前、学会でそういう発表になってしまった発表者をある先生が厳しく叱責したことがあります。何もそこまで、という人もいましたが、私は当然の叱責、と受け止めていました。
原稿を作ることにも、欠点があります。それは原稿が書き言葉になってしまい、硬いわかりにくいものになることです。美学の頃はみんな、やたらにむずかしい硬い原稿をフルスピードで読んでいて、まあ理解の訓練にはなりましたが、とりつくしまがないものが結構ありました。
原稿を書くと、いかにですます調で書いても、かならず書き言葉になります。それをどのぐらい話し言葉に近づけられるかが、技術です。私は放送を大分やりましたので、いつもそのことに苦心していました。完全に話し言葉にしようと思ったら、書かないのが一番。しかしそれでは、短い時間に効率のよい情報伝達はできません。話す文章と書く文章をなるべく近づけること、学生さんたちにとっても、これは大切な技術です。(続く)
一時の恥、一生の恥 ― 2009年01月04日 23時41分51秒
漢字をいくつも読み間違えたことで、麻生さんがさんざんな言われようです。私はこういうとき、いつも、『ヨハネ福音書』第8章にある、「姦通の女」の話を思い出さずにいられません。女を罰しようとしているファリサイ派の人々に、イエスが「あなたたちの中で罪のない者が最初に石を投げなさい」と述べた、という話です。
多かれ少なかれ誰もが、間違いを犯しています。気がつかないだけ。私も、かなり長いこと、「未曾有」を「みぞうゆう」と読んでいました。職業が職業ですから、自分でなくて良かった、と胸をなで下ろしています。お互い、教え合いましょうよ。そうしないと、一生、恥をかき続けます。
自分で気がついた間違いの告白。よく年末の挨拶で、「それではよいお年を云々」と言いますね。私は知人から来たメールに「よいお年をお迎えください」とあるのを読んで、あっとのけぞりました。なぜなら私は、ずっと「よいお年をお送りください」と書き続けたきたからです。考えてみれば、よい年を送ってしまったら、あわれな新年が来てしまいます(汗)。どなたも言ってくださらないと、こういうことが起こるわけです。
楽しみな新人 ― 2008年06月26日 23時36分03秒
昨日は、いずみホールでアルティ弦楽四重奏団のベートーヴェンを聴きました。豊嶋、矢部、川本、上村という4人の名手がひとつの方向に心を合わせて仕上げられており、《ラズモフスキー第3番》で大きく盛り上がりました。
今日は帰路、東京文化会館で二期会のオペラ《ナクソス島のアリアドネ》を鑑賞。これは批評に書きます。「作曲家」を歌った谷口睦美さん、潤いのある声でロマンを表現してすばらしかったです。まだ新人のようですが、じつに楽しみな人があらわれたと思いました。
クイズ、学生さんが正解!「~たい」のつくもとの動詞のアクセントに左右されるのですね。私はそれに気づかず、内容的なことかと思って考えこんでいたのですが、1年生のひとりがぴしりと言い当てました。
日本語クイズ ― 2008年06月25日 16時37分22秒
新幹線の車中から、皆様にクイズです。この問題は、先週の授業で遭遇したものです。
次の2つの句は、用法はよく似ていますが、アクセントが異なります。前者は句尾が下がり、後者は句尾が上がります。それはなぜでしょうか。
生きたい←→死にたい 食べたい←→やめたい
元号のこと ― 2008年06月16日 23時27分17秒
皆さんは、日付を何かに書き込むとき、西暦で書かれますか、それとも元号を使われるでしょうか。
私は徹底して西暦です。バッハの研究に元号は不要ですから、いつしか、元号をおろそかにする気持ちに傾いていました。しかし土曜日のシンポジウムでは、「昭和40年代」という切り口を、日本の戦後芸術を考えるために提案したわけです。昭和40年代は1965年から74年までに当たるのですが、パネリストの中には、諸事西暦で頭に入っていて、元号への換算に苦労している方もおられました。
きっと若い方ほど、西暦中心になっていることでしょう。それがもちろん、グローバル・スタンダードです。でも、高い年齢層の方はどうか。明治、大正、昭和初期、昭和10年代、昭和20年代あたりは、西暦でいうより、ずっとイメージが湧きませんか?
童謡の研究をしているとき、それを大正の中期から後期に置くことで、とてもイメージがつかみやすい、という経験をしました。しかし今では、それも西暦でやるのが普通のようです。NHKの番組で竹久夢二が出てきたとき、全部西暦で紹介していましたから。
私は、元号で文化をまとめて理解するのも、日本人として大切なやり方なのではないか、と思います。それが失われるのは、残念。でもそういう私も、江戸時代、それ以前となると、元号だけではさっぱりわかりません。西暦に換算して理解します。昭和も、50年代、60年代となると怪しいもの。これも、時代の流れでしょうか。
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