イエスに私の注ぐのは・・・ ― 2009年07月15日 22時06分46秒
拙著『マタイ受難曲』がおかげさまで10刷を迎えることになり、対訳を少し、見直しました。いくつか気になっている部分があり、先日の公演シリーズのさいには、当該部分が来ると目をつぶっていましたので(笑)。
検討箇所は3つです。まず、最初のアルトのレチタティーヴォ(第5曲)。ここの歌詞(←この言葉、使っちゃいますね)は、信仰深い女がSalbを注ぐのに対し、私は涙の泉から一滴のWasserを注ぐ、というものです。私は、前者も後者も「香油」と訳していました。前者は文字通りそのままですが、後者は、「一滴の涙を、いわば私なりの香油として」という意訳になります。Wasserは広義の「水」ですので、ここはSalbeと区別すべきではないかと、以前から感じていました。
ところが、ルター訳では、女がイエスの頭に注いだ高価なるものが「Wasser」と訳されているのです。弟子たちも、「そのWasserを売って貧乏人に施したらよかろうに」、と言う。Salb(香油)という言葉は、ピカンダーのテキストに入って、初めてあらわれます。ちなみに、現代のドイツ語訳(統一訳)では「Oel」(油)です。ルターが「Wasser」と広く使っているのは、心の中に「水による洗礼」というイメージが浮かんでいるためでしょうか。
というわけでむずかしいところですが、第5曲の香油と水の対比を生かすことを優先し、Wasserを「液」と訳して、聖書の場面と整合させてみました。ひとつの試みです(続く)。
《マタイ》公演総括(4) ― 2009年06月27日 10時05分08秒
ようやく疲労が抜け、新しい気力が芽生えつつあります。総括も、そろそろ終わりにしなくてはなりません。
今回アメリカからは、ケンブリッジ・コンツェントゥスという、ボストンのひじょうに若いアンサンブルが来日しました。リフキン先生が顧問を務める団体ですが、驚いたことにリフキン先生の指揮で演奏するのは初めてとか。《マタイ》の演奏も初めてという人がたくさんいて、演奏に荒削りな面があったことは否めないと思います。それだけに、公演ごとに作品になじんでくる様子が伝わってきたことも事実です。
反面声楽は、テノール(ジェイソン・マクストゥーツ)、バス(サムナー・トンプソン)、ソプラノ(クララ・ロットソーク)の3パートに大物を揃えており、聖書場面の負担の大きい第1グループを、立派に支えてくれました。カンタータはともかく、受難曲でリフキン方式となりますと、キャパシティの大きな歌手がどうしても必要になります(とくにテノール)。人間的には、声楽、器楽を問わず、気持ちのいい、感受性に富んだ人たちばかりで嬉しかったです。女性の皆さんが揃ってきれいにしているのには、ちょっとびっくりしました。
解釈はリフキン先生におまかせしていましたが、演奏者が私の本を読んでいてくれたらずいぶん違うのになあ、と思ったこともあります。たとえば、アルトのレチタティーヴォ〈ああ、ゴルゴタ〉とアリア〈ご覧なさい〉が重要な転換点をなすという私の持論からすると、ここはもっと突っ込んで演奏して欲しいと思い、英語のレジュメを作りました。しかし唐突かなとも思われて、深追いはしませんでした。内幕の一端です。
というわけで、課題はたくさん残ったと承知しています。しかしリフキン先生の音楽のすばらしさと、リフキン方式の豊かな可能性(かならずソロ編成というのではなく、小編成の合唱にも応用可能だと思います)については確信をもちましたので、なんとか今回の成果を先につなげていきたいと考えています。長い目のご支援を、ぜひよろしくお願いします。
《マタイ》公演総括(3) ― 2009年06月25日 22時25分17秒
各パートひとり、オリジナル・パート譜の割り振りを遵守、という「リフキン方式」によって、音楽の印象は、ずいぶん変わりました。次のような説明ができるかもしれません。
合唱団の《マタイ受難曲》公演に、私がソプラノ歌手として呼ばれるとします。すると私は、「3つのアリア+2つのレチタティーヴォ」として作品を思い浮かべ、この5曲を入念に準備して、会場に出かけると思います。他の63曲は、一通り聴いておこう、ぐらいのところで、あらかた、人まかせにすることになりそうです。
そんな私に、合唱団から、「群衆などの合唱もいっしょに歌って欲しい」というオファーが来たとします。すると私は、そういう負担は勘弁して欲しい、アリアという重要な役割があるのだから、と答えそうです。かくして、合唱とソロの役割は分離し、固定されます。
リフキン方式ならばどうか。2グループのソプラノは、自分のパート譜を歌ってゆくわけですが、そこにはアリアのみならず、群衆の合唱も、コラールも書いてあります。したがって私はどちらも分け隔てなく歌い通すことになります。要するに、弟子や聖職者の合唱、群衆の合唱を身をもって体験し、それらに精通した人がアリアを歌うことになるわけで、結果として合唱はアリアのレベルで歌われ、アリアは合唱と同一次元で歌われる。今回の公演で聖書場面の合唱が大きく、印象的に目に映じてきたのは、こうした取り組みの結果であるに違いありません。
小島芙美子、坂上賀奈子、中嶋克彦、小藤洋平の第2グループ歌手4人が合唱パートにも精魂込めて取り組んでくれたことは、本当にありがたいことでした。歌い手が出来事の展開全体に責任を負うことの充実感に、皆が日々引き込まれていくように見受けられました。
梅津時比古さんが毎日新聞の「コンサートを読む」欄に寄せてくださった「背後の人々の気配を感じたのは初めてのことだった」というありがたいお言葉は、上記のことと無関係ではないと思います。
《マタイ》公演総括(2) ― 2009年06月24日 22時55分48秒
打ち上げの席でどなたかが、今回の企画を「ジョシュアとタダシの友情から生まれたもの」と形容されました。それはその通りですが、初めからそうであったわけではありません。私の心にあったのは、既成の団体にお願いするのではなく、新しい《マタイ》のプロダクションを作ろう、ということでした。そこで、「リフキンあり」「リフキンなし」の選択肢を提示したところ、相模原から、「リフキンあり」のゴーサインをいただいたのです。結果的にはそれが、すべての出発点になりました。
リフキンを指揮者に据える以上は、リフキン方式による、日本初の《マタイ》となります。そしてメールを交わすうちに、日米の競演というアイデアが成長してきました。私も彼も、惚れ込んだアイデアでした。
しかし経費を計算してみると、とても実現できないような数字になりました。そこから、どうやって経費を切り詰めるかの知恵を絞り、合理化に合理化を重ねて、これ以上は減らせない、という額にたどりつきました。その過程で「学生を含む若い人たちによる《マタイ》」という案が固まってきましたが、これは正解であったと思っています。若い人たちの学習欲が並々でなく、それがリフキンの教育者としての能力と結びついて、力の結集が生み出されたからです。ベテランを自由に使える状況であったとすれば、かえって今回の成果はなかったのではないか、と感じています。
そんな厳しい経済条件の中でしたが、意気に感じて手を挙げてくれる演奏家がたくさんおられ、プロダクションが形をなしてきました。企画の意義に注目してくださる人も増え、公の補助金もいただけることになりました。
このように回顧してみると、どんなに多くの方に助けていただき、働いていただいたかが、あらためて痛感されます。それに比べれば私のやったことなど限られています。だいいち、ひとつも音を出していないのです。それなのに私の名前が取り上げられることがなにかと多く、申し訳なく思っています。謙遜ではなく、心からの感情です。
《マタイ》公演総括(1) ― 2009年06月23日 23時57分51秒
吹き抜けた嵐か、見果てぬ夢か--という2週間が終わって、そろそろ、公演を総括すべき段階にたどり着きました。私の立場から、総括を試みたいと思います。
多くの方の尽力をいただいて実現した、この公演。発端は、相模大野グリーンホールにおける「バッハの宇宙」シリーズの初めに遡ります。レクチャーの世話役になった相模原市民文化財団の後藤さんとおっしゃる職員の方が、最後に《マタイ受難曲》を上演したい、という希望をもらされました。私はもちろん、いいですね、やりたいですね、と申し上げましたが、その時点では、本当に実現しようとは、まったく思っていませんでした。
市の財団ですから、職員の方は、当然代わられます。それで潰えた企画の話も、よく聞きます。しかし相模原市民文化財団は、「バッハの宇宙」を6年間支えてくださったのみならず、都合4代にわたって、《マタイ》への夢を受け継いでくださったのです。すべては、この情熱に起因します。
今回の《マタイ》が「バッハの宇宙・最終回」と銘打たれていたのは、このためです。「バッハの宇宙」では種々マニアックなコンサートを積み重ねてきましたが、それを楽しみにしてくださる方々の輪が広がり、杜のホールはしもとの聴衆の骨格を作ったのだと思います。この機会に、ご出演いただいたすべての演奏家、ご来場いただいたすべての聴衆の方々に、御礼申し上げます。その延長線上にあったからこそ、2回のプレ・セミナー、2回の本番への盛り上がりが作り出されたのにちがいありません。(続く)
爽快な入浴 ― 2009年06月22日 22時00分36秒
出演者たちがバスで成田に出発した日曜日。サンルート宿泊組は松本を観光して帰宅することになりました。善光寺を軽く見てから中央本線に乗り、松本へ。すぐタクシーで浅間温泉へ。ここは私が小学校に通っていたところで、長野県でも指折りの大温泉郷です。
お目当ては、「枇杷の湯」。老舗の旅館が、日帰り客のための共同浴場に模様替えし、人気を博している、というのです。入湯料は800円でしたが、たしかに環境といいお湯の質といいすばらしい温泉で、一同すっかり暖まり、大満足。それまで足を引きずっていた(通風?)私が、すいすい歩けるようになったのは驚きました。それにしても、かつてあれほどにぎわっていた温泉郷を、人が歩いていません。軒を連ねた旅館群が日曜日だというのにことごとく静まりかえっているのを見ると、時代の厳しさを痛感します。
朝降っていた雨が上がり、青空を覗く中を松本城見物。それからブエナビスタというホテルで、少しいいワインを飲みました。ヴェーネト産の絶品でした。いい町で育ったんだなあ、としみじみ実感する1日でした。
国際交流の力 ― 2009年06月21日 23時20分13秒
須坂公演終了後、迎賓館(パーティ会場)で打ち上げ。提供された地元の日本酒やどぶろくが、アメリカ勢に大好評でした。最後はスピーチの交換で沸きました。やっぱりみんな、若いですね。
長野に戻り、日本人4人で飲み始めていたら、携帯に連絡が入り、リフキン先生がお待ちだとのこと。先生から直メールも入っています。こちらはいったん日本語モードになっていたのですが、ご指名では逃げられませんので、皆の泊まっているホリデイ・インに出かけました。
マネージャーの部屋に演奏者たちが鈴なりで、宴会の真っ最中。私もしばらく仲間入りしましたが、その場でアメリカ側が作ってきてくれたTシャツ(前面には《マタイ受難曲》自筆譜タイトルのプリント、後面は演奏団体の名前とリフキンの名前、年号)とウィスキーをプレゼントしていただきました。重い瓶を、運んできてくれていたのですね。ありがとうございます。
最後の大きな盛り上がりに接して思うのは、国際的なプロジェクトのもつ力です。日本人だけでやったのでは、ここまでの高まりはなかったのではないでしょうか。両国の音楽家、若者の出会いがあり、交流があり、共同作業があって、この成果が得られたと痛感します。
余談。向こうの人って、親密な挨拶は抱擁したり、キスをしたりしますよね。こちらも当然、外国人相手には、そのように対応します。リフキン先生との抱擁はステージ上でも披露しましたが、宴席では、ウルリーケさんもクララさんも飛びついてきます(!)。うっかり日本人にもやりそうになって、おっとっと。日本ではセクハラですもんね(笑)。
「すざかバッハの会」の底力 ― 2009年06月20日 21時56分24秒
最終日、須坂公演の日。須坂には「すざかバッハの会」が存在し、私が1ヶ月おきにレクチャーをしに通っています。ですから、《マタイ受難曲》公演の受け皿としては最適のはず。しかし市の規模、音楽愛好家の人数、経済的キャパシティからすれば、東京や大阪のようなわけにいかないことも明白で、私は公演計画が実現しるか否か、かなりの不安を抱いていました。須坂公演をどうしたら成立させられるかを第一に考える時期が、長くありました。
しかし会を中心に万全の体制が敷かれ、最終的には諸条件が整ったことが判明。そこで当日を迎えたわけですが、14時の開演に先立って12時半から行われた私のプレレクチャーに、小ホール満員のお客様がいらっしゃいました。開演前の大ホールにも、どこから湧いてきたのか(←ある方の表現の引用)、人があふれています。
結果的に900人という、地方都市としては信じがたいほどのお客様が、座席を埋めてくださいました。こうなると、演奏者も盛り上がらないはずはありません。まさに地域ぐるみのコンサートの実現で、私は、足かけ7年続いてきた「すざかバッハの会」の培った底力をまざまざと感じる思いがしました。会長の大峡さん、献身的に働いてくださった会員の皆さん、何度も足を運んでくださり、打ち上げでもご挨拶をくださった三木市長さん、ありがとうございました。
ウルリーケさんが二階席から歌うのでご注目、とアナウンスしていましたが、メセナ大ホールには適切な二階席がないことが判明(笑)。ウルリーケさんは舞台の中央、前に出て歌いました。これが、観客の耳目を《マタイ受難曲》の象徴でもあるコラールに集める結果となり、これはこれで、大成功でした。
コンサート終了後の盛り上がりについては、次項で。
披露されたラグタイム ― 2009年06月19日 23時34分49秒
今日、メンバーはバスで須坂へ移動。私は新幹線でいったん家まで戻り、すぐに出直して須坂に入りました。夜、リフキン先生の「病院コンサート」が、須坂で開かれたからです。もちろん、地域貢献のチャリティ。病院のエントランスは、患者さんや職員で満員の盛況でした。
ジョシュア・リフキンの名は、初め、ラグタイムのベストセラーLPによって世に広まりました。今回はスコット・ジョプリンのラグタイムを9曲並べたコンサート。リフキン先生がジョプリンを弾くのは、おそらく日本では初めてでしょう。くつろいだ雰囲気のコンサートでしたが、ジョプリンの作風の変遷や曲ごとに籠める思いがわかったこと、先生の温かく繊細な演奏がバッハ解釈にそのまま通じることを知ったことは、うれしい収穫でした。入院中の女児から花束を贈られて、先生も感動のご様子でした。
終了後、長野のイタリアンで会食。さあいよいよ、最後の公演です。
感激の大阪公演 ― 2009年06月18日 17時41分38秒
大阪公演、終わりました。残念なこともありますが(お客様が十分集められなくていずみホールにご迷惑をおかけしたこと、私の責任範囲である字幕が最後に乱れてお客様の感興を妨げたこと)、演奏の出来は、ホールの音響効果にも助けられて、一番良かったのではないかと思います。とくに後半。演奏家、とくに歌い手の方々に感動が支配しているのを見て、本当にそう思いました。
今日も、プラスアルファの情報をひとつ。一般の公演では児童合唱で歌われる冒頭合唱(および第1部最後の合唱)のコラールを、今回の公演では、ウルリーケ・ブレーガーさんが担当しています。この方が清楚なイメージで、絵のように美しい女性なのです。ドイツ人の概念をくつがえすという感じです(失礼)。
メインのソプラノにはクララ・ロットソークさんという大物が来日していますので(今日の〈愛の御心から〉はすごかった)、ウルリーケさんの役どころは、コラールのほか、女中、ピラトの妻、リコーダー。しかし二階席から響かせるコラールの効果はなかなかで、私のところに、「あの女性に片思いしてしまった人は私だけではないはずです」というメールをくださった方があるほどです。メールは、訳してウルリーケさんにお渡ししました(笑)。須坂の方、どうぞお見逃しのないように。
圧巻の歌唱だったクララさんが終演後泣いておられるのを見て、びっくり。ジェイソンさん(エヴァンゲリスト)の目にも、涙が光っていました。感激の、大阪公演でした。
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