スロー・テンポ ― 2012年12月20日 10時34分51秒
「徹底研究」と題してやっている朝日カルチャー新宿校の《マタイ受難曲》講義、準備していると面白くなり、プレゼンテーションに工夫を凝らしています。材料がどんどん増えてしまうので、19日などは、第14曲から第17曲までしか進みませんでした。聖書場面2つとコラール2曲です。2時間で《マタイ》全体を紹介することもよくあるのに(笑)。
こんなにスロー・テンポでは受講してくださる方もたいへんですが(ハイドンの《告別》のようになってしまうかも)、話す立場からすれば、概観より絶対面白いです。著書は見ないで進めていて、折々、参考書として開く。18年も経っていますから、今でこそ気がつくことがたくさんあります。20年を記念して「改訂新版」を出したい気もしますが、それで1割か2割の改良をするよりは、《ヨハネ受難曲》について1冊書いた方がいいかな、と思ったり。いずれにしろ、こうした機会を大切にして、積み上げていきたいと思います。
昨日、今日と忘年会ですが、オフィシャルな忘年会はこの2つだけ。町も、本当に人出が少ないですね。景気が良くなってほしいものです。
感動的な《マタイ受難曲》 ― 2012年07月05日 23時49分02秒
というのも、合唱のテキスト理解が断然深く、それが豊かな共感として、合唱曲を、コラールを包んでいたから。TBSはアマチュア合唱団としては高いレベルの力量をもっていますが、それと同時に、作品に対する研究の姿勢が行き届いているのです。私の講演会シリーズを熱心に受講したと言うとなあんだと言われてしまいそうですが、そこで培った本質への理解は、力量の高さと結びついたとき、演奏の質を高めずにはおきません。何しろ、佐藤研さんのような第一線の聖書学者の講演も設定され、受難とは、イエスとはという事柄に、鮮明なイメージを形成して演奏に臨んだのです。果たせるかな演奏に反映された成果のみごとさに、佐藤さんと、思わず顔を見合わせてしまいました。
このように内側からの高まりを演奏に結びつけるのが、三澤さんのやり方です。TBSの一部をなすオーケストラがこうした合唱とまったく違和感なくまとまっていたのも、なかなかないこと。三澤さんは「ロマンティックな解釈だとお叱りを受けるのではないかと思っていた」とおっしゃいましたが、これだけバッハの作品世界が掘り下げられ、最後の合唱が感動を込めて歌われれば、まったく文句はありません。本来声楽家である三澤さんがチェンバロを弾いて指揮され、全体の大きな流れを仕切られたことにも驚きました。
畑儀文さんの福音書記者の貫禄もたいしたものでしたが、《マタイ》は初体験とおっしゃった國光ともこさん(ソプラノ)の新鮮な感動にあふれた歌唱には心を射抜かれました。終了後、打ち上げ。その場で心からの賛辞を述べられるほど、嬉しいことはありません。リップサービスはしない、私ですので。
今月の「古楽の楽しみ」 ― 2012年04月07日 23時39分33秒
今年度から、放送が週4日になっています。23日(月)は、17世紀後半の受難曲の急速な発展を、シュッツの《ルカ》、ウプサラ筆写譜(作曲者不詳)の《マタイ》、ローテの《マタイ》、ブラウンス(伝カイザー)の《マルコ》という、4つの作品でたどりました。もちろん抜粋せざるを得ませんので、冒頭と最後は全作品を聴き比べ、他に、聖書場面から、特色のある部分を1つずつ選ぶ、という形にしました。ちなみにブラウンスの《マルコ》は、バッハが筆写譜を作成し、ライプツィヒでも演奏した作品です。ですから、バッハが影響を与えられた既存の受難曲を、代表しているわけです。
24日(火)は、ブクステフーデの7部から成る連作受難カンタータ《われらがイエスの身体》を、第2部省略で。演奏は、ヤーコプスのものを選びました。25日(水)、26日(木)は、バッハの《ヨハネ受難曲》です。第2部の前半を少しはしょったぐらいで収録することができました。それ以前の作品もそれなりに味わいがありますが、やはりバッハは桁外れですね。歴史をたどればその先に自然にバッハがある、というわけではないことがわかります。歴史を受容しながら歴史を断ち切ったのが、バッハの《ヨハネ受難曲》なのです。
演奏には、ガーディナーの2003年のライヴ録音(独ケーニヒスルッターでの録音、最近市場に出たもの)を選びました。ほとばしる勢いと熱い盛り上がりのある、すばらしい演奏です。その後、アーノンクールのDVDを見ました。これも迫力のある演奏で、テルツ少年合唱団のソリスト(ボーイ・アルト、ボーイ・ソプラノ)が大健闘しています。しかし壮年時代のアーノンクールの劇的・刺激的なスタイルが作品の宗教性を減殺しており、本当の感銘には至っていないように思われました。
《ヨハネ受難曲》の本を、というお勧めを、以前からいただいています。新バッハ全集の再校訂版をヴォルフ先生が担当されることになりましたので、先生のお仕事を拝見しながら考えてみようかな、と思っています。
至福の2時間 ― 2011年11月20日 22時38分53秒
この日は、東京バロック・スコラーズ(指揮は三澤洋史さん)の主催で進行中の《マタイ受難曲》講座の2回目。日本の新約聖書研究の中心で、かねてから尊敬していた佐藤研先生に、聖書と受難についての講演をお願いしました。専門違いということでたいへん緊張され、謙遜される中でほほえましく始まった講演会。しかしすばらしい内容のお話であることは、すぐに明らかになりました。
短いレジュメの中にさえ膨大な研究の蓄積が垣間見えることは当然とも言えますが、なにより印象的なのは、識見が選びぬかれた言葉で、たえず良識の反省を含みながら、慎重に、正確に伝えられていくことでした。このようにして信頼性が確立されると、学術的な講演ほど面白いものはありません。後半ではご自身の最近のお考えを熱を込めてお話くださり、私も合唱団の方々も、イエスとその受難について、「目からウロコ」のように認識を深めることができました。《マタイ受難曲》のテキストに関する佐藤さんの私見も、じつに参考になるものでした。
福音書はなんと面白く、日本におけるその研究が、なんと進んでいることでしょう。お話を聞いていて涙の出ること再三でしたが、資料に公平な立場を採られる聖書研究者の方が学問と信仰をどう両立させているのだろう、というかねてからの疑問は、すこしわかってきたようにも思います。受難曲やカンタータを演奏される合唱団の方々、こんな勉強の機会をお作りになってはいかがでしょう。
《マタイ》よみがえる ― 2011年11月14日 16時20分02秒
そのためでしょうか。私の心の中で、《マタイ》が猛烈に巻き返してきたのですね。「《ロ短調ミサ曲》は近づき、《マタイ》は日々遠ざかる」といった言葉を、年代を根拠に発し続けていたのですが、あらためて向き合う《マタイ》のすばらしさは格別で、話しつつこみ上げるものがありました。《マタイ》を感動しながら歌っておられる多くの方々がいらっしゃることを、実感します。TBS主催の講演会も、がんばります。
行き帰り、スポーツ新聞を買って、社内で広げています。この前いつ買ったか忘れてしまうぐらいなのに、吸い寄せられるようにキオスクに行ってしまう。もちろん、巨人の内紛に興味をもっているのです。私の見るところ、アンチ巨人の方ほど面白がり方が大きいようで、こうした内紛に、利敵行為の側面があることがわかります。どうなっていくんでしょう(わくわく)。
飛びゆく時間の中で ― 2011年10月20日 11時44分41秒
経過の速い理由は、記憶力の衰えと考えて、間違いないと思います。忘れてしまった時間は、ないのと同じですから。残り少ない大事な時間がどんどん過ぎ去るのは不合理にも思いますが、それは、「若い時間が長い」という摂理によるのだと理解しています。
でも自分、進歩しているようにも思うのです。土曜日に《マタイ受難曲》の講演会があり、今日準備したのですが、最近やっていたわけではないのに、曲に対する見方が変わっている。《ロ短調ミサ曲》効果で、《マタイ》に対して、新しい判断や意味づけが発生しているのです。ですので、著作執筆当時と同じ話は、しなくて済みそうです。
最近、当時の受難曲の録音が増えました。それを通じてわかることは、バッハだけがやっていたわけではない、しかし、バッハのやっていたことは、やはり桁違いだ、ということです。それは、真の傑作を時代や社会からのみ説明してはいけない、ということを物語っていると思います。
バロックの森その3 ― 2010年03月11日 13時29分39秒
4/2は今年の聖金曜日ですので、バッハの《マタイ受難曲》をぶつけました。普通の演奏、普通の抜粋ではつまりませんから、CDは、ジョン・バット指揮、ダニーデン・コンソート&プレイヤーズ(英)のものを使いました。これの売りは、リフキン方式であることと、1742年頃とされるバッハ最後の上演を復元していることです(第2グループの通奏低音にチェンバロを使っているとか、ガンバを第2グループにも含めているとか、まあ部分的な違いです)。第一級の演奏とまではいきませんが、面白いと思います。
《マタイ受難曲》では2つのグループの応答する楽曲に重要なメッセージが込められている、というのが私の作品理解ですが、今回の抜粋では、対話曲ばかり集めてみました。一度やってみたかったことです。1つのパースペクティヴには、なるかと思います。
4/3は復活祭を先取りしました。教会暦の原則からするととんでもないことでしょうが、日曜日は放送がありませんので、フライングさせてもらいました。曲は、ビーバーの《ロザリオのソナタ》の第11番と、シュッツの《復活祭オラトリオ》です。
ビーバーはトラジコメディアとマンゼのどちらにしようか考え、トラジコメディアを選択しました。こちらの方が、通奏低音が多彩に編成されているのです。それと、オルガニストのモロニーの解説が面白く、それを紹介しました。モロニーによれば、第1楽章の〈ソナタ〉は日曜日の朝の美しい日の出であり、第3楽章のアダージョは、イエスがマグダラのマリアに出現する、神秘的な場面であるというのです(第2楽章は古い聖歌〈キリストは今日よみがえった〉によるもので、これは楽譜に明記されています)。ひとつの読み方ですが、演奏者自身によるものなので、紹介する価値があると考えました。
シュッツは、フレーミヒ、ベルニウス、ヤーコプスを比較して、ヤーコプスに決めました。
というふうに楽しくやっていますが、なかなか時間がかかります。雨模様のNHKを出て大学に行くと、雪に変わっていて驚きました。
アリアよりイエス! ― 2009年07月20日 23時41分53秒
《マタイ受難曲》公演の打ち上げ(声楽)から帰ってきたところです。うち3人が、すぐ、あるいは遠からず、ヨーロッパに勉強に出かけます。この経験を生かして、しっかりがんばってきてください。
小玉さんの書き込みに、《マタイ》はアリアが魅力的なのに、イエスばかり頼まれる、とあり、興味を惹かれました。もちろん、慣行的な演奏形態で、合唱団+イエスを歌うバス歌手+アリアを歌うバス歌手、という形に分担されている場合です。
小玉さん、イエスを歌ってください(きっぱり)。私の考えでは、アリアの歌い手よりイエスの歌い手の方が格上であるべきで、エヴァンゲリストと比べても、イエスが格上でなくてはならない。イエスが際立った印象を残さないと、それこそ作品の成立根拠が問われてしまいます。
でも現実には、なかなかそうなっていないのですね。たとえばDVDの場合、リヒターの録画もコープマンの録画も、エース(ベリー、メルテンス)はアリアに回っていて、イエスはそれに及ばない、という印象を受けます。やはりイエスには、一世代前の歌い手で言えば、フィッシャー=ディースカウ、テオ・アダムといった超A級の歌い手が必要なのです。
ちなみに、実演で私の聴いた最高のイエスは大阪でのBCC公演におけるマックス・ヴァン・エグモントでした。それこそ後光の射すような、神々しいイエスに感動しました。たしか1991年で、エグモントがあまり歌わなくなってきた頃だったと思います。
イエスの「返答」をめぐって ― 2009年07月17日 23時19分26秒
《マタイ受難曲》対訳見直し。第3点が、もっとも重要かもしれません。それは、重大な問いを突きつけられたときにイエスが返す答にかかわります。
イエスは3つの問いに対し、"Du sagest's"と答えます。第1に、「ラビよ、私ですか?」というユダの問いに対する返答(第11曲)。第2に、「お前は神の子、キリストなのか」という大祭司の問いに対する返答(第36曲)。最後に、「お前はユダヤ人の王か」というピラトの問いに対する返答(第43曲)です。
私は、このすべてに「お前(あなた)の言うとおりだ」という訳を充ててきました。字幕は字数を削減して、「そのとおりだ」としています。聖書をよくご存じの方は、この訳に違和感を抱かれたことでしょう。なぜなら、現行の聖書の訳は新共同訳でも岩波訳でも「それはあなたの言ったことだ」となっているからです。ギリシャ語の原典に忠実なのは後者で、イエスの返答が本来単純な肯定ではなく、一種はぐらかすというか、相手に責任を投げ返すような意味合いのものであることは、現代の聖書研究者が揃って指摘していることです。
私もそのことはよく知っているのですが、著書ではあえて、かつての口語訳聖書にあった「あなたの言うとおりだ」系の訳語を採用しました。しかしそれで良かったのかどうか最近ますます気になり、今回あらためて考えてみました。その結果、やはり修正は見送ることにしました。
その第1の理由は、すでに本に書きましたように、カーロフの聖書注解書(バッハの神学蔵書のひとつ)に、たとえば第1の問いに対して「お前の言うとおり、まさにお前がそれだ」という説明があることです。"Du sagst's"に留保の意味合いがあることを示す同時代のテキストに、私はまだ出会っていません。
もうひとつの理由は、バッハが上記の3箇所に、ト短調、ロ短調、ハ短調の明確なカデンツを置いていることです。Duは必ずドミナントになり、sagst'sですべて、主和音に解決しています。これを聴けば単純な肯定としか思えないわけで、聖書をさほどご存じなくて私の字幕をご覧になった場合、「そのとおりだ」に違和感を覚えられた方は、おられないのではないでしょうか。またその方が、文章も素直につながります。
等々、詰め切れぬところも種々ありますが、字幕は公演の理解にずいぶん役立てていただいたようで、ありがたく思っています。完璧に操作してくださったイヤホンガイド社のオペレーター、山内真理子さん(国立音大卒業生)に感謝を捧げます。
3音節の難題 ― 2009年07月16日 21時54分55秒
《マタイ》の対訳見直し。第2点は、先日の公演で小島芙美子さんが歌った最初のソプラノ・アリア(第8曲)の、主部です。
ここの歌詞、原語は"Blute nur, du liebes Herz"で、私の従来の訳は「血を流されるがいい、いとしい御心!」というものでした。それでも日本語か、と言われても仕方のない拙劣な訳で、もちろん字幕には目をつぶっていました(笑)。
"du"は訳に入れていませんが、二人称の呼びかけで、Herz(心)と同格です。この「心」が私の心か、イエスの心かをめぐって両説あること、当時の神学書の典拠を踏まえるとイエスの心が正しいと思われることについては、私の本に書きました。またそうでないと、中間部の「あなたの育てた子が」のDuとつながりません。
”Blute nur"は「血を流す、出血する」という動詞blutenの命令形、nurは強めの副詞です。そこで「血を流せ」を敬語的に表現する、本来はあり得ない言い回しを考えて、上記の訳を作りました。しかるに原語は簡潔な3音節(!)で、くりかえし歌われる。計7回、ダ・カーポを合わせて14回(!)です。それにしても、もし日本語で歌うとしたら、3音節でどうするのでしょう。「血出よ」ですか(笑)。
”Blute nur"のセットを繰り返し聴くうちに思い始めたのは、やはり"nur"を日本語にすべきではないか、ということでした。この"nur"は、命令形に付いて、勧める気持ちをあらわす言葉です。たとえば大阪夏の陣で天守閣が落城し、火災になった場面を想定しましょう。お付きの武士が秀頼に「もはやこれまでにござります。いざ切腹なさりませ」と言ったとしますね。この「いざ」にあたるのが、nurなのです。かなり強い意味を添える言葉なので、できれば、日本語に反映させたいところです。
というわけでいろいろ考え、「血を流されよ いざ、いとしい御心よ!」と直したのですが、けっしていい訳ではありませんね。さらに考えますが、私の力不足です(汗)。
ちなみに"blutenden Herzens"という副詞句があり、「胸の張り裂ける思いで」「断腸の思いで」などと訳されます。これを応用して「張り裂けよ」と訳す手もありそうです。しかし音楽を見ると、弦楽器に「血の滴り」の音型が一貫して流れている。ですから、意訳に逃げることもしにくいのです。
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