わかりにくい人 ― 2009年11月17日 17時29分20秒
わかりやすい人と、わかりにくい人がいます。私自身はどちらか。それは、今日は置いておきます。いずれにしろ、わかりにくい人というのは、評価がむずかしい。平凡かもしれないし、大人物かもしれないからです。死後評価が定まる、というケースも、こういう人の場合には考えられます。
念頭に置いているのは、鳩山首相です。人品高潔な感じはしますが、わかりにくい感も否めない。就任後述べておられるのは一貫して理想論で、昔学校で聞いたような美しい考えを本当に語る人がいることに、驚きます。現場の大臣たちが汗をかいている中でトップが理想論を語り続けるというのは、高度な戦略に基づいて意識的にそうしているのか、あるいは自分だけいい子になりたいという王子様気質なのか。いったいどちらなのか、興味があります。
なにかと語られる「先送り」も、長期的展望のもとにわざとそうしているのであれば、話は変わってきます。半年後、1年後に、なるほどそうだったのか、そこまで先を見ていたのか、となるのか、ならないのか。なる可能性もゼロではないような気がするので、注目しています。
どうしても気になるのは、副詞が過剰なことです。「適切でない」と断定すべきところで、「必ずしも適切でない」と、たいてい婉曲に表現される。もちろん、頭から「笑止千万」などと決めつける物言いは最悪ですが、物を書く職業である私からすると、「必ずしも」があるかないかで、意味は大きく変化します。少なくとも表現は、わかりやすい方がいいと思います。
友の逝去 ― 2009年11月18日 22時58分08秒
日曜日のこと。悪い夢を見ながら重い眠りの中に沈み、、いっこうに起きられません。ようやく起き出してみると、時間はなんと、お昼の1時近く。妻が「もう少し起きてこなかったら様子を見ようと思っていた」というので、「そしたら大往生だね」と答えました。なにしろ、中川さんの例があります。
こんな経験をしたあとで、訃報が2つ舞い込みました。ひとりは私より年下のいとこ。もうひとりは少し年上の方で、ゲルマニストの山科髙康さんです。まったく予想しないことで、どちらもびっくりしました。お気の毒でなりません。山科さんはヴィオラ・ダ・ガンバの熱心な愛好家でしたので、その筋でご存じの方もおられることでしょう。
山科さんとはたしか杉山好先生の授業で知り合ったのだと思いますが、その後、マッテゾンの読書会をご一緒しました。熱心な会で、合宿も何度か。私は当時大学院生でしたが山科さんはすでに大学でドイツ語を教えておられ、当然一歩上の力をお持ちで、難解な領域に関して、たくさんのことを教えていただきました。バロック時代のドイツ語に私が一定の読解力を培えたのは、杉山先生と並んで、山科さんのおかげです。
最近はお会いするチャンスもなく、どうしておられるかなあと時々思っていましたが、ご逝去され、葬儀もお済みとのご連絡をいただきました。かつてのご恩を思い返しつつ、ご冥福をお祈りいたします。ご一緒した頃に作った『完全な楽長』の訳文は、その後私がかなり増補した段階で、放置されています。いつか、完成できるといいのですが。
WINDOWS7導入記(1):あわてる乞食はもらいが少ない ― 2009年11月19日 23時15分45秒
風邪がようやく抜けて気力が戻ってきたのが、先週の木曜日でした。遅れていた原稿を昼間いっぱいかかって仕上げ(アーノンクールのカンタータ新録音で、BWV140、61、29の3曲です)、夕方から、《魔笛》の授業準備に取りかかりました。
鑑賞→研究→演奏のサイクルで進めていますので、研究の前日は、準備がたいへん。台本と楽譜を細かく見直し、多少は文献も調べて、曲ごとの着眼点をノートしてゆきます。深夜になり疲れてしまったので、残りは起きてからがんばることにし、ワインを飲み始めました。
そのとき、WINDOWS7をインストールしなよ、と、悪魔がささやいたのですね。私は8月にエイサーのデスクトップ機を新調し、格安でWINDOWS7にバージョンアップできる権利を得ていました。ところが、こういうときメーカーはゆっくりしているもので、待てど暮らせど、送ってこないのです。その間に、ノートパソコンと大学の旧機は、もうWINDOWS7マシンに。本機だけが取り残されていたのでした。つまり、いい加減待ちくたびれていた。これが、間違いのもとでした。
翌、金曜日。なんとか起床し、大慌てで残りを準備。譜例をスキャンしているうちに、遅れそうな時間になりました。そこで作成したファイルを印刷しようと思ったら、プリンターが応答しないのです。そう、プリンターのドライバーを、まだ入れていなかった。仕方ない、大学でやろうと思い、USBメモリーを手に、家を飛び出しました。
そんなときに限って、接続が最悪。目の前をバスが2台、タクシーが3台続いて通り過ぎ、次がぱったり来ません。電車も同様で、かなり遅れて大学に到着する羽目になりました。大いに焦った私は、大学のパソコンでプリントアウトを試みましたが、やはりできない。しゃくなことに、理由が同じなのです(ドライバーを入れていなかった)。それなら共同研究室で助手にプリントアウトしてもらおうと思って飛び出し、はっと気がついて戻り、一太郎のファイルをワードのファイルに変換。息を切らしながら研究室に飛び込むと、「助手 外出中」の張り紙が・・・。しょうがない、自分でやろう、と決めて立ち上げてみると、ああ、パスワードが・・・。
この時点で私はすべてをあきらめ、学生に謝罪して、翌週予定の鑑賞と入れ替えて、場をしのぎました。前の日にインストールさえしないでおけば、こうした混乱は避けられたのです(続く)。
WINDOWS7導入記(2):アップグレードのはずが・・・ ― 2009年11月21日 23時00分57秒
VISTAはいくつものタイプに細分化されていますので、アップグレードの可能性が狭くなっています。私のVISTAはデスクトップもノートもBusinessでしたが、7ではProfessionalにする意味があまりなく、Home Premiumで十分間に合いそう。しかしアップグレード・インストールをするためには、Professionaにしなくてはならないのですね。このことをうっかりしていました。
ノートにクリーン・インストールをするのは、既定路線。大学のXPマシンにも当然クリーン・インストールをしましたが、メイン・マシンのOSはメーカーのサービスに発注したものなので、アップグレード・インストールができるものと錯覚していたのです。そこで、ワインを飲みながら「やっとWINDOWS7ね、簡単簡単」などと相好を崩してインストールをはじめてしまったのでした。
あれ、途中で止まった、もう一度・・と作業して気がつくと、Cドライブにあるのは、新しいファイルだけ。クリーン・インストールしてしまっていたのですね。たしかに、必ずバックアップしろという警告は出たのですが、外付けのHDをインストール作業のため大学にもっていってしまっていたので、まあ大丈夫だろう、とそのまま実行してしまいました。皆様、他山の石としてくださいね。
油断の一因が、Dropboxに主要ファイルを上げているという環境にあったことは確かです。でも、ネットにつながらないという現象が発生しては、どうにもなりません。その不便なこと、昔の停電と同じです。仕事にならない。ipconfigとかpingとか、いろいろ勉強して試してみましたが、すべてダメ。そこで最後の切り札を切りました。
切り札というのは、ルーターを買い換えてしまうこと。一からつなげばまず大丈夫で、じつは過去に複数回経験しています。もったいないですが、この先使う時間やサービスマンを呼ぶ費用、面倒を考えると高くない、と判断しました。
最新のエアステーションは、つながらない場合の対処法をじつに丁寧に教えてくれます。それをきちんとたどって最終局面にたどりつき、ほっとしたところ、「プロバイダーに相談してください」の文字が。がっくりきました。しかし、それまでなぜかアクセスできなかった設定画面にアクセスできるようになっており、そこに一定の情報を入れることで、やっとつなぐことができました。やれやれです。インストールから4日後の解決でした。(続く)
ギターに開眼 ― 2009年11月22日 22時47分14秒
皆様は、「わたなべ音楽堂〈ベルネザール〉」をご存じでしょうか。東武伊勢崎線の五反野駅、梅島駅、つくばエクスプレス青井駅から同じぐらい離れた住宅街にある、お堂のような形の小さなホールです。そこで今日、國松竜次さんのギター・リサイタルを聴いてきました。
國松さんは、私が先月のCD3選でタレガの作品集を取り上げた方です。とてもよかったので、一度生を聴いてみたい気持ちにかられていました。そこで、ホームページを調べて今日のコンサートを知り、電話をかけて予約、地図を見い見いやってくる(結局迷いましたが)という、めったにしたことのない行動をとったわけです。
ギターの場合、客席数は25人(!)。正面のかぶりつきで、演奏者との距離は至近の1.5メートル。しかし最初の音が出てすぐに、こうした空間でギターを聴くことがどれほど理想的かわかりました。音量的にはごく小さいはずのギターの音がじつに豊かに響き、細部まで、手に取るように聞き取れるのです。ギターの音の魅力は何より、人間の指が直接弦をはじくことから来ています。その柔らかさ、やさしさ、一種の肉感性は、ハンマーやジャックを使った楽器には出せないものだと思います。
このように魅了されたのは、國松さんの演奏が音を大事にし、慈しむようなスタンスで一貫していたから。写真から「かっこいい」タイプを想像していたのですが、実物は美的な感受性の豊かな、きわめて繊細な青年でした。音楽も汚れないピュアな印象のもので、最後の《アランブラの思い出》に至るまで、私は感動をもって耳を傾けました。
進行を司られていた支配人が最後のご挨拶でなんと私をご紹介くださり、乞われてスピーチをするという、意外な展開。お客様の中に、さる大学で私の本をテキストとして《マタイ受難曲》の授業をしているという方がおられたのにはびっくりしました。このホールあっての今日のコンサートです。皆様も一度訪問してみてください。ホームページもありますよ。
WINDOWS7導入記(3):目下の感想 ― 2009年11月23日 23時05分52秒
いろいろありましたが、すべての環境が、WINDOWS7になりました。そこで、とりあえずの感想です。
すばらしい、と言っていいのではないでしょうか。3台のうちでも効果が著しいのが、大学で使っている、旧XPのマシンです。当然、VISTAにできなかった水準のスペックであるわけですが、XP以上になめらかに動きます。画像がやけに美しく、ディスプレイを買い換えたいという気持ちがなくなりました。
操作性も格段にいいと思います。とくに、エクスプローラーの改良が著しい。タスクバーも使いやすくなりましたね。ですから、XPで二の足を踏んでいる方も、グレードアップの利得にあずかれるはずです。
それにしても、VISTAは何だったのか、という思いに駆られます。CPUをグレードアップし、メモリも増強して導入したというのに・・・。いま指南役にしている解説書には、VISTAへの、ほとんどくそみその批判が連ねられています。だったら、もっと前から言ってほしかったなあ。この著者は、言っておられたのかもしれませんが・・・。本来OSのあるべき形にようやくマイクロソフトが舵を切った、ということですね。ユーザーの力ではないでしょうか。ちなみに、なくなったと思っていた旧Cドライブの内容は、ちゃんと別保存されていました。このあたりにも、目配りがなされているようです。
ピアノ部門、2年目終了! ― 2009年11月26日 11時27分32秒
11月24日の火曜日、私の主宰する国立音楽大学音楽研究所バッハ演奏研究プロジェクト、ピアノ部門の発表コンサートがありました。ご来場くださった方々、ご出演の方々、ご協力をいただいた方々、ありがとうございました。
受講生の発表と指導教員の演奏をドッキングするのが、去年からのポリシー。前半には、今年勉強してきた《パルティータ》第2番と第6番が、選抜された各3人の受講生によって演奏されました。皆さん、オーディションの時より格段に勉強が進んでおり、やはりステージがあることは大事だと実感。安曽麻里江さん→安曽絢香さん→五味ひとみさんのリレーで演奏された第6番の出来映えはすばらしいものでした。勉強を通じて演奏がどんどん変わられたという話で、1年間続けてきた意味を感じることができました。
後半は、加藤一郎、渡邊順生両先生の2台チェンバロによる《フーガの技法》2曲をはさんで、近藤伸子先生の《イギリス組曲第5番》と、渡邊順生先生による《パルティータ第4番》の、ピアノとチェンバロによる競演。おかげさまで、ぜいたくなコンサートにさせていただきました。
ピアノ部門はこれで終了ですが、12月1日に補遺で、加藤一郎先生によるテンポ論の講義があります。どなたでも聞いていただけます。8日は声楽部門の発表です。カンタータ第64番、モテット《イエスよ、私の喜び》、カンタータ第140番を大塚直哉さんの指揮で演奏します。声楽陣の充実はかなりだと思うので、ぜひお出かけください。
久しぶりのNHK ― 2009年11月27日 22時54分44秒
急な依頼があり、久しぶりにNHKの収録に行ってきました。西口の待ち合わせだったので渋谷から行きましたが、渋谷からNHKまでの道に、おいしそうなお店がすごく増えているのにびっくり。私が通わないと、お店が繁盛するようですね。
いろいろな思い出が脳裏を去来しました。たいていは準備が間に合わず、息せき切って駆けつけるイメージ。放送はたいへんでしたが、とてもありがたい体験でした。ひとつは、知名度を作ってもらったこと。もうひとつは、しゃべりの技術を磨いてもらったこと。もうひとつは、世界の演奏の現在に親しませてもらったことです。NHKあっての、今の私だと思っています。
収録したのは12月6日放送の「サンデークラシックワイド」で、バッハの《クリスマス・オラトリオ》、ヘンデルの《メサイア》(抜粋)、オール《アヴェ・マリア》の合唱コンサートの3つが含まれています。スウェーデンの《クリスマス・オラトリオ》は、なかなかいい演奏だと思いました。
放送の仕事も、続けてゆく気配です。ゆとりを作ろうとしているのですが、来年も、忙しくなりそうです。
自分への非情 ― 2009年11月28日 23時56分15秒
放送にかかわったことで身についたこと、大事なことを忘れていました。話を時間通りにできるようになったことです。そもそも人前で話をする場合、時間は2時間のことも、1時間のことも、10分のことも、1分のこともある。それぞれで、最大の効果を収めなくてはならなりません。とりわけ、短い話に少しでも多くの情報を盛り込むことが重要なのです。
それが顕著なのは、生放送。オーケストラが勢揃いし、音が出るまでの40秒間に、挨拶し、曲目のこと、演奏家のことなどを述べなくてはなりません。こういう場合、一番大事なことを先に言い、二番目に重要なことを次に言う。まだ時間があれば、第三のことを滑り込ませる。もちろん、それぞれのメッセージは、秒単位に凝縮するわけです。
こうした技術には、短歌や俳句に近いところがある。1つのことを言って、10のことを知ってもらうテクニックです。すべて、簡潔であるべき。この課題に取り組むと、一般の会話が、どれほど冗長なものかがわかってきます。何を言うかも重要ですが、何を言わずに済ますか、が重要なのです。
新聞のコンサート批評も、簡潔を旨とする意味では、近いところにあります。学会発表も同じ。昔は、与えられた原稿枚数を超過してしまい、ごめんなさい、ということもありましたが、今は、どんなに少ない枚数でも対応する自信があります。そんな枚数では書けない、という話もよく聞きますが、それは錯覚です。ただしそのためには、自分が書きたいことをどんどん削るという、一種の非情さが必要なのです。自分の思い入れに妥協しているうちは、まだ未熟だと思います。
苦戦の結末 ― 2009年11月29日 23時18分25秒
今月のCD/DVD選、ご報告しておかなくてはいけませんね。
バッハ、バロックだけでも目白押しでたいへんだ、と申しました。しかし他の領域にも、枠があれば取りたいものがたくさんあったのです。クレーメルのモーツァルト《ヴァイオリン協奏曲全集》とか、ブレンデルの「フェアウェル・コンサート」とか、佐藤卓史さんのショパン・アルバムとか、佐藤恵津子さんの武満Songsとか。
結局これらをすべて見送り、まずシフの《パルティータ》全曲に、1席を取りました。古楽奏法を踏まえた正統的解釈にますます磨きがかかり、第2番のクーラントなど、なんとイネガル(フランス様式の不均等リズム)で演奏している。プロジェクトで渡邊順生さんが学生に要求され、ピアノじゃなかなかうまくいかないなあ、などと言っていたところだったので、驚きました。確信をもって絢爛と演奏された6曲です。
リフキンの「ザ・バロック・ビートルズ・ブック」も、落とせないという結論になりました。ビートルズのナンバーを組曲やカンタータに仕立てているわけですが、若き日のリフキンの手腕は並の模作とは桁違いで、ヘンデルだ、バッハだと言われても信じてしまいそう。私など、「どこにビートルズがあるの?」という感じです。わが親友、やっぱりすごいです。
DVDもひとつ入れたいので、今回は新宿のタワーレコードに買いに行きました。新譜はどこだ、と聞いたら、まあこの辺だ、というあいまいな返事なので、そのあたりから3点選んで購入。帰って比較したところ、ショスタコーヴィチの《ムツェンスク郡のマクベス夫人》がぶっちぎりですばらしいのですね。クシェイ演出による2006年のライヴで、コンセルトヘボウがオケで入っているのですが、マリス・ヤンソンスの統率が圧巻なのです。すさんだ環境下の惨劇を息もつかせぬ迫力で描きながら、音楽の美しさと品位を保っている。だから、なんとすばらしい曲なんだろう、と聴き入ってしまいます。というわけで、これを1位にしました。
そのことを友人に話したら、それは新譜ではないぞ、とのこと。うっかりしました。しかし、取り上げる機会ができたことはよかったと思います。割を食った新譜には、申し訳ないのですが・・・。
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