号外2012年04月13日 23時49分39秒

ネット全盛の時代に号外が発行されるのだから、よほどインパクトの強い出来事だったのでしょう、北のミサイル打ち上げ失敗は。さすがの木嶋佳苗も、これでかすんでしまいました。

私のような性格の人間から見ると、不思議でならないことがあります。それは、確率的にはかならず存在している失敗に対してなぜ備えをしておかないのか、ということです。鳴り物入りで世界から報道陣を呼んでしまい、国内は祝賀ムードにあふれているというのでは、失敗したときのメンツ失墜は、深刻。指導者は傷つけられない、というのであれば、失敗に備えるのは、周囲が当然行うべき危機管理だと思うのです。

いやむしろ事前の過剰な盛り上げこそが失敗の原因だ、という説を呼んで、なるほどそういう考えもあるのか、と思いました。国威発揚が至上命題となって、現場の状況を押し切ってしまう、というのです。たしかに、歴史上、繰り返されてきたことかもしれないですね。現場の科学者たちの不安と恐怖は、想像に余ります。食うや食わずの人たちが気の毒でならないのは、言うまでもないことです。

相手のメンツをつぶさないでこそいい関係を築ける、というのは、人生で誰もが学習すること。メンツを失ってかたくなになる人はいても、優しくなる人はいません。これからどうなってしまうのか、他人ごととも思えなくなった状況です。

十年目の須坂2012年02月07日 01時22分27秒

「すざかバッハの会」の、第10年度が始まりました。子供の頃を過ごした地域であるためか、行くたびに、一種の高揚感があります。長野駅で助手のまさお君と待ち合わせ、「豚のさんぽ」でソースカツ丼。ますます高揚し、お出迎えの大峡会長と合流しました。なぜかいつも晴れていて、今日は北信三山(飯綱、黒姫、妙高)と北アルプス(鹿島槍を中心とした後立山連峰)が美しく見えます。もう、登れないかもしれませんが。

今年は《ロ短調ミサ曲》オンリーの講座ですから、コアなファンの方がごく少数、というイメージで出かけました。ところが、熱心な方が多く来てくださり、予想の2倍の入り。やっぱり、自分の知識の突き詰めた部分を開陳することで受講生は集まってくださるのだということが、よくわかりました。《ロ短調ミサ曲》についていろいろなところでお話しし、その度に話のまとまりが増してゆくのは、ありがたいことです。もっと向上させたいと思います。

須坂名物のひとつは、お雛様。会場のロビーにも、豪華なお雛様が飾ってありました。しかしお雛様の文化って、衰えましたね。昔、夢をもってお節句を迎えていたのが嘘のようです。お雛様のもっていた宗教的なオーラが失われ、単なる人形になってしまったようで、残念です。

政治に思う2011年06月03日 23時00分02秒

テレビが、直りました。CSチューナーの接触不良が原因でした。家族の不満大合唱には閉口しましたが(笑)、おかげで、内閣不信任案に伴う、世紀の茶番劇を見逃してしまいました。

皆さんのご意見はさまざまでしょうが、私は言葉で生きている人間として、言葉の術策を弄して地位や権力にしがみつく人間を許すことはできません。そんな人が国の頂点に立っているとは、なんとひどいことか、と思います。

私は、人間を政治的と非政治的に分けて、自分を非政治的、と分類しています。もちろん政治的人間も必要で、そういう人がいなくては、組織が成り立たないことも事実。そういう要素が乏しいのは自分の欠点でもあると思いますが(このため多くの方の期待にお応えできていない面があると思います)、非政治的は政治的の一形態、というよくある主張には、反発しています。それは、政治的であることが一義的に重要、という人の発想だと思うからです。政治的でないことで人間の深いところを見ることが芸術に取り組む上で重要だ、という立場を、私はずっと取ってきました。

音楽仲間にも、政治的な人(=上昇志向な人、権力を拡大しようとする人)と、非政治的な人(=音楽本位の人)がいます。私がいっしょに音楽をしたいのは、後者の方です。社会を見て、ますますその実感を強くしています。

理解できないこと2011年05月12日 23時21分09秒

最近ニュースを見ていて心を打たれたこと。それは、畜産業を営む方々がどれほど家畜を愛して仕事をしているのか、ということです。原発事故のゆえに牛を処分せざるを得ず、泣いて見送っている福島の方々を見て、私も涙を禁じ得ませんでした。愛犬家としての立場からの、単なる類推にすぎないのではありますが。

自分だったらどうだろう、と思って被害地からの情報に接するとき、きっとがまんできないだろうと思うのが、一律に避難させられて、体育館その他で生活することです。便宜や待遇のことを言っているのではありません。私なら、制止を振りきっても、家に帰ろうとすると思うのです。

禁止ゾーンに入ったらすぐ死んでしまう、というならともかく。汚染の軽微な地域も、同心円の中にたくさんあるわけですよね。しかも私は、年をとっています。何年先に何%の危険があるから、と言われても、それより今仕事をさせてくれ、自分に一番大切なのは時間なのだから、と言うと思う。そういう方、たくさんいらっしゃるのではないでしょうか。

そう考えると、一律に強制退避、ということの必然性がわからなくなってきます。一時帰宅といっても、本当に不自由な制限が課されている。それが本当に被災者のためなのかどうか、考えれば考えるほど理解できません。

テレビ雑感2011年03月28日 11時59分06秒

私は平素時間の節約を心がけています。そういうとき辛いのは、同じ話を何度も聞くことです。職場の会議では、それをせざるを得ないことが再三あり、なかなか辛いな、と思いつつ、がまんしています。

それもたいしたことないな、と思うほど、テレビで、同じCMが流れていますね。どれも理想主義的なほのぼのCMで、ごもっとも、と思う気持ちが強いだけ、もうわかったから、という気持ちになってしまいます。どういう人が作っているんでしょうか。感動して見ておられる方はそう多くないのではないか、と思えるのですが。

海外の友人から心配の連絡が来ますが、一様に原発の被害に対する厳しい見方としていて、驚かされます。優さんがご心配の風評被害もたしかに大きな問題ですが、大丈夫だ、ただちに健康被害はない、という現状判断ばかりの情報開示の仕方も、受け手を信頼しているとは思えません。危機管理というのは悪い選択肢に備えるものだと思っているので、大丈夫だという判断ばかり強調されると、危機管理の不在、という印象を抱いてしまいます。

カンニング2011年03月08日 18時22分36秒

インターネットを使ったカンニングの件、最初はミステリーの世界の出来事がこの世に出現したように思え、どういう風に落着するのか、興味深く見ていました。そうしたら、計画し腕を磨くことによって個人でも実現できるという単純な結論が導かれ、なあんだという思いです。

同情論が多いのは、なぜでしょう。教育の場における試験は厳格なルールのもとに成り立っていますから、カンニングぐらいいいじゃないか、という意見には与せません。そういう人がいるから、試みる人がいるんじゃないだろうか。当日の見張り番の先生には一定の責任があると思いますが、大学に矛先を向けるのも、行き過ぎのように思えます。

私自身、自他の試験監督をずいぶんやってきました。学内の試験の場合、カンニングで得点を取り、いい成績をもらう、あるいは卒業できる、という不合理は、ひじょうに大きい。したがって、見つかれば処分されます。次がんばれよ、とはなり得ません。入学試験はちょっと違いますが、緊張度のもっとも高い試験であることは確かで、みんなが真剣に臨んでいる場で、カンニングは許されないと思います。

ただ思うのは、やった人は得をしない、ということです。とにかく合格すれば親が喜ぶ、将来得をする、という一心で行われたことだと思いますが、それは甘い。そのようにして京大に入っても、相手は全部京大生です。対抗しようがありません。「むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ」ということわざは、入学試験のためにあるようなものなのです。トップの大学で落伍するよりは、二番手の大学で上位を取ったほうが絶対ためになる、という実例を、たくさん見てきました。よろず、無理は禁物です。

無駄を省く2011年02月10日 11時40分39秒

「無駄を省く」努力が行政の方でも盛んに行われていると、報道されています。結構結構。「エコ」というのは、そういうことですよね。私はお金の無駄遣いをすることはある程度ありますが、時間の無駄は、極力切り詰めています。本当は必要なことまで、切り詰めてしまっているのかもしれませんが。

でも、何が無駄か、という判断はむずかしいのではないでしょうか。未来への投資、学問や芸術への投資は、いつも、判断のグレーゾーンにあります。でも今日書きたいのは、そのことではありません。

私は、制度やシステムを変えることに伴う無駄こそじつは非常に大きいのではないか、と思うのです。選挙も、ここに入ります。こういう制度に変えるべきだ、ああいうシステムに変えるべきだという主張にはいろいろなところで出会いますし、「とにかく変えて欲しい」という希望も、よく耳にする。でも、どんな制度も結局は一長一短だ、という経験を、私はしてきました。

お金をかけ、人手をかけて、新しい制度を採用する。しばらくすると、その制度の思わぬ欠点が目につくようになり、いろいろな調査や議論を経て、新しい制度が採用される。よく見ると、以前の制度に戻っている場合もある。このようにして、多額の金銭と、労力と、時間が失われているのが、世の中ではないでしょうか。実例は皆様に周りを見回していただきたいのですが、わかりやすいとしては、小選挙区制の採用が挙げられると思います。

完璧な制度やシステムはない。それを補うのは、運用です。運用がしっかりしていれば、制度やシステムの不備を補って、合理的に、安価に事を運ぶことができる。もちろん人間ですから、不備を利用した悪い運用が行われ、だから制度の変更が必要だ、ということになっているのでしょうが、身の回りであれば、運用によって伝統的な制度やシステムを活かす、という知恵があってもいいように思います。そういう柔軟性が、だんだん許されない時代になっているのでしょうか。

不思議に思うこと2011年02月08日 11時14分40秒

報道に接して、不思議に思うことがあります。

国家財政の逼迫が叫ばれ、消費税の論議が盛んですね。私も、それは仕方がないと思います。将来の破綻が見えているのに将来にツケを回すというのは、筋道が立たないと思うからです。

しかるに、減税を叫ぶ政治家があらわれ、選挙で大勝し、英雄視する向きもある、というのは、どういうことなのでしょうか。真逆のことが同時に起こっていて、並行して報道されるものですから、とまどってしまいます。どちらが正しいのでしょうか、それとも、どちらかが正しい、というものでもないのでしょうか。

費用対効果2010年12月14日 09時15分35秒

藤原正彦さんの週刊誌連載を、毎回が全力投球の力作であることに驚きながら、読んでいます。

前回は、科学の将来を憂える内容のものでした。どのような研究がどのように人類に役立つかは誰にもわからないことで、研究は無駄を覚悟で幅広く行われていなければならない、しかしどの大学でも予算はどんどん削られ、これでは将来が危ぶまれる、という趣旨だったと思います。どの世界でも同じなのですね。文系の人間から見ると、理系は大きなお金が動く世界ですごいなあ、と思っていたのですが。

はっとしたのは、「費用対効果」という考え方は短期的な発想なので有害だ、と述べておられることでした。「費用対効果」の観点を自分がいろいろな局面に導入するようになっていることに気づいたからです。たしかに、何事も「費用対効果」で考えるのは、縮小、衰退に向かう発想かもしれませんね。

国にも自治体にも団体にもお金がなく、毎年予算が削られていく時代。研究や芸術にお金を、という声もあげにくい環境になりました。しかし現在われわれが享受している便宜や感動が、多数の先達の研究や努力の成果だということを、忘れるべきではないと思います。

続・古典の価値2010年10月23日 09時58分54秒

古典の価値について書いた直後に、大学や知のあり方が今後どうあるべきかを論じた文章を読む機会がありました。権威のある審議会の出した報告書の一部です。

こういう文書をまとめる人もたいへんだなあ、という思いもありますが、それは別として・・・。論旨の骨格にあるのは、世の中がこれだけ大きく変わっているのだから、大学も変わって行かなくてはならない、知の枠組みも時代に合わせて一新しなくてはならない、という考え方であるように読めます。たしかにこういう意見はよく見聞きしますし、本も出ていますね。

昔は、そうではありませんでした。時流に迎合せずに、時流を超えた価値を求めていくのが大学であり、学問でした。その姿勢の中に、古典が位置づけられていたわけです。

「象牙の塔」という言葉もあり、両者は一長一短でしょう、きっと。しかし社会とともに大きく変わることが組織的に提唱され、評価作業などによってそれが圧力になってくると、悪い面の方が多くなるのではないでしょうか。私は、究極の価値というのは人間を超えたものだと思っているので、人間たちによって作られる社会が基準を動かすことには、強い疑問を感じます。転換期にいつも出現した「古典に帰れ」という価値観は、21世紀には出現しないのでしょうか。

明日(24日)18時から、アーノンクール指揮《ロ短調ミサ曲》の生放送(FM)にゲスト出演します。