専門家集団の長所 ― 2010年08月15日 23時28分21秒
マスコミは、悪い面をとらえて攻撃します。しかし物事には両面あって、いいところも見なくちゃいけない。このご時世に相撲取りが独自の美学と行動様式で存在しているのは、力士が力士を教えるという同族集団あればこそです。外部の人間が相撲取りの作法を力士に教えることはできないし、外部の人が仕切る世界になったら、若い力士がトップをあこがれて励むというモチベーションも、成立しなくなるでしょう。相撲が格闘技とは一線を画する文化であるべきであるならば、組織に一定の自律性を許容しなくてはいけないのではないでしょうか。
私は一般論として、専門集団にはそうした自律性が必要だ、という考え方です。大学は学者の、音楽大学は音楽家の、専門集団。もちろんそうした集団の弱さはあり、外部の人を入れて企業のノウハウに学ぶということは大切です。でもだからといって、役所や会社から派遣されてきた人が上に立つべきではない。学問や芸術を極めた人、専門分野で尊敬され目標とされる人が、極力上に立つべきです。なぜなら、学問や芸術がどういうものかを本当に知るためには長期にわたる研鑽が必要で、外部から観察しているだけではけっしてわからない、したがって、そこで起こる事柄を適切に判断できない、と思うからです。
そうしたことができにくい世の中になってきました。専門家集団がその閉鎖性に甘えてきたツケが、回っているのでしょう、きっと。しかしだからといって専門家集団の長所を認めないということになれば、文化はおしまいです。
一寸先は闇 ― 2010年07月12日 17時23分49秒
同じことは、菅さんの場合にも起こりました。いまのうちに選挙を、という作戦が、みごとに裏目に。それにしても、運命が変転するスピードの、なんと速いことでしょうか。ほんの数日で、がらりと風が変わってしまうのですから。
研究・教育の分野では、政治よりずっと、地道な積み重ねが可能です。それをありがたいと思っていますが、人生の流れは、どんなことで変化するかわかりません。評価は棺を覆ってから定まる、と言われるのは、こうしたためかもしれませんね。このように先が見えないからこそ、占いが尊ばれ、タコの人気が高まるのでしょう。
こわいことのように思いますが、だからこそ人生が面白い、というのも、確かだと思います。変転定めなき世の中を実感するのは、何よりも、選挙の時です。本音と建て前に乖離がある人たち、平素言を左右する人たちの気持ちが手に取るように顔に出ているのは、見応えがあります(笑)。
相づちは必要か ― 2010年05月09日 22時40分53秒
これ以上わかりやすいのはない、というほどかみ砕いた解説を売りにする、ある報道番組。タレントが大勢、聞き役になっています。するとこの外野席が、やけに相づちを打つのですね。「へえ~」「そっかあ」「ほーー」などと、休みなく反応する。これって、絶対やらせですよね。大学の授業で学生がいちいち「へー」「ほー」と相づちを打つことなど、考えられません。
なぜ、相づちが必要なのでしょうか。盛り上げ役?権威付け?感心できませんね。そこには、批判的に聞く知性が、まったく介在していないからです。
世相や社会の出来事を解説するとき、答えは1つではありません。どんな権威を招いても、人によって言うことは違いますから、それぞれを参考にしながら、何が正しいのかを考えていかなくてはならない。話す方も、そういう聞き方をしてくれると思えばこそ、個人的な意見も主張できるわけです。口々に「へー」「ほー」と言って欲しいと思う人は、いないと思う。視聴者を尊重していれば、こういう番組作りはできないはずなのですが。
理解しにくい話 ― 2010年04月09日 23時55分50秒
個別的には、なるほどもっともだ、ということもあることでしょう。しかし、多くの反対を個人が押し切ろうとする図式の旗印に「民主主義」が挙げられたりすることには、どうしても理解が及びません。大局的に見れば、それは個人の側の権力志向であり、ゆきつくところは独裁だと思います。そこに、例外はあるでしょうか。
そんなことを思うものですから、制度改革に燃えている、という人を見るとまず疑惑を抱いてしまう、という反応を脱出できません。たとえばそういう首長がいるとして、その人は必ず、権限の強化を求めてきます。「地方分権」の主張にも、そうした側面があります。筋道で言われていることを個人の願望に置き換えて考えてみることも、有益ではないでしょうか。まあそう考えることも、私の非政治性のあらわれだと思いますが・・・。
新政権 ― 2009年09月25日 23時15分59秒
民主党政権になって、世の中がどう変わるか、興味があります。文教行政ががらりと変わる、という情報もありますが、どうなんでしょうか。可能性としては、良くなる、悪くなる、変わらない、良くなる部分と悪くなる部分がある、という4つの選択肢があると思いますが、何がどう良くなり、何がどう悪くなるかわかるのも大事なことで、将来役に立つことでしょう。
突っ込んだ政治論議は性に合わないので、雑感を少々。すごく印象的なのは、鳩山幸さんの行動力です。あのエネルギー、バイタリティは、年齢からしてはとうてい考えられないことで、生来超人的なテンションをお持ちなのか、あるいはある程度努力されているのか、興味があります。帰宅してああ疲れた、とへたりこむとすれば常人ですが、テレビの画面からは、そんな片鱗も窺えません。
多くの方が、ダムのことで前原さんお気の毒、と思って見ておられるのではないでしょうか。政治が結局は利害の調整であるとすれば、板挟みになって叩かれるのは仕方ないのですよね、きっと。ダムをどんどん造るのはよくないと私は昔から思っていましたが、今回のような場合、中途放棄も問題のような気がします。理想的には、自然を全部修復し、昔のままにしてあげるのがいいわけです。途中放棄された建造物がドーンと居残っているのでは、自然破壊のツケだけが残るわけです。
新政権で私がどうしても良くないと思うのは、信任を受けたとはいえない少数党が連立を機会に張り切り、自分たちの政策を押し通そうとしているように見えることです。このあたりもどう推移するか、興味があります。
人ごとですが ― 2009年08月31日 23時56分55秒
選挙、台風。大嵐が同時に来たような昨日今日でした。私が選挙好きなのは、悲喜こもごもの報道を通じて、人間の生の姿を見ることができるように思うからです。当選と落選、このぐらい明暗がはっきりしているものはなく、候補者が全身で、その違いをあらわしています。
私にとってはまったく人ごとの世界ですが、過去にクラシック音楽の領域から政界に挑戦した人が、いないわけではありません。しかし、生きるも死ぬも他人の投票次第、という世界って、どうなんでしょう。思えばわれわれの世界も、最終的には他人の評価だということなのかもしれませんが、基本的には、自分の勉強をコツコツ積み重ねるやり方が可能です。自分の名前を書いてもらうために「お願いします」「助けてください」と叫ぶ行動は、とても縁遠く感じられるのです。
よく考えてみると、選挙というのは、大学にもあるわけですよね。私はほとんど興味がありませんが、興味をもつと、深入りしてしまうものなのかもしれません。それにしても、過去には予見できなかったことがどんどん起こりますね。歴史の流れに、感慨を憶える選挙ではありました。5年後、10年後は、いったいどうなっているのでしょうか。
修士号? ― 2009年08月17日 22時52分52秒
新聞で面白い記事を読みました。ドイツの女性の提出した修士論文が話題になっている、という内容です。この女性は、トイレの落書き700件を収拾して分類・考察し、人間は「思い込みで自己主張する派」と「自分の意見はないのに他人の欠点をあげつらって攻撃する派」の2つに分かれる、という結論を導き出したというのです。結局人間はこの2種類しかないのかもしれない、というオチがついていました。
なかなか、辛口な発想ですね。でも人間、それほどひどくはないと思いますよ。小さな新聞記事でどこまで論評していいかわかりませんが、私が思うには、トイレに落書きするのは特別な人であり、その特別な人が、2つに分かれるというだけのことではないでしょうか。それにしても、これだけ丹念に読んで記録にさえしてくれれば、落書きした人は本望でしょうかね。
独創的な切り口とは言えるとしても、大学のトイレの落書きを700件集めただけで、修士号が取れるものでしょうか。どういう専攻かわかりませんが、ちょっとお手軽なように思えます。ちなみに著者は、キャンパス内の40のトイレを巡回して情報を集めたそうです。
等身大が好き ― 2009年07月06日 21時42分52秒
昨夜は、深夜までウィンブルドンの決勝を見てしまいました。まったく互角の延長戦、すばらしい見物ではありました。私のテレビ視聴時間は、学生たち(←テレビを見ない、という人も結構いる)に比べて、長いようです。スポーツ観戦を除けば、種々のニュースや報道番組、そしてミステリーといったあたりです。
ニュースをハシゴするので、同じ発言を何度も耳にします。たとえばどこかの知事さんの、「総裁候補にしてください」「私が出馬すれば党は負けません」「後継は傀儡にします」という類の発言。まともに取れば理解できないというか、思い上がった発言だと思いますが、これがそれなりのインパクトで受け止められているのは、元お笑い芸人というキャラクターのなせるわざかもしれませんね。しかし人を煙に巻く発言、大言壮語やはったりは、政治の場では面白がるわけにはいかないと思うのです。やはり、言葉をそのまんま信頼できる人に、上に立って欲しいと思います。
私は自分を大きく見せようとする人は嫌いですが、ことさら小さく見せようとすることも好きではないし、そんな必要はないという考え方です。見栄、謙遜、言い訳などからなるべく離れ、等身大で堂々としていたいなあと思いつつ(もちろん完全には実践できませんが)、日々を過ごしています。
(付記)タイトル、誤解された方はおられないでしょうね??
学者のポスト ― 2009年03月27日 11時11分42秒
少子化で、どこの大学も、新入生集めに四苦八苦しています。統合されるところ、定員を減らすところ、学部を閉鎖するところなど、さまざまですね。
大学生が減るということは、大学の先生も減るということです。すなわち、大学の先生になれるチャンスは、いま減りつつあります。私が本拠とする音楽学がまさにそうした状況にありますが、多くの分野が同じ困難に直面しているようです。語学なども深刻だ、と伺いました。
専攻してもなかなか就職できない、となれば、当然、その分野に人が集まりにくくなります。不安をもって勉強している若い人たちも、たくさんいらっしゃることでしょう。
ただ今は、そうした状況を自力で打開するための手段も、それなりに存在しています。博士課程などで、学位を取る。論文を書く。学会で研究発表する。留学する。研究プロジェクトに加入して実績を積む、等々。ただ待っているだけではポストは取れませんが、いわゆる「業績」を地道に積み上げることはできますし、そうした業績が結局はものを言うのが、専門家の世界です。本当に実力があり、それを明示するアウトプットをもっていれば、そうした人をほっておくほど、どの分野も、人材は過剰ではありません。
専任のポストを取るのもたいへんですが、劣らずたいへんなのは、学生を終えて、どこかに非常勤のポストを得ることです。教歴がなく、業績も多くはないはずだからです。大学に非常勤のポストをもっているのといないのとでは、研究者としての存在感が大きく異なる。それは事実ですから、そのために、若い人たちも努力して欲しいと思います。
私の若い友人、YM君が、この4月からポストを得ました。いつも飲み会の盛り上げ役を務める好青年で、FMでも活躍しています。これからがんばってください。
教訓 ― 2009年03月24日 23時41分43秒
私が乗るバス停では、ときおり行列ができます。その列はたいていだらしなく伸びていて、間が空いている。したがって、雨や日光を避けることができるのは、前の人だけ。それが気に入らない私は、昔の整列の感覚で、前の人との間をなるべく詰めて並ぶようにしていました。
バスに乗れば乗ったで、混んでいるときには、無駄な空間を省かなくてはなりません。前の人が進めばその後について進み、後の人のために余裕を作ります。
先日もそのようにしていましたら、私の前にいた女性が、私を痴漢だと思ったようなのです。なぜそれがわかったかというあたりは省きますが、私としてはその人のことなどまったく気にもとめずにイヤホーンで英語を聞いていましたので、ただただびっくりしました。そこで思い出したのは、セクハラかどうかは女性がどう思うかで決まる、という常識(?)でした。
このような形で罪に問われた人たち、案外多いのではないでしょうか。教訓はただひとつ。列を詰める習慣をつけてはいけない、ということです。
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