テレマンもいいですね ― 2010年05月07日 00時41分26秒
29日は《パリ四重奏曲》の特集。これはもちろんテレマンならではの世界なのですが、28日の初期作品の特集が、自分としては面白かったです。10代後半、ヒルデスハイム時代に書いたカンタータなんて、天才的ですよ。ライプツィヒ大学の学生だった時代のカンタータも重みがあり、テレマンが基本的には、ルター派教会音楽の正統を受け継ぐ力量の持ち主であったことを窺わせます。どうやら年を重ねるにつれて、楽天的になっていったようです。私もそうかな。
昨日も石丸電気に行って、輸入盤のCDをたくさん集めてきました。プログラムを作るにあたって幅広く耳を通しますから、とても勉強になります。知られざる演奏家による信頼のおける録音が、ずいぶんあるものですね。ペーター・ヴォルニーやクラウス・ホーフマンのような一流の人も、よく解説を書いている。面白いものを、たくさん紹介してゆくつもりです。
モーツァルトのアルト? ― 2009年09月14日 22時58分12秒
モーツァルトのオリジナル楽譜では、ソプラノ、アルト、テノールは、ハ音記号で書かれています。ソプラノはソプラノ記号(第1線がc)、アルトはアルト記号(第3線がc)、テノールはテノール記号(第4線がc)で書かれているのです。バスは、へ音記号。全部違う記譜法ですから、読むのがたいへんです。この点では、バッハも同じ。ト音記号は、声楽用には使われませんでした。
したがって、その楽譜の声種が何であるかは、音部記号を見ればわかる、ということになります。そこで調べてみると、《フィガロの結婚》に登場する5人の女声(伯爵夫人、スザンナ、ケルビーノ、マルチェッリーナ、バルバリーナ)のパートは、全部ソプラノ記号で書かれていることがわかりました。《ドン・ジョヴァンニ》は、どうか。これも同様で、アンナ、エルヴィーラ、ツェルリーナのいずれも、ソプラノとして記譜されています。
《コシ・ファン・トゥッテ》では、フィオルディリージ、ドラベッラ、デスピーナが、すべてソプラノ記譜。《魔笛》も驚くなかれ、童子や侍女の第3パートを含めて、すべてソプラノ記譜なのです。ソプラノが広い概念で、現在のメゾを含んでいた、とも言えるでしょうが、両者の間にはっきり線を引くことは不可能です。
ここで、次の疑問が出てきました。それは、モーツァルトのオペラに一体アルトは存在するのか、という疑問です。
円熟期のオペラには、ひとつもありませんでした。そこで舞台作品を前へ前へと調べていくと、最初のオペラ・セリアである《ポント王ミトリダーテ》のファルナーチェがアルト記号で書かれており、これが唯一の例外であることがわかりました。一般論として、モーツァルトのオペラではテノールとバスに対応する女声の分離は見られず、もっぱら高めの音域が活用されている、と言えそうです。このことは、おそらく当時のオペラハウスの状況とも関係があるのでしょう。
これが意外に思われるのは、合唱の第2声部がつねにアルト記号で書かれているためです。ミサやレクイエムのソロは、ソプラノ、アルト、テノール、バスの4声部です。たとえば〈トゥーバ・ミルム〉の場合、モーツァルトのスケッチでは歌声部が途中まで一段で書かれていて、記譜がバス記号、テノール記号、アルト記号、ソプラノ記号と変わってゆきます。そしてそのたびに、歌い手が交代するのです。
マルチェッリーナ考 ― 2009年09月13日 18時21分27秒
昨日の土曜日は、「モーツァルティアン・フェライン」の例会で、8年ぶりに講演しました。モーツァルトにかけては抜群に物知りの方々の前でお話しするのは気が引けるのですが、昨年の《フィガロの結婚》の授業で楽譜と台本を見直し、新しいことにいろいろ気がついていたので、その点をまとめてお話ししました。
その中で皆さんがいちばん興味をもってくださったのは、女中頭マルチェッリーナに関することです。モーツァルトはマルチェッリーナをソプラノとして考えていたが、現在はメゾソプラノで歌われる、その傾向は、第4幕のアリアを省略する慣習の定着によって加速されたのではないか、という仮説をまず述べ、その根拠として、第4幕のアリアがハイhを含むかなり高い音域のコロラトゥーラで書かれていること、第1幕のスザンナとの小二重唱で両者のパートがカノン風に書かれ、音域上の差異が設けられていない、ということを述べました。
その副産物として考えられたのは、本来のマルチェッリーナが今風に言えばアラフォーの、色香を充分に残した、なかなかすてきな女性像だったのではないか、ということです。マルチェッリーナをすっかりお婆さんにしてしまう演出も多く、それはそれで「にもかかわらずフィガロと結婚しようとしている」ストーリーを面白くするのですが、それでは、スザンナが彼女と張り合って本気で嫉妬することの根拠が、弱くなります。第4幕のアリアにも、「色香」がぜひ必要であるように思われます。
お婆さんタイプの典型はガーディナーの映像ですが、この日鑑賞したアーノンクールとチューリヒ歌劇場の映像ではエリーザベト・フォン・マグヌスがまさに色香イメージで演唱していて、これでこそ、と思いました。そう思って見ると、若々しいマルチェッリーナは、珍しくないですね。今までは、これじゃちょっと若すぎるな、などと思っていたものですから。
マルチェッリーナのアリアはメヌエット調の優雅なものですが、山羊でさえ互いの自由を尊重する、というくだりの「自由」というところで、唐突に、大きなコロラトゥーラが出現します。これは《ドン・ジョヴァンニ》の「自由万歳!」を連想させるもので、モーツァルトのひそかなメッセージではないだろうか、というお話もしました。マルチェッリーナの声部をモーツァルトはソプラノ記号で記譜しているのですが、これについては次話で。
ハイドンの愉しみ ― 2009年08月20日 23時54分39秒
没後200年を迎えたハイドンの音楽、皆さん、楽しんでおられますか?けっして盛り上がっているようには思えませんよね。大音楽家として知られ、尊敬されていても、人気はもうひとつ盛り上がらないように見受けられますが、それは、日本だけではありません。ウィーンのハイドン記念館も閑散としていて、トイレさえないのには往生しました。
外国のことはともかくとして、ハイドン人気が日本でもうひとつなのは、日本の音楽ファンが音楽を情緒的に聴く傾向があるからではないかと思います。音楽に感動を求めるスタンスを捨て、あたかもからくり屋敷を探検するような好奇心で音に耳を傾ければ、ハイドンほど面白い音楽も、そうありません。
そう思ったのは、ノリントン指揮、シュトゥットガルト放送交響楽団のDVD(ヘンスラー)を見たから。第96番《奇跡》、第101番《時計》、第1番の3つの交響曲が、ユーモアとウィットの固まりのように演奏されていて、こういう音楽を楽しむゆとりをもちたいな、と思いました。
ハイドンの輸入DVDでは、アンドラーシュ・シフが解説しながらピアノを弾いているフンガロトンのDVDが圧巻です。頭が指に直結しているように見事にコントロールされたピアノで、形を作りながら形をこわし、形をこわしながら形を作っていくハイドンの楽想が生き生きと表現されています。
温存の術 ― 2008年10月16日 23時20分39秒
《トゥーランドット》、すばらしい作品ですねえ。「なんていい曲なんだろう」と嘆声を上げながら長いオペラを聴き続けるということができる曲は、オペラ史においても、わずかだと思います。プッチーニが死んだあとは、ダメですけど。
高校の頃から、エレーデ盤でこの作品に熱中していました。高校の図書館で〈泣くなリューよ〉の楽譜を見つけてその流麗な書法に感嘆し、楽譜に書き写したことも覚えています。当時はこれと、〈誰も眠らぬ〉(←超名曲)のテノール・アリアが当初のお好みでしたが、最近は、第2幕のトゥーランドットのアリアが一番好きです。第1幕から第2幕の第1場まで、絶えず指し示され、仰がれながら声を出さないトゥーランドットが、ここで初めて歌う。しかし最初はレチタティーヴォの連続(ローリンの物語)で少しずつ、少しずつ盛り上げ、後半に至ってようやく、感動的な旋律が湧き上がってくる。このじらしというか温存の術が、プッチーニの真骨頂です。
《トゥーランドット》の公演では、トゥーランドットが突出して輝いていなくてはなりません。リューが場をさらってしまってはダメで、しかも、そうなりやすい。先述のエレーデ盤などは、テバルディ/デル=モナコの前で、ボルクがすっかりかすんでいました。しかし今度の新国の公演では、見事にトゥーランドットが君臨していましたね。イレーネ・テオリンというデンマークのソプラノ、すごいです。他のキャストも皆よかったですが、感心したのは合唱。オペラのドラマにガッと食い込む歌いぶりで、今や、新国の目玉になりつつあります。
《トゥーランドット》を素材に、ドラマトゥルギー論を作ろうと思いたちました。火曜日の「音楽美学概論」で披露します。
ジュリアス・シーザー ― 2008年08月16日 22時11分52秒
ヘンデルのオペラ《ジュリアス・シーザー》のDVDをあらためて鑑賞しました。2005年グラインドボーン音楽祭のライヴで、演奏は、ウィリアム・クリスティ指揮のエイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団。作品といい、演奏としい、演出(デイヴィッド・マクヴィカー)といい、まれに見るすばらしさですね。圧倒されました。
いまどき、こんなに舞台が豪華で、衣装がきれいで、凝った動きがきちんとできあがっているプロダクションって、珍しいのではないでしょうか。クリスティの統率力はたいしたもの。ドラマの中からアリアが始まるところなど、「わあこの曲だっ!」とその都度思わせられるような形で、絢爛と立ち上がってくるのです。ナチュラルホルンが響くオーケストラの力強いこと、《花火の音楽》のごとし。
キャストがまた卓抜です。女性の歌う女性役2、男性が女声音域で歌う男性役2(←カウンターテナー)、女性の歌う男性役2で、とにかく高音域のアリアばかりが、次々とあらわれる(男性の歌う男性役は脇役1のみ)。カストラートの世界ですね。でもタイプの違う一流どころを揃えているので、違和感はありませんし、むしろ、オクターヴ下げて男が歌うのではダメなのだな、と実感しました。
学術文庫の拙著ではド・ニース(クレオパトラ)のど派手な活躍ぶりについて書きましたが、今回はそれ以上に、主役のサラ・コノリーに感心しました。まったく、度肝を抜かれる男ぶり。ダ・カーポ・アリアでの変奏も音楽的だし、二重唱ではソプラノを完璧にフォローしている。すばらしい歌手がいるものです。
昔の音楽史では、ヘンデル後半生のオラトリオを高く評価するあまり、オペラを軽んじていました。しかし、本格的に復活してきてみると、オペラの方が面白いですね。手持ちの映像だけで、8作品もある盛況です。演奏が平凡だと単調になりやすいが、一定レベルを超えると、急に作品が輝いてくるのが、ヘンデルのオペラであるようです。
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